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追いかける

作者: 谷風待

 暖かな日曜日の満月の夜。

 高校二年の橋村浩平は駅で降りて帰宅する途中だった。同じ方向へ帰る三人の遊び仲間たちと話をしながら歩いていたが、一人また一人とさよならをして、いつしか浩平ひとりだけになっていた。他に歩く人も見かけない古い住宅地である。

 このあたりは、わりと大きな家が建ち並んでいる。樹木が鬱蒼として、街灯の数が少なく、ところどころ道が暗い。

 後ろから何か物音が聞こえたような気がして、浩平は振り返った。耳をすますと遠くから乱れた足音が聞こえた。一人ではない。複数の足音だ。見通しのよいまっすぐな道路に人影はなく、どこからか聞こえる足音だけがだんだん大きく響いてくる。

 突然、五十メートルほど離れた脇道から、暗緑色の服を着たやせた男が飛び出してきた。男は道の真ん中を浩平の方へ向かって全速力で駆けてくる。浩平は思わず道の端に体を移した。その時、同じ脇道から、グレイのスーツを着たもう一人の男がよろよろと走り出て、かすれた声で「待て」と声を上げながら暗緑色の男を追いかけてきた。浩平には「泥棒」とも聞こえたが、疲れているのか、ほとんど声になっていない。

 唖然として体が固まった浩平の前を、暗緑色の男は軽快に走り去った。続いてスーツの男がふらふらになりながら走り過ぎたが、少し先で道路に崩れおち両手をついた。肩で息をしながら、四つん這いになっても追いかけようとしている。

「大丈夫ですか」

 浩平はスーツの男に駆け寄った。いったい何が起きているのだろう。

 スーツの男は首をねじって浩平を見上げた。

「どろ、泥棒。追いかけて、どろ、とられた。大事な、大事な」

 激しい呼吸で、言葉になっていない。浩平はしゃがみこんで、男と眼を合わせた。男は浩平の服を手でつかんで、すがるように言った。

「追いかけて。取り返して」

 浩平にはピンときた。暗緑色の男は、このスーツの男の何か大事なものを奪ったのだ。

「まかせて」

 そう言うや、浩平は暗緑色の男を追うために立ち上がろうとした。脚には自信があった。中学高校と陸上部で、学校の代表になったこともある。

「待って」

 男は浩平に携帯電話を差し出した。

「二台もってるから。これに連絡するから」

「分かった」

 浩平は電話を受け取って、今度こそ駆けだした。

 暗緑色の男の姿はすでに見えなくなっていた。しかし、ここが地元である浩平には男が逃げるであろう方向がだいたい分かっていた。次の次の十字路で、浩平は暗緑色の男の後ろ姿を遠くに見つけた。スーツの男を振り切ったと安心したのだろうか、暗緑色の男はただの急ぎ歩きになって遠ざかっていく。

 男に気づかれずに接近するために、浩平は足音を殺して駆けた。男が振り返って浩平を見つけた時、もうお互いの顔がはっきり分かるくらいの距離になっていた。一瞬、男は憎悪の表情を浮かべ、荒っぽく駆けだした。男も相当に速い足を持っている。しかし、浩平ほどではなかった。いずれ追い詰めてやる。浩平は自信を持っていた。追う浩平の足音が逃げる男の足音に近づいて行った。

 それに気づいたのか、暗緑色の男は、突然、左の人家の庭にもぐり込むようにして姿を消した。浩平がその場所に追いつくと、びっしりと葉を茂らした高い生け垣に、そこだけ隙間があいていた。

 浩平は迷うことなく、生け垣から他人の家の土地に踏み込んだ。庭木の間をかいくぐり、小枝をいくつも折りながら走り抜けて、男を追いかけた。暗緑色の男は向こう側の道路に逃げた。続いて浩平が道路に出るところを、男は振り返って見て、あわてたように今度はコンクリートの塀を登り始めた。暗緑色の男は身軽だった。浩平が伸ばした腕が男の足首をつかもうとしたが、間一髪、男は塀の向こう側に消えた。

 浩平にはこの高い塀を乗り越えられるとは思えなかった。しかし、少し回り道だったが塀の向こうへ行けることを知っていたので、そちらに駆けだした。塀を回り込み、入り組んだ一本道を浩平は走った。この道は、大きな丘を中心とした自然公園につながっている。

 浩平が男を再び見つけ出した時、暗緑色の男は公園を取り囲む金網を越え、その向こうの斜面を手をついて登ろうとしていた。金網の向こうは、鳥獣保護のためのサンクチュアリと呼ばれる領域が広がっているのだった。

 金網を前にして、浩平は躊躇した。サンクチュアリは立ち入り禁止である。昼間でも一般人が入ることはない。まして夜であり、相手は得体の知れない窃盗犯である。この広大な領域に踏み込んでまで、その中に潜む暗緑色の男を追いつめるべきだろうか。

 その時、聞き慣れない音楽が鳴った。浩平はポケットの中の、今しがた預かった電話を取り出した。スーツの男から電話がかかってきたのだ。

「はい」

「あ、さっきの若い人?」

「そうです」

「どうなりました?」

「自然公園まで追いかけて来ましたが、中に逃げ込まれてしまいました」

「そう」その一言だけはひどく落胆した声だった。しかし、スーツの男は無理に明るい声をして「ありがとう。ずいぶんと追いかけてくれたんだね。後は警察に頼むから、もういいです。本当にありがとう」と言った。

 電話が切れると、浩平は金網を見上げて考えた。誰もいない夜のサンクチュアリで暗緑色の男と立ち向かうのは危険だ。しかし、男に近づくことなく遠くから監視し、その行方を探るのならどうだろうか。もしも男が反撃に転じてきたとしても、浩平には自慢の速い逃げ足がある。やばければ逃げればいいのだ。

 そう思った時には、もう金網をよじ登っていた。サンクチュアリの側に降り立つと、浩平は慎重に斜面を登った。林の中に入ると、頼りになるのは、枝や葉の間から射しこむ満月の光だけだった。周囲の音に耳を澄ますため、自らはできるだけ音を立てず、忍びながら足を動かしていった。幸いなことに、やわらかな土にはところどころに暗緑色の男のものと思われる足跡が見つけられた。

 ほの暗い中を慎重になって十数分も進んだ時、また音楽が鳴った。浩平はあわてて預かった電話をポケットから取り出した。暗緑色の男に聞かれてしまったのではないだろうか。

「はい」浩平は、低く小さな声を出した。

「橋村君?」

「はい」思わずそう答えた浩平の顔がじわじわとひきつった。スーツの男に名乗った覚えはなかった。

「橋村浩平君でしょう?」

 しゃべれないでいる浩平に、男は言った。

「これはね、君を追いかけるゲームなんだ」

 浩平は、まわりを取り囲む真っ黒な木々を見渡した。

「何人に追いかけられているか、あててごらんよ」

 空気を裂くような音がして、浩平の近くの太い幹に何かが鋭く固い音を立てて突き刺さり振動した。まだらの月の光がアーチェリーの矢だと教えた。

「君の電話は、すがりついた時にすり取ったんだよね。でもって、預けた電話は、今から遠隔で使用不能にするから」

「何のつもりだ!」 

「だから、ゲームだってえの。命は大切にね!」

 ゲームスタート  ゲームスタート  ゲームスタート  ゲームスタート  浩平を取り囲む闇の中から木霊のようなささやきがいくつも聞こえてきたのだった。


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