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恋愛もの

昆虫と変なお姉さん

作者: 腹黒ツバメ


 胸中に滾る憤りは、我ながら理不尽なものだと思う。

 俺が勝手に勘違いをして、舞い上がって、最後に空回っただけ。それなのに、行き場を失くした激情を、彼女にぶつけようとしているんだから。

 ――でも、だってさ。

 まるで『タイムマシンの針を壊して永遠の夏を手に入れた』みたいな、最高の気分だったんだ。

 この張り裂けそうな気持ちを、ただの片想いで終わらせるつもりはなかったんだ。

 漏れそうになる嗚咽を強引に押さえつけ、歯を食いしばる。

 ここで泣きたくなかったから。そして、彼女を責めたくなかったから。




〈昆虫と変なお姉さん〉




 明るく熱い陽射しが燦々と大地を照りつける、ある七月の昼間のことだった。

 寂れた空き地の草陰にカマキリを見つけ、屈んだ俺はそいつの背中を乱暴に摘まんだ。もう片方の手で、玉汗の浮いた額を拭う。

 目の前まで持ち上げると、捕獲されたカマキリは威嚇のつもりなのか、両手の鎌と翅をこれでもかと大きく広げた。

 子供に人気の昆虫といえば真っ先にカブトムシの名前が挙がるけれど、俺は敢えてカマキリの方を推したい。細身の身体に似合わぬ鋭利な鎌には、他の昆虫では味わえない迫力がある。

 ふと、カマキリを観察する俺の背中に影が差した。


「あ、オオカマキリじゃ」


 声に振り仰ぐと、そこには知らない女の人が立っていて、俺の手元を覗いていた。

 ――誰だ、この人?

 内心でそう疑問に思いながら、口では無意識に別の質問を投げかけていた。

「……大きいから、オオカマキリ?」

「うん。それと、後翅が黒いじゃろ。普通のカマキリの翅はもっと透明な色をしとるんよ」

 淀みなくすらすらと、しかし強く訛った口調で彼女は説明をしてくれた。ずっとこの近所に暮らしている我が家ですら最近は聞かない方言。

「ふぅん……」

 しかし俺が呆気に取られたのは、彼女が存外に博識だったからだ。

 見たところ中学生の自分よりいくつか年上のようだが、オオカマキリの特徴が大人にとっての一般常識というわけでもないだろう。こんなにカマキリに詳しい女性なんて滅多にいないはずだ。

 彼女が黙りこくった俺の隣にしゃがんで、気さくに尋ねてくる。

「きみ、昆虫が好きなん?」

「……はい」

 少し悩んでから、敬語で答える。

 実際、他の同年代よりも昆虫好きの自覚はあった。なにせ夏休みの初日である今日、ひとりでこうして昆虫観察に赴くくらいだ。学校の友達は今頃、誰かの家に集まってテレビゲームでもしているんだろう。この年齢でまだ虫捕りをしているのは、きっと俺だけだ。

 頷く俺を見て、彼女は表情を綻ばせた。

「そんなら、あたしも好きじゃけえ、一緒じゃね」

 まるでアサガオが花開いたような笑顔に、俺の心臓が大きく跳ねる。思わず見惚れてしまって力の抜けた右手から、オオカマキリが抜け出した。

「あっ」

 素早く草地に退避したカマキリを見て、彼女が小首を傾げる。

「そういえば虫カゴは持っとらんの?」

「母さんが虫嫌いなんで、捕まえても仕方ないんです」

 だから、俺が昆虫を見るのは外だけ。

 しばらくオオカマキリが逃げた茂みをぼうっと眺めていると、不意に彼女が立ち上がった。

 再び振り返る俺に彼女は手を振って、

「あたし、しょっちゅうここに来るけえ、また会えるとええね」

 ばいばい、と言って彼女は踵を返した。

 瞬間、忘れていた猛暑を思い出し、全身から汗が噴き出す。さっきまでの彼女と言葉を交わしていた数分間は、本当に涼やかな気分だったのに。

 俺は去っていく華奢な背中を呆然と見送り――


 ――明日からこの空き地に通おう。


 こっそりと、そう決心したのだった。




 ★




 一際背の高いクスノキの幹に、俺は虫捕り網を振り上げた。

 手応えあり。乾いた地面に網を降ろして確認すると、狙い通りのセミが中に収まっていた。

「よし!」

 思わずガッツポーズ。無理もない、今日最初の獲物だ。

 手に掴んで間近で観察する……が、なんの種類か全然わからない。セミなんて鳴き声で簡単に判別できると思っていたけれど、こうも周囲一帯がじーじーじわじわ騒がしいと、捕まえた一匹の声なんて微塵も聴き取れなかった。

 すぐに諦めた俺は溜息ひとつ、近くで網を振る彼女に駆け寄った。

八重子(やえこ)ちゃん、一匹ゲット!」

「おお、ようやったね洸太(こうた)くん。見してごらん」

 あの日から、彼女とはほぼ毎日会うようになった。もう互いに名前で呼び合うほどの仲だ。

 クワガタ用の仕掛けを作ってくれたり、咲いている草花の種類からそこに生息するチョウの種類を言い当てたり……予想はついていたけれど、彼女は俺よりよっぽど昆虫に詳しかった。

 聞いてみたら、趣味が高じて普段は大学で虫の勉強をしているらしい。女性で昆虫好きとあって、学内ではちょっとした変人扱いみたいだ。

 そして今日は、雑木林にふたりでセミ捕りに来ている。

「ああ、こりゃキュウシュウエゾじゃね」

 聞き覚えのない名称に、思わず首を傾げる。セミなんてアブラにミンミン、それとツクツクホウシ程度しか俺は知らない。

「よく見た目だけでわかるよな。セミなんてどれも大体同じじゃん」

「ちゃんと観察すれば、いろいろ違っとうよ。えっとね……じゃあ、帰ったらツノゼミって調べてみんさい。ビックリするけん」

 そう言って八重子ちゃんは、またセミ捕りを再開した。

 彼女の身長は俺より頭ひとつ分高い。かなり上方に止まったセミも易々と捕らえていた。

 ……その背中を眺めていると、なんだか男の矜持が傷ついたような気分になった。俺より昆虫に詳しくて、背が高くて、虫捕りが上手くて……

 そんな情けない自分に落ち込んでいると、ふとちょっとした悪戯心が芽生えた。

 好きな相手にちょっかいをかけたくなる心理というのは、男なら年齢は関係ないのだろうか。

 俺はそこら中に落ちているセミの抜け殻をひとつ拾い上げ、慎重に八重子ちゃんの背後に忍び寄った。

 ――よし、彼女はセミに集中してるぞ。

 意図せず口角を吊り上がる。

 そして俺は彼女の無防備な二の腕に、抜け殻の爪を引っかけた。


「ひゃああ!」


 瞬間、八重子ちゃんが大声を上げて飛び跳ねた。

 セミの大合唱すら掻き消すほどの悲鳴に、原因を生んだ俺まで仰天してしまう。

「ちょ、なんしよん!?」

 狼狽して振り返った八重子ちゃんがぐわと叫んだ。その瞳に浮かんだ涙に良心の呵責を感じ、俺は肩を縮ませてセミの抜け殻をゆっくりと差し出す。

「こ、これ……」

 彼女は安堵したような、拍子抜けしたような表情で膝から崩れ落ちた。

「なぁんだ……。なにかと思って、心臓吐き出しそうじゃった……」

 その場にへたり込む八重子ちゃんの姿は、とても年上とは思えないほど弱々しくて、男の庇護欲を刺激して、つい鼓動が高鳴ってしまう。

「洸太くん……」

 しかし、はた、と気づく。

 八重子ちゃんが上目遣いに俺を睨んでいることに。まさに怒り心頭といった感じ。

 ――そうだった、そもそも彼女をこんな目に遭わせたのは俺じゃないか!

 途端、全身から血の気が引いていく。恨みがましい彼女の視線と自らの罪悪感に責め立てられ、俺は……

「えっと、その……セミ捕ってくる」

 脱兎のごとく逃げ出した!

 本当は一度でも謝るべきだったんだろうけど、駆け出したらもう遅い。とにかく無心で、我武者羅に逃走する。

「あっ! こ、洸太くんのボケえええぇ!」

 取り残された罵声は、やっぱりセミの鳴き声よりも大きかった。




 その後も俺たちは、茜色の空に藍が差すまで虫捕りを堪能した。

 悪戯の罰は、拳骨一発。まだ頭に痛みが残っているが……まあ、この程度で済んで助かったと思おう。

 見つけたのはほとんど普通のアブラゼミで、俺は全部逃がしてしまったけれど、八重子ちゃんは一匹だけ持参した虫カゴに収めていた。

「セミって安眠妨害してきそうだけど大丈夫?」

「洸太くん知らんの? セミは夜中には鳴かんのよ」

「嘘だぁ。家の周りじゃ四六時中鳴いてるよ」

「ああ、それはね……」

 そんな他愛ない会話をしながら、雑木林を抜ける。

 開けた遊歩道に出たとき、不意に八重子ちゃんが立ち止まった。振り向くと、彼女はただじっと、夕陽が沈みかけた方を見つめている。

 どうしたの、と尋ねようとする直前、八重子ちゃんが表情を明るくして口を開いた。

「そうじゃ! 明日の夜、一緒にホタル見にいかん?」

「ホタル?」

 唐突な誘いに、つい鸚鵡返しをしてしまう。

 俺の反応は至極当然のものだ。いくらこの一帯が田舎とはいえ、ホタルなんているとは思えない。現に俺は十三年の生涯で、一度として実際のホタルを目にしたことはなかった。

 俺の疑念混じりの胸中を察したのか、八重子ちゃんはしたり顔でさっき眺めていた方向を指差して、

「ほら、あっちの小学校を越えた先に川が流れてるじゃろ? そこの川原で去年一度だけホタルを見つけたんよ。すっごく綺麗じゃったけえ、洸太くんにも見せてあげたいと思って」

 気のせいかいつもより饒舌な彼女の言葉を、俺は無言で吟味する。

 簡単には信じられないが、八重子ちゃんのことだ、向こうでは実際にホタルが住んでいることは間違いないだろう。だから、後は俺の意思次第だけど……

 つい下世話な妄想が頭を埋めていく。夜の川原、隣には八重子ちゃんがいて、ふたりで幻想的なホタルの光を眺める――

 ――なんか、すごくロマンチックじゃないか。

 考えてみれば、まるでデートのお誘いみたいだ。断る理由なんてない。

「いきたい! いこう!」

 思わず鼻息を荒くして幾度も頷く。脳内はもう、明日着ていく服はどうしようとか、眉毛はしっかり整えなくちゃとか……そんな予定でいっぱいだった。

「おお、乗り気じゃね。ご両親にはちゃんと言っとくんよ」

「もちろん!」

 そして集合場所と時刻を決めてから、俺たちは別れた。

 いつもは自宅まで送らせてくれない八重子ちゃんに不満を持っていたけれど、幸せの絶頂である今はそんなことすっかり忘れていた。

「また明日! 絶対遅れるなよぉ!」

 全身から溢れ出る喜びと興奮を抑えきれず、俺は彼女の伸びた影が視界から消えるまで、ずっと手を振り続けた。




 ★




 腕時計を確かめると、ちょうど六時半。待ち合わせの時刻より三十分も早く着いてしまった。

 だけど、むしろ好都合だ。

 俺は降りた自転車を橋の欄干に寄せ、暴れ回る心臓を鎮めようと深呼吸を重ねた。こんなガチガチに緊張した姿、八重子ちゃんには見せられないからな。

 蒸し暑さもあって、いっそ川に飛び込みたい衝動に襲われる。試しに手摺りから身を乗り出して、水面に視線を落としてみた。彼女が言っていた川原はすぐ近くのはずだが、適当に見回しても漂う小さな光は見当たらない。

 そうしてしばらく緩やかな川の流れを眺め、だいぶ落ち着きを取り戻せた頃、

「おーい!」

 雲の隙間に浮かんだ月に淡く照らされた夜道から、八重子ちゃんがやってきた。俺の姿に気づくと、彼女は小走りでこちらに向かってくる。

「ずいぶん早いね。もしかして待っとった?」

「いや、全然」

 もちろん嘘だ。もう二十分以上はここにいた。

 さりげなく彼女の全身を観察すると、水色のタンクトップにハーフパンツという、動きやすさばかりに重点を置いたような軽装だった。俺の妄想の中では浴衣姿だったけれど、まあ多くは望むまい。夏祭りじゃあるまいし。

「そっか。じゃあいこう」

 なんだか俺以上にワクワクしている八重子ちゃんに促され、俺たちは橋を降りて川原に向かって歩き出した。

 目的地は、本当にほぼ真下だった。さっきまで上から眺めていた川原に足を踏み入れると、薄っぺらいサンダルに小石の凸凹した感触が心地いい。

 しかし、

「ホタル、おらんね……」

 左右に視界を巡らすが、そこにはお尻を光らす昆虫の影も形もなかった。けれどこの場所から見える川の景色は、すこぶる綺麗だ。

 それにしても、さっきから心臓の鼓動が騒がしくて仕方がない。頑張って抑えたつもりだったけれど、八重子ちゃんと顔を合わせてからまた馬鹿みたいに激しく鳴り出した。これまでも彼女と二人きりになることは何度もあったけれど、きっと昼間とは違った夜の静かな雰囲気が、俺を興奮させているんだろう。

 ……八重子ちゃんには悪いが、正直もうホタルなんてどうでもよくなっていた。

 そんな俺の内心を知らず、険しい表情で彼女は、

「でも、まだ諦めんでええよ。ホタルは上流に昇るけえ、追っかければいるかもしれん」

 そう言って、不意に俺の手を引いて歩き出した。

「……!」

 思わず息を呑む。彼女の柔らかい掌から伝わる熱に、俺の鼻腔が大きく膨らんだ。

 八重子ちゃんと手を繋いで夜の川原を歩く――。昨晩、布団の中で散々妄想した内容そのままだ。それなのに、いざ現実になると緊張感に負けて楽しむ余裕なんてなかった。

 手汗とかベタベタして、嫌な気分にさせてないだろうか……?

 妙な不安に駆られ、無意識に眼差しが繋がれた手に向けられ――


 ――その左手の薬指に輝く指輪を見つけ、呼吸が止まった。


「あ……」

 身体が急速に冷え、醒めていくのを自覚する。さっきまであれだけ胸躍らせていたのが嘘みたいだった。全身に満ちていた熱情が液体になって、肉体中の穴から余さず流れ出ていくような感覚。

 中学生のガキにだって、そこにはめられた指輪の意味くらいわかる。

 つまり彼女には、既に心身を捧げた男性が存在するということ。無論、俺なんて最初から埒外だったんだ。『神様の秘密のカバンから夏だけ盗んでふたりで並べよう』なんて、そんな胸に思い描いていた幻想は、無惨にも砕け散ってしまったんだ。

 冷静なはずなのに全然回らない頭でようやくそれを理解すると、今度は腹の奥底から、沸々と怒りが湧いてきた。


 ――どうして、初めて出会った日に教えてくれなかったんだ。両想いの相手がいるって。

 知っていたら、無駄に期待しなくて済んだのに。八重子ちゃんに恋なんてしなかったのに。


 胸中に滾る憤りは、我ながら理不尽なものだと思う。

 俺が勝手に勘違いをして、舞い上がって、最後に空回っただけ。それなのに、行き場を失くした激情を、彼女にぶつけようとしているんだから。

 ――でも、だってさ。

 まるで『タイムマシンの針を壊して永遠の夏を手に入れた』みたいな、最高の気分だったんだ。

 この張り裂けそうな気持ちを、ただの片想いで終わらせるつもりはなかったんだ。

 漏れそうになる嗚咽を強引に押さえつけ、歯を食いしばる。

 ここで泣きたくなかったから。そして、彼女を責めたくなかったから。

「あれ、どしたん?」

 突然立ち止まった俺を不思議に思ってか、八重子ちゃんが握った手はそのままに振り向いた。

 俺はその屈託ない彼女の顔を直視できずに俯いてしまう。

 そして手をほどいたのは、俺の方からだった。

 ――馬鹿、最悪、ふざけんな。

 特別な意味なんて持たない、赤裸々な罵倒がいくつも脳裏に浮かび、だけど俺はそれら全部を呑み下して……


 酷くぎこちなく、微笑んだ。


「結婚、するんだね……おめでとう」

 胸中に滞留する真っ黒い感情の代わりに投げたのは、祝福の言葉。

 泣くな、我慢するんだ。胸裏で必死に自分を叱りつけるが、どうしても声は震えてしまっていた。

 散々考えた末に絞り出された、しかし八重子ちゃんからすれば、なんの脈絡もない台詞。

 彼女にはきっとわからないだろう。突然俺がこんなことを言い出した理由、顔をくしゃくしゃに歪めている理由は。

 両目に涙を溜めた俺に驚いたのか、彼女は瞠目して手を口元に当てていた。

 ――これ以上声は出なかった。必要ないと思ったから。

 そうだ、確かに俺は片想いを胸に潜めたままで失恋したけれど、それでも彼女には幸せでいてほしかった。だから俺にできるのは、それを祈ることだけ。本当は全部投げ出して、大嫌いだなんて叫びたかったけれど、それをして喜ぶ人間なんて誰もいないから。

 夜のしじまに優しく包み込まれた川原の片隅で、俺たちはただ無言で向かい合っていた。

 そして、侵しがたい静謐を裂くように、彼女はゆっくりと口を開き――


「……えっと、結婚ってなんのこと?」


 直前までの張り詰めた空気をズタズタに切り刻む、能天気な声音で言った。

 あまりの不意打ちに、俺は漫画みたいに尻餅をつきそうになる。

「な、なんで……?」

 自分と八重子ちゃんの意識の差に呆然となり、思わず口から疑問符が漏れた。

「なんではこっちの台詞じゃろ。いきなりなん?」

「だって、指輪が――」

 このままでは埒が明かないと八重子ちゃんの左手を指し示す。すると彼女は「ああ、これか」と呟いて、あっけらかんと笑った。

「この時間帯だとチャラチャラした連中がナンパしてくるけんね。こうしとれば変な輩も寄ってこんじゃろ?」

 つまり、婚約指輪に見せかけたナンパよけ……?

「じゃあ、つきあってる男とかは……」

「アハハ。おらんよ、そんなの」

 俺の苦悩を知らず、八重子ちゃんは気楽に笑う。

 瞬間、両肩からどっと力が抜けた。

 ――まさか“八重子ちゃんに恋人はいないとずっと勘違いしていた”ことが勘違いだったなんて。一度思い込むとなかなか抜け出せない自分の欠点を、これほど恨んだことはない。

 真相が明らかになると、先刻までの一喜一憂が途端に恥ずかしくなった。指輪のことを冷静に尋ねる余裕すらなかった自分の間抜けっぷりに嫌気が差す。

 だけど本能は素直なもので、すべて誤解だとわかって無意識に口角が緩んだ。

 それを目聡く見つけた八重子ちゃんが、屈んで俺と目線の高さを合わせる。そして、悪戯っぽく微笑んでみせた。

「なに、安心しよん?」

「はあっ!? お、俺は別に――あ」

 ふと、狼狽する俺の目に、僅か遠くで光る小さな点が映った。

「あれって……」

 すっとその方向を指し示すと、八重子ちゃんも反射的に首を回す。

 そして、彼女の顔に満面の笑みが浮かんだ。


「ホタルじゃ!」




 駆け足を止めた俺たちの視線の先、河川のちょうど真ん中に、ふたつの光が流麗に舞っていた。

 一枚の絵画のような、息が詰まるほど美しい光景。俺は感動のあまり思わず騒ぎ出しそうだったけれど、真横で八重子ちゃんがうっとりとそれを眺めているのに気づき、大声を上げるような気分ではなくなった。

 ――確かにこういうのは、優雅に物静かに、風情を楽しむものなのかもしれない。少なくとも、あれは源氏か平家か……なんて尋ねるような空気ではなかった。

「綺麗じゃね……」

 その台詞は半ば独白のようで、こっそりと見上げた彼女の顔は、瞼を細めて情緒に浸っているような穏やかな容貌だった。惚れた弱味かその横顔は、それこそあのホタルに負けないくらい素敵な面持ちに映った。

 俺もまたホタルに視線を戻し、緊張に唾を嚥下した。

 ……今なら言える気がする。

 本当はさっき告げたかった、けれど告げられなかったこと。普段なら絶対に無理でも、今この場でなら、あまりにも現実味の薄いこの雰囲気に任せて言ってしまえる。いや、言うんだ。

 いざ決意を固め――さりげなく呼吸を整えてから――ゆっくりと呟いた。


「……指輪、もう外していいよ。俺がいるから」


 口に出すと、途端に顔中が熱くなった。耳朶まで真っ赤に染めて、頭から湯気が立ち昇っているんじゃないかと思うくらい。

 隣で、びくんと八重子ちゃんの肩が跳ねた。かと思えば、伸ばされた手が俺の頭を無造作に撫でる。

 気恥ずかしくて振り払うと、優しい笑顔で見下ろす彼女と目が合った。

「もう、マセたこと言いよるんじゃから」

 その呆れたような口調は、とても俺の言葉を真剣に受け止めている感じではなかった。

 決死の覚悟で言ったはずの言葉は、まるで軽い冗談みたいに流されてしまったのだ。

 ……まあ、仕方ないことか。

 俺は中学生で彼女は大学生。最低でも五歳は年齢が離れているはずだ。彼女からしたら俺はまだまだ子供で、頼り甲斐なんて全然ないんだろう。

 それでも、いつかは――


 ――八重子ちゃんに相応しい男になりたいな、なんて。


 雲間から覗いた月夜を背景に仲良く踊る二匹のホタルを横目に、そんなことを思った。







 読んでいただきありがとうございます!


 中学生男子の、年上のお姉さんに対する異様な憧れはなんなんですかね。

 男性には幼い日の記憶を思い出しながら、女性には「男の子って馬鹿なんだなぁ」と笑いながら読んでもらえたなら嬉しいです。


 なお拙作中では、いきものがかりさまの曲『夏空グラフィティ』の歌詞から数節をお借りしています(なにか問題がありましたら当該文は削除いたします)。

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