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喫茶物語  作者:
1/11

一 桐島伸吾 前編

 何もかもが億劫だった。ただ、生きていくだけの毎日が煩わしかった。消えてしまいたい。そう思うも、自分の体は意思とは裏腹に呼吸をし、飲食をし、そして睡眠をとる。

 心と体がちぐはぐな違和感。それが心底気持ち悪かった。決して充足されることはない空っぽな私の心と、摩耗した感情。

 私は何を求めているのだろうか。

 分からない。心が満たされる何かを探しているのか。それとも自身の終わりを求めているのか。

 明日にでも世界が終わってくれればいいのに。そんな益体もない妄想を繰り返しながら、私は今日も夜の街へと繰り出していく。



 頭上で鳴る清涼な鈴の音に私はハッとなった。

 いつの間にか、どこかのお店に入ってしまったらしい。ここはどこだろうかと、店の中の様子を見回してみる。

 そこはとても狭い、小さな喫茶店のようだった。赤レンガで組まれた内装。奥にはカウンターがあり、きれいに磨かれたグラスがきっちりと収納されていた。席はカウンターに椅子が五つ用意されているだけ。窓の類は一つもありやしない。

 まるで長屋を改造して、無理やり喫茶にしたような、そんな感じのお店だ。

 そしてお店の中には三人の人がいた。

 一人目はこのお店のマスターなのだろう、カウンターの中でグラスを磨いている壮年の男性だ。艶やかな黒髪を後ろで撫で付け、質のいい白いシャツの上から黒のエプロンをつけている。背もすらりとして高く、全体的に清潔感があった。これなら女性客の人気も凄くありそうなものだが、残念なことにそれらを全て打ち消すものがあった。表情だ。まるでマネキンを見ているかのように、マスターの顔には表情がない。そのミスマッチが異様で、そしてどこか恐ろしさを感じさせる。


「いらっしゃい」


 マスターの視線が私を捉える。歓迎する言葉の割に表情に変化はなく、覇気もない。


「僕たち以外のお客さんなんて珍しいね。入っておいでよ」


 二人目、カウンターの右奥に座る栗色の髪をした穏やかな顔つきの若い男の人が手招きしてくる。

 カーキ色のジャケットにくすんだ色のジーンズ、頭の上にはベレー帽。彼はマスターに背を向けるようにして座り、自分の正面にキャンバスを置いていた。

 なるほど、彼は画家のようだ。しかしお店の中で絵を描くというのはどうなのか。そんな光景、今まで一度も見たことはないが、マスターが何か言う様子がないので大丈夫なのだろう。


「冷やかしなら帰りなさいよ」


 小鳥が囀るような可愛らしい声で、三人目が言う。三人目は、私の立っている入口からすぐ左側に鎮座しているグランドピアノの椅子に座っていた。金髪の長い髪を編み込んだ、蒼い瞳の女の子だ。小学生ぐらいだろうか、女の子は小さなその手を太ももの上でぎゅっと握り、私に敵意を込めた視線を向けてくる。流暢な日本語に驚いたが、それにしても口が悪い。仕立てのいい黒を基調としたドレスのような服を着ていることから、どこか余所の国のお嬢様なのだろうと推測出来たが、教育係は何をやっていたのだろうか。まぁ、私も口の悪さに関しては人のことを言えないか。


「お好きなところへどうぞ」


「あっと、その」


 店の中の異様な雰囲気に呑まれてしまい、私は動くことが出来ずにいた。


「安心しなよ。こんなマスターだけど、優しい人だからさ。別に取って食べられたりしないよ」


「早く決めなさいよ、グズね」


 それぞれの反応から見るに歓迎はされているようだけど……一人を除いて。


「そ、それじゃあ……」


 このまま店を出てしまっても良かったのだが、どうせ他に行くあてもないし、ちょっと変わった雰囲気で面白そうだという好奇心の方が勝った。

 私はカウンターの左奥の椅子に座ることにした。


「僕は桐島伸吾。よろしくね。で、あっちの女の子がメッシちゃん」


「私はマスターです。よろしく」


 いやいや、勝手に自己紹介始めちゃったよ、この人たち。


「……美春。よろしく」


 無難にそう答え、私は何か頼もうとメニュー表を探した。しかしこの店のどこにもメニューらしきものは見当たらなかった。どれだけ適当な店なんだろうか。


「どうぞ」


 適当にブレンドコーヒーでも頼もうかと思ったとき、マスターが不意に私の目の前にソーサーに乗せたカップを置いた。カップの中では琥珀色の液体がゆらゆらと揺れ、温かな湯気を放っている。


「私、まだ何も頼んでないけど?」


 私の言葉にマスターは黙ったままで、何も答える気はないようだった。代わりに桐島と名乗った男の人が苦笑しながら教えてくれた。


「マスターは、その人の好きな飲み物を見抜く不思議な力があるんだよ。僕も最初は驚いたものさ」


「は、はぁ……そうなんですか」


 後で法外な値段を請求されたりしないか不安に思いながらも、私はカップの中の液体を一口すすった。


「甘っ! これ、甘すぎない?」


 カップに入っていたのはコーヒーを牛乳で割った飲み物、カフェ・オ・レだった。しかしどれだけ牛乳を入れたのか、コーヒーの味はまったくせず、グラニュー糖も入っているのかやたらと後味が甘い牛乳を飲んでいるような感じだった。

 嫌いではないが、これは店で出していいものではない気がする。っていうか、桐島さんの言う通りだと、これが私の好きな飲み物だっていうことになるが、さすがにこれはないと思う。


「おや、珍しくマスターの勘が外れちゃったのかな」


「申し訳ありません」


 うん、この店に人が全然いない理由が分かった。さすがに私でもこんな店には二度と来ないと思う。

 さっさと飲み干して、店を出よう。そう決意し、カップを傾ける。

 でも……

 何でだろう。どこか懐かしい味のような気がする。

 私は昔、どこかでこのカフェ・オ・レを飲んだことがあるような。そんな気がしてきた。でも昔のことを思い出したくない私は、沸き起こってくる懐古の気持ちを乱暴に振り払った。


「さて、僕はまた作業に戻るよ」


 桐島さんはそう言って、キャンバスに向き直る。手にはパレット。どうやら現在進行形で絵を描いていたらしい。


「どうせ、最後まで描けないくせに」


 メッシちゃんが毒を吐く。本当に口が悪い子だなぁ。黙っていれば、人形のようで凄く可愛いと思うのだが。

 桐島さんはメッシちゃんの毒舌を気にも留めず、手に持ったパレットに絵の具を溶かしていく。

 話が出来そうだった相手もいなくなってしまったので、私はこの店でどうやって時間を潰すか考えることにした。この店には雑誌などは置いておらず、BGMも流れていないので、一人で過ごすにはちょっと厳しい。

 周囲を見る。マスターは我関せずといった風にグラスを磨いているし、桐島さんも絵を描いている。

 メッシちゃんは、


「…………」


 じっとピアノの鍵盤を見つめていた。

 引かないのか、それとも引けないのか。どちらか分からないが、メッシちゃんはひどく寂しそうな瞳を鍵盤に注いでいた。


「うーん」


 小さな声で唸る。本当に何もない店だ。携帯電話を持ってきていなかったことが悔やまれる。

 見回した店の中で唯一興味を引きそうだったのは、桐島さんの絵ぐらいだろうか。

 ちょっとぐらいなら見てみてもいいよね?

 果たしてどんな絵を描いているのだろうか。私は彼の作業を邪魔しないように、チラリと横目で彼の絵を盗み見ることにした。


「へぇ」


 思わず感嘆の声が出てしまう。彼が描いていたのは人物画だ。キャンバスには椅子に座る女性の絵が描かれていた。しかしその顔の部分が白紙のままになっていて、異様な雰囲気を放っている。他の部分は温かな色合いで丁寧に何度も上塗りをして描かれているのに対して、顔の部分だけはまったく手が付けられていないのだ。

 桐島さんは筆を顔の部分へと持っていくが、そこで動きが止まってしまう。

 目を閉じ、しばらくして目を開け、手に力を込めるも、その手は動かない。

 どうしたのだろうか。まるで何かに迷っているような。

 やがて桐島さんは嘆息して、筆を下した。


「駄目ですか」


 マスターの言葉に、桐島さんは小さく首を振って答えた。


「……絵がね、描けないんだよ」


 桐島さんは私の方を見て、苦虫を噛み潰したような表情でそう言った。


「描けないって……ここにモデルがいないから?」


「そうだね……彼女はここにはいない。でも目を閉じれば、くっきりと昨日のことのように瞼の裏に姿が蘇ってくるんだ」


 モデルの人は既に他界しているのだろうか。彼の口ぶりからはそんな風に聞き取れた。


「じゃあ、どうして描けないのよ」


「どうしてだろう……彼女の姿ははっきりと覚えているのに……顔が、彼女がどんな表情をしていたかが思い出せないんだ。分からないんだよ」


 だから顔の部分だけが白紙なのか。


「写真でも何でも取ってきてさ、適当に描いたらいいじゃん。無表情な顔でも、笑顔でも、泣いてる顔でも。なんでもさ」


「…………」


 桐島さんは何も答えず、じっとキャンバスを見つめている。その表情はとても苦しそうだった。


「良かったら聞かせてよ、そのモデルのこと。話している内に描きたいものを思い出すかもしれないじゃん?」


 本音を言うと、何もしないで退屈しているよりは話でも聞いていた方が楽だからという理由があったのだが。桐島さんは幾分か悩んだ後、大きく息を吐き出して頷いた。


「そうだね、少し話そうか。僕と彼女のことを」


 そうして彼は話し出した。

 彼がこの店にやって来るまでの経緯を。


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