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喫茶物語  作者:
2/11

二 桐島伸吾 後編

 きっかけは些細なことだったように思える。

 頭痛に吐き気、そして両目の痛み。最初は眼精疲労とただの風邪だと思っていた。

 画家として少しは名前が売れてきた頃だったので、僕はたかが風邪と気に留めることもなく一心不乱に絵を描き続けていた。


「ねぇ、まだ?」


「ごめん、もうちょっと待って」


 椅子に座った状態で、先ほどから膨れっ面をしている恋人の紗綾香は恨めしそうな視線を僕に向けてくる。僕はそれに苦笑しながら、目の前に置いたキャンバスに筆を運び続けた。


「その絵、いつ完成するの?」


「あとちょっとかな」


「あなたって、いつもそう言うじゃない」


 文句を言いながらも、座ったままでいてくれる紗綾香の優しさに僕は心が温かくなる。


「最近頑張りすぎじゃない? 他にもいくつか仕事用に絵を描いてるんでしょ?」


「うん。でもこれは仕事の絵とは関係ないよ。僕が描きたいから描いているだけ。ごめんね、仕事で疲れてるのに、無理言っちゃって」


「まぁ、伸吾の好きなものは何でも絵に描きたい病は今に始まったことじゃないから慣れたけどねー」


「はは、ごめんね」


「ううん、気にしてないよ。だってさ、好きなものの中に私も含まれてるんだなーって思うと、嬉しくなるじゃない?」


 でも、と紗綾香は唇を尖らせた。


「体を酷使して、倒れたりしないでよね。最近具合悪いんでしょ?」


「うん、まぁ……でも大丈夫だよ。薬は飲んでる。それに多少は無理しないと、紗綾香にばかり負担はかけさせられないよ」


 今現在、僕と紗綾香は小さなアパートを借り受け、二人で暮らしている。多少絵が売れるようになってきたが、収入が不安定な僕一人では今の暮らしを維持することは難しく、紗綾香も家計を支えるべく働きに出ていた。

 僕たちが付き合い始めて、そろそろ五年になる。僕としてはいつまでも今のような状態を続ける気はなく、きちんと籍を入れて暮らしていきたいと思っていた。そのためには多少無茶をしてでも、一枚でも多くの絵を売っていくしかない。だが、今描いている絵だけは違う。これは二人の絆を形として描いたものだ。

 キャンバスには椅子に座る紗綾香の姿が途中まで描かれていた。あとは顔の部分を描けば完成となるのだが……

 紗綾香は猫のように気まぐれで、表情をころころと変える。そこが魅力的なのだが、果たして、このキャンバスにはどんな表情の紗綾香を描けばいいだろうか。


「私は今の暮らしでも十分満足してるんだからね?」


「そこはほら、男のプライドってものがあってだね」


「また、それ? お願いだから倒れるようなことだけはしないでよ」


「うん、大丈夫。気を付けるよ」


「よろしい、じゃああと少しだけ付き合ってあげましょうか。これが終わったら伸吾の好きなオレンジエードを作ってあげるね」


「それは嬉しいね。じゃあ、気合入れて美人に描かないと」


 そう言って、お互いに笑い合う。

 苦しいことや辛いことも多いが、それでも紗綾香と二人一緒なら乗り越えられる気がした。この頃はそう思っていた。

 そして、それから二か月後。

 何の前触れもなく。唐突に。

 僕は、両目の視力を失った。





 混乱したなどという言葉では形容できない衝撃があった。紗綾香に連れられて病院へ行くと、難しい単語が並ぶ病気の名前を医師に告げられた。風邪だと思っていた症状は、実は目の病気に現れる徴候だったらしい。

 失ったものは戻らない。それは目の光に関しても同じだった。

 世界の全てが闇に消えた。今まで目に見えていたものが一瞬で消え失せたのだ。音は聞こえる。手を伸ばせば、触れられる。しかしそれを視認できない。目を開けているのに、何も視えない。

 気が狂いそうだった。紗綾香に手を引かれなければ、家の中でさえまともに動くことが出来ない自分がふがいなかった。

 当然、もう絵を描くことは出来ない。僕は画家としての道さえも閉ざされてしまったのだ。絵を描くことが全てだった。それ以外に突出した才能を持ち合わせていない僕には、絵を描くことしか出来なかったのだ。そしてそれを奪われた。僕にはもう紗綾香しか残っていない。

 紗綾香は優しかった。一緒に泣いて、理不尽な運命に怒り、抱きしめてくれた。

 それが嬉しくもあり、悲しくもあった。僕は紗綾香がいないと何も出来ない。紗綾香に頼らなければ、生きていくことさえ出来ない。そんな自分が情けなくて、惨めで、心苦しかった。

 ある日、紗綾香は彼女の実家に引っ越さないかと提案してきた。それは当然のことだろう。ただでさえぎりぎりの暮らしだったのだ。何もできない僕を抱えて、二人で暮らすことなど出来るはずはないのだから。

 僕はこのままずっと紗綾香に面倒を見てもらいながら生きていくしかないのか。

 紗綾香は好きだ。愛している。しかしその愛に一方的に縋ってしまっていいのか。

 もう幾度と繰り返した答えの出ない問い。僕の精神は徐々に、無力な自身への怒りによって苛まれていった。

 紗綾香は点字を覚えて教えてくれたり、松葉杖を買ってきてくれたりと、僕に尽くしてくれる。その愛がだんだんと辛く感じるようになってきたのは、一体いつ頃ぐらいからだっただろうか。

 紗綾香の愛に何も返すことの出来ない自分。

 紗綾香に依存してしまっている自分。

 無力な自分。

 情けない。消えてしまいたい。こんな僕が紗綾香に一体何をしてやれる。紗綾香の今後の人生の足を引っ張っていくだけじゃないのか。そんなことばかり考えるようになっていた僕は、一度だけ彼女に別れ話を持ちかけたことがある。健康体の彼女には、まだ先がある。幸せになれる道はいくらでもあるはずだからと。

 その日、紗綾香は初めて僕に対して本気で怒った。些細なことで小さな喧嘩をしたことは何度もあったが、彼女が本気で怒ったのはそれが初めてだった。

 だけど、やはりその愛が僕の心をきつく締め上げていく。苦しかった。痛かった。その痛みから逃れるように、僕は描きかけのまま放置していた紗綾香の絵を破り捨てた。これは僕たちの想いの形だ。この絵を破り捨てれば、この苦しみから逃れられる。そう思いこんだ。

 紗綾香は泣きながら、僕の頬を叩いた。

 もう、限界だった。

 僕は逃げるように、家を飛び出し、

 近くから車のクラクションの音が聞こえ、

 そこからの記憶はない。





「気が付くと、僕はこの店にいたんだ」


 そう言って、桐島さんは困ったように頬を掻きながら笑った。


「ちょ、ちょっと待って」


 頭が混乱していた。桐島さんの話を信じるなら、桐島さんは両目を失明していることになる。


「目、見えてるのよね?」


「うん、不思議だね。ここでは目が見えるんだ」


「絵……破り捨てたんだよね?」


「そうだね、どうしてこれがここにあるのかも不思議だ」


「……ワケ分かんない」


 最後に聞こえたという車のクラクション。

 もしかして……桐島さんはそのときに……


「まぁ、僕もそうなんじゃないかと思ってる」


 私の表情から読み取ったのか、桐島さんは小さく頷いて見せた。


「僕は、きっとそのときに死んだんだ。ねぇ、マスター。ここは天国なのかい?」


 桐島さんはマスターに尋ねるが、


「私にも分かりかねます」


 と、マスターは答えるだけ。


「ただ、この店を訪れるお客様方は皆何らかの心残りを抱えているようです。私はそれを昇華するお手伝いをしているだけなのですよ。私にはそれぐらいのことしか出来ませんので」


 私はメッシちゃんに視線を向けた。私の視線に気付いたメッシちゃんは小さく鼻を鳴らして、


「……そうね、私もきっと死んでいるんだわ」


 他人事のように言い放った。

 いやいやいや、待て。待ってくれ。ここは天国? 未練を抱えたまま死んだ人が集まる喫茶店? ありえない。いまどきドラマにもなりやしない陳腐な話だ。何よりも、


「私は死んでないし! 生きてるし!」


 そうだ、私は死んでない。ここが天国なのだとしたら、どうして私はここにいる。おかしいだろう。だから、ここは天国でもなんでもない。きっとみんなで私を騙そうとしているに違いない。もしかしたらどこかでテレビカメラが回っているのではないか。そうだ、そうに違いない。桐島さんの話もきっと作り話なんだ。


「私は信じないからね! こんな不気味な店、さっさと出て行ってやる!」


 席を立ち、入口のドアに向かう。誰も止めようとはしなかった。

 私はドアノブを握り、力いっぱいに開け放とうとして、


「……えっ?」


 開けることが出来なかった。まるで反対側から誰かが押さえつけているかのように、どれだけ力を入れようと、ドアはぴくりともしない。


「無駄よ。マスターの言う心残りを片付けないと、ここからは出られないわ」


 嫌悪感を滲ませながら、メッシちゃんが言う。


「嘘だ……嘘よ……」


 私は桐島さんの方を見た。彼の前にはキャンバスが置かれている。途中まで描かれた紗綾香さんと思われる女性の絵。

 あれが桐島さんの未練……?

 彼は絵を完成させようとしているのか。もう死んでしまったというのに。

 頭の中が真っ白になって、私はその場にへたれ込んだ。

 未練……心残り……私にとってそれは何を意味するのか。分からない。分かるはずもない。


「美春さん、大丈夫かい?」


 見かねたのか、桐島さんが手を引いて立たせてくれた。


「まぁ、最初は驚くよね。僕も随分驚いたものさ。そこのメッシちゃんもね」


 メッシちゃんの方を向くと、彼女は慌てて視線を逸らし、そっぽを向いた。


「……もう、大丈夫」


 まだ自分が死んだなんて信じられない。それでも、この店から出ることが出来ないのは事実で。


「ほら、席に戻ろう。マスター、彼女に何か飲み物を」


「どうぞ」


 席に戻った私の前に、またあの甘ったるいカフェ・オ・レが差し出される。


「甘っ」


 けれど、その甘さが少しだけ心を温かくしてくれた気がした。

 落ち着きを取り戻した心で、これからのことを考えてみる。

 最も優先すべきは、この店からの脱出だ。しかし唯一の出入り口であるドアは不可視の力で閉じられている。手がかりとなるのは、メッシちゃんの言葉だ。


『無駄よ。マスターの言う心残りを片付けないと、ここからは出られないわ』


 メッシちゃんの言葉を信じるなら、彼女はこの部屋から出ていく人を見ていることになる。いや、彼女だけではない。メッシちゃんよりも先にここに来たという桐島さんもそれは目撃しているはずだ。そして彼らが言う、この部屋から出ていくための条件が、心残りを片付けることらしい。

 ……本当にそれで出られるのだろうか。

 今、桐島さんは彼の心残りだという、紗綾香さんの絵を完成させようとしている。

 もし彼が絵を完成させたなら、彼はここを出ることが出来るのだろうか。そのとき私も一緒に出ることは可能だろうか。

 試してみる価値はあるよね。

 どうせ何も分からない状況なのだ。まずは桐島さんで様子を見守ることにしよう。





 筆を握り、キャンバスを前にして、描きたいものの姿をイメージする。イメージは当然、恋人の紗綾香だ。苦労をかけっぱなしだった愛しい人。彼女に想いを馳せながら、僕は腕を動かそうとして、


「やっぱり駄目か……」


 腕を力なく落とした。

 描きたいものははっきりしているのに、描くことが出来ない。理由は分からなかった。まるで僕自身が絵を完成させることを拒んでいるかのように、キャンバスを前にすると僕の腕は動いてくれないのだ。


「……描けないの?」


 悄然とした様子だった美春ちゃんは調子を取り戻したらしい。席に座りながら、頬杖をついた顔だけこちらに向けて、話しかけて来た。

 パーカーにスカートという出で立ち。歳は……高校生ぐらいだろうか。肩口で揃えた髪は脱色され、耳にはピアス。顔つきには幼さが残るものの、どこか退廃とした雰囲気を纏った不思議な少女だ。


「うん……自分でもよく分からないんだ」


 思えば、生きていた頃もそうだったのではないか。あのときも何故か紗綾香の顔の部分を描くのをためらっていた気がする。

 どうしてだろう。何故僕は紗綾香の顔を描けない。

 目を閉じ、記憶に刻み込まれた紗綾香の姿を思い起こす。

 猫のように表情を千変と変える紗綾香の顔。しかし記憶の中の紗綾香の顔すべてにモザイクがかかっていた。紗綾香の表情が分からない。あのとき、そのとき、彼女はどんな顔をして僕を見ていた。椅子に座る紗綾香。彼女は僕にどんな表情を向けていた。

 いいや、忘れてなんかいない。覚えている……

 笑っていた、怒っていた、拗ねていた。そういった事実は覚えている。じゃあ、何故その時々の彼女の表情が思い出せない。

 頭がずきりと傷んだ。何だ、僕に何が起きている。


「桐島さん」


 名前を呼ばれ、ハッとなる。

 いつしかマスターが僕の前に飲み物を置いてくれていた。細長いグラスに揺れるオレンジ色の液体。一口、飲む。


「はは……何度飲んでもびっくりする」


 不思議なことに、マスターが作ってくれるオレンジエードは、紗綾香が作ってくれたオレンジエードとほとんど同じ味なのだ。僕は懐かしさに口元を綻ばせながら、椅子の背もたれに深くもたれかかった。


「懐かしいな……目が見えなくなってからは一度も飲んでなかった」


 失明してからは、とにかく必死だった。何もできない自分でも出来る何かを探そうと躍起になっていた。紗綾香の優しさを振り払ってまで、僕は何に抗おうとしていたのか。

 思えば、あの頃から僕は、ちゃんと紗綾香と向き合っていたのだろうか。自分のことばかりで、紗綾香のことを一つでもちゃんと考えてやれていただろうか。


「……苦いなぁ」


 甘いオレンジエードが今だけはほろ苦く感じられた。


「ねぇ、桐島さん。私思うんだけどさ」


 じっと僕のことを見ていたらしい美春さんは、キャンバスを指差しながら、


「本当は、その絵完成させたくないんじゃないの?」


 と言ってきた。


「……え?」


「絵を完成させたくないから、手が動かないんじゃないの?」


「僕が、絵を……?」


 いや、そんなはずはない。これは僕の紗綾香への想いの形。向こうでは完成させることが出来なかった心残りとなる絵だ。


「そ、そんなわけないじゃないか。だって、僕の心残りだからこそ、この絵はここにあるんだよ」


「でも、破いたんでしょ?」


「っ!?」


 そうだ、僕はこの絵を一度破いてしまった。それも紗綾香の目の前で。


「たぶん、桐島さんが絵を描けない理由って、その辺りにあるんじゃないかな」


「…………」


 僕は、どうしてこの絵を破いてしまった。一時の感情? 確かにあのときは心に余裕がなく、追い詰められていた。でも本当にそれだけの理由なのか?

 いいや、違う、そうじゃない。きっと、僕は。


「僕は……逃げたかったんだ」


 目が見えないという現実。何もできない無力な自分。そして受け取るばかりで、返すことが出来ない紗綾香から向けられる愛情。様々なものから逃げ出そうとして、僕はこの絵を破り捨てた。

 そうだ、僕はいつだって自分のことばかりだった。紗綾香と向き合おうとしなかったのもそうだ。紗綾香はいつも二人の未来を見据えていた。けれど僕は今その時の自分のことばかり。僕は怖かったのかもしれない。紗綾香と向き合うことが。未来のことを考えることが。


「そうか……そういうことか」


 紗綾香の顔が分からないのも当たり前だった。僕はちゃんと紗綾香と向き合っていなかったのだから。紗綾香のことを見ようとしなかった僕に、紗綾香の絵が描けるはずもないんだ。だから僕はこの絵を完成させることが出来なかった。


「ありがとう、美春ちゃん。分かった気がする」


 今の僕に必要なのは、恐らく紗綾香ときちんと向き合うことなのだ。


「マスター、椅子を一つ借りていいかな?」


「ええ、構いませんよ」


 僕の言葉に、マスターは快く頷いてくれた。

 僕は隣の席の椅子をキャンバスの裏に置いた。ちょうど、紗綾香がいつも座っていた位置になるように。


「美春ちゃん。よかったら、そこの椅子に座ってくれないかな」


「ええっ! 私が?」


「少しの間だけでいいからさ。誰かが座っていてくれた方が、イメージしやすいんだ」


「ま、まぁ……そういうことなら」


 緊張した面持ちで美春ちゃんが、用意した椅子に座る。

 それを確認してから、僕はキャンバスを見つめ、筆を握る。

 今度こそ、僕は紗綾香と向き合おう。遅すぎたかもしれないけど。それでも僕の紗綾香への想いを、全てこのキャンバスに描き残そう。





 桐島さんは何も言わず、黙々と絵を描き続けていた。その目は私を見ているようで、どこか遠くを見つめている。動かないと言っていた腕は問題なく動いているようだった。


「……あれ?」


 一瞬、桐島さんの姿が霞んで見えた、気がした。目の錯覚だろうか。いや、そうじゃない。確かに、桐島さんの姿が薄くなってきている。

 私はマスターやメッシちゃんに視線で問いかけた。

 マスターは何も言わず、桐島さんを優しげに見守るだけ。メッシちゃんは悲しそうな顔をしながら、桐島さんのことを見つめていた。

 もしかして、桐島さんの心残りが昇華されようとしているのか。

 再び桐島さんへと視線を向ける。

 彼はとても優しい目をしていた。筆を運ぶ手の動きは、まるで自分の心の中のものを一つ一つキャンバスに移していくように見える。

 いや、きっとそうなのだ。彼は紗綾香さんへの想いの全てをキャンバスに込めているのだ。きっとこの絵が完成したとき、桐島さんは……


「……出来た」


 どれぐらいの時間が過ぎたのか。一瞬とも、永遠とも思えるような時間が終わり、ついに桐島さんの絵が完成する。


「見てもいい?」


「どうぞ」


 私は席を立ち、桐島さんの隣へと移動する。


「…………」


 キャンバスを見て、言葉を失った。涙が出そうになった。そこに描かれていたものを、どう言葉にしたらいいのか分からない。でもこれだけは言える。この絵は、桐島さんの心だ。紗綾香さんを想い、慈しむ。彼の心の形だ。


「美春ちゃん、ありがとう。君のおかげで、僕は自分の心残りに気付くことが出来たよ」


「……私は何も」


「いや、君の言葉が僕に教えてくれたんだ。だからお礼を言わせてほしい。ありがとう」


 そして次に桐島さんはマスターへと向き直り、


「マスター、お世話になりました」


 マスターに向かって頭を下げた。


「いえ……もう、行かれるのですか?」


「はい。僕の全てをこの絵に残しました。もう何も思い残すことはありません。ただ……この絵を紗綾香に見せられなかったことだけが残念です」


「では、私がこちらの絵をお預かりしましょう。もし彼女がここを訪れるようなことがあれば、必ずこの絵をお渡しすることを約束します」


「本当ですか? それは嬉しいな。でもなるべくなら、紗綾香にはここに来て欲しくないかな。彼女には悔いのない人生を歩んでほしい。ははは、そう考えると、この絵は紗綾香に見てもらわない方がいいのかもしれないな」


 そして、桐島さんはドアに向かって歩き始めた。


「あ、あの……」


 ドアの横、ピアノの椅子に座るメッシちゃんが何か言いたげに口を開く。


「ごめんね、お迎えが来るまで傍にいてあげたかったけど、どうやら僕の方が先だったみたいだ」


「わ、私は平気よ。その……色々と、ありがとう」


 そう言って、ぷいっと顔を背けるメッシちゃんの頬を一粒の涙が伝う。

 桐島さんは微笑んで、メッシちゃんの頭を優しく撫でると、最後に振り返り、みんなに向かって頭を下げる。

 誰も何も言わない。もう言葉は必要なかった。

 桐島さんがドアを押し開ける。ドアの向こうは光だった。何も見えないほどの光。でも眩しさは感じない。むしろ安らぎを覚えるような、そんな不思議な光だった。桐島さんは光の中へと足を踏み出し、まるで光に包まれるように消えた。

 桐島さんがいなくなると、ドアが自動で閉まる。

 静寂が店の中を流れていく。

 私は自分の席へと戻り、頬杖をつく。

 一度に色々なことが起こりすぎて、まるで夢を見ているような気分だった。

 ここは天国にある喫茶店。心残りを抱えた人たちがやってきては、未練を昇華して行く場所。どうやらそれは本当のことらしい。

 そして私は、今その喫茶店にいる。


「どうぞ」


 目の前には、またカフェ・オ・レ。


「いい加減、他のが欲しいんだけど……」


 ため息一つ、私はカップを口に運ぶ。

 甘ったるい味が、今だけはとても優しく感じられた。


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