capricious devil
〈capricious devil〉
この世には悪魔がいる。
なんの比喩表現でもない、これは純然たる事実だ。人間とはまったく別の生命。天使と対をなす存在。
阿呆な妄言だと早合点するなかれ、現に俺もその悪魔の端くれだ。といっても、悪魔の界隈で俺ははみ出し者扱いなのだが。
なぜか? 人間に食欲・睡眠欲・性欲の三大欲求があるのと同じように、悪魔は他人を騙すことで心が充足される“騙欲”を持つ。俺はそいつが滅法嫌いなのだ。
食用の動物を殺すことに対して残酷だ、悪趣味だと非難するようなものだが、生理的に駄目なのだから仕方がない。
そしてどれだけその欲望を嫌悪しようと、自らが悪魔である以上その本能には逆らえないわけで――
「あの、すみません」
そう女性に声をかけられたのは、適当に街をぶらついている最中のことだった。
都心部を意識しながらも自然との共存をテーマとして、近年になって開発の進められた田園都市。しかし、新興の土地だからこそ、人間関係は希薄だ。俺もこの近辺に知り合いなどひとりもいない。
怪訝に思って振り向くと、
「あ――な、なんすか?」
呆然。
重ねに重ねた厚着によりぱんぱんに着膨れした達磨女が、縋るような視線で俺を見据えていた。
頭上いっぱいに広がる天気は快晴だ、冬の到来を感じさせる冷たい空気とはいえ、防寒があまりに過剰すぎる。事実、彼女の額には玉の汗が浮かんでいた。
「ひっ……」
困惑しながら見下ろすと、彼女は怯えるように肩をびくりと震わせた。話しかけたのはそっちだろうが。
トンチキな服装はともかく体格は華奢らしく、仕草もどことなく小動物じみている。恐怖心を抱かれたら、俺が悪者のような気分になってくる。
やむなく俺は笑顔を浮かべ、優しい口調で問い直した。
「お姉さん、どうしました?」
腰を折って目線の高さを合わせる。正面から顔を見つめ、童顔だが二十代半ばだろうかと推測する。
「あ、あの……っ」
警戒を緩めてくれたのか言葉を絞り出す彼女。今度は含羞に頬を染め、
「お恥ずかしいんですが……実は、道に迷ってしまって……」
ごにょごにょと呟く。えらくテンポの悪い会話だ。
「道案内くらいならできますよ。お探しの場所は?」
「えっと……“シャルール”ってお店なんですけど、知りませんか?」
「ああ」
聞き覚えのある――というか、この一帯では割と有名なスィーツ店だ。伊国で修行をしたパティシエがどうとかで、テレビ番組にも紹介されていた。大方彼女も、その宣伝文句を見て赴いたのだろう。
当然その周辺の地理もわかっている。俺は喜色の笑みを浮かべ、
「そのお店なら、一週間前に潰れましたね」
「えぇ⁉」
真っ向から嘘をついた。
しまった、つい本能のままに。文字通り悪魔の囁き。
「そ、そんな……」
突然の宣告を下された彼女はといえば、絶望に打ちひしがれていた。呆然に口を半開きにして、丸い両肩を一層委縮させている。
「一昨日も朝の情報番組で特集が組まれてたのに……」
いや、少しは疑えよ。テレビで紹介されるような人気店だぞ。
その見事な騙されっぷりに、虚言を吹き込んだ張本人である俺も、内心で呆れてしまう。
しかし彼女はもう真偽を確かめる気概すら粉砕されたらしく、沈んだ声音で「そうですか……お騒がせしました……」と丁寧にお辞儀をして、ぎこちない足取りで去っていく。
「待って!」
瞬間、俺は形容しがたい衝動に背中を押され、彼女の肩を掴んで引き止めた。身体が脳の命令を聞かない。不思議と心臓の鼓動が昂る。
振り返る彼女。その潤んだ瞳に射止められた俺の心は爆発しそうだ。この感情は――
「鼻水垂れてますよ」
「え⁉ やだウソ!」
――他人を騙す快感!
彼女の名誉のために確認しておくが、実際には決して鼻水など出ていない。口から出任せだ。
慌てて必死に鼻を拭う彼女に、俺の胸中を恍惚が支配する。常軌を逸した興奮、絶頂を連想させる悦楽。騙欲の命ずるままにホラを吹いて回る同胞の気持ちが理解できた気がした。
どれもこれも彼女が悪いのだ。こんなにも簡単に、気持ちよく騙されてくれるから。
と、理不尽な責任転嫁をしながら、俺は彼女へと優しげに声をかけた。
「ところで、実は私、占い師なんですよ」
「あら、そうなんですか?」
唐突かつ胡散臭い俺の自己紹介に、しかし彼女は心から驚嘆するように両手を口元に当てた。正直なのか、阿呆なのか。たぶん両方なんだろう。
騙すための第一段階を突破した俺は、デタラメな設定を脳内に即興で筋立てた。
「ええ。それでお嬢さん、どうやらあなたには貧乏神が憑りついているようです……心当たりはありませんか?」
占い師というより似非霊能者の台詞みたいだが、彼女にはこれで充分のはずだ。
推測するに、彼女は典型的な巻き込まれ気質。知人の頼みを断れなかったり、ずる賢い人間に騙されたりした経験も少なからずあるだろう。
そして現代の対人トラブルは、往々にして金銭が絡むものだ。
彼女はかわいらしく腕組みしながらしばし考え込み、
「言われてみれば、確かにそうかも……。友達に貸したお金は二年くらい返ってきてないし、新聞は勧誘に負けて三社と契約しちゃったし、化粧品も無料サンプルをもらってたらいつの間にか年間契約してるし……」
予想を遥かに凌駕する遭遇率だった! 人間って怖い!
その途方もない戦績に恐怖を覚え、意図せず尋ねてしまう。
「もしかしてお嬢さん……借金の連帯保証人とかになったりしてない?」
「あ、父の話では“連帯保証人になるな”が我が家の家訓らしくて、私も頼まれてもすべてお断りしているんです」
……どうやら両親にも騙されているようだ。家訓が定められるような時代に連帯保証人なんて存在しないだろうよ。
彼女の悲譚を聞いて、気が変わった。あまりにも哀れなのだ。俺の騙欲で、彼女を幸せにしてやろう。
人間と違って、悪魔は嘘の先に利益を求めない。他人を騙すという行為自体に充足を覚える生物なのだ。
「お嬢さん、名前は?」
「山田芳子です」
凡百だ。とはいえ無駄に破天荒な名前よりはこの女性らしい。
「では、芳子さん。あなたにはこの“持っているだけで幸せになれる壺”を差し上げましょう」
台詞とともに差し出したのは、たった今悪魔の能力で出現させた、両手で抱えられるほどの壺だ。こういうとき、ファンタジー設定は便利である。
「ええっ⁉ そんな素敵な代物を、よろしいんですか?」
定番の詐欺の手口にもあっさり引っかかる芳子さん。やはり彼女にこの世間の荒波は過酷すぎる。
「もちろんですよ」
「……じゃあ、お代とかは?」
「いえいえ、純粋に私からの善意だと思ってくだされば」
聖人君子の如き笑顔でそう誘惑する。しかし、
「そんな! ただで幸せになれるなんて……それじゃあ私の気が済みません!」
芳子さんは健気にも遠慮してみせた。彼女に限ってこの壺を疑っているわけでもないだろう、心根の腐った現代人は彼女を右へ倣え精神で模範とするべきだ。
「そうですか……」
唸り、彼女をどう納得させようかと熟考する。
それと同時に、胸の奥底から、もっと盛大に芳子さんをたばかってやりたいという欲求が鎌首をもたげてきた。悪魔が悪魔たる所以。相手を貶め優越感を求める本能。
そして、閃く。次なる謀略を。
口角が邪悪に吊り上がるのをなんとか抑え、さも仕方なしといった様相で呟く。
「では本意ではないですが……胸を触らせてください」
「――はい?」
間の抜けた疑問符が漏れる。そりゃそうか。自分でもかなり突拍子もない――というかセクハラ――発言をしていることは承知の上だ。
「え、えと……胸って、これですか?」
頬を赤らめながら、自らの小ぶりな双丘を指さす芳子さん。俺は渋面を崩さず、無言で頷いた。
「ど、どうして……?」
当然の疑問だ。
「芳子さん、これはあなたのためでもあるんですよ。この壺は持ち主の羞恥心を糧として通常の三割増しで幸福パワーを生成します。つまり乳を揉まれることは、大きな幸せを得るための代償と言えるでしょう。そして私からすれば、揉む行為が壺のプレゼントのアフターサービス。――さて、どうしますか?」
いかにも必死の説得を装い、さらに恩着せがましい口調を演じる。さながら押しで勝負する訪問販売員だ。
暴論を振るう俺に、芳子さんはしばし耳まで真っ赤に染めて俯いていたが、不意に面を上げると、毅然とした表情で俺の双眸を見据え、
「……じゃあ、よろしくお願いします」
震える声で胸を張った。
芳子さんの肩が震えている。俺も緊張に息を呑む。悪魔は人間と違って性欲など持ち合わせていないのに、心臓が激しく高鳴る。たぶん、彼女の肉体を蹂躙することに気分が高揚しているんだろう。
彼女は自分で上着の前をはだけた。そうしてまぶたを降ろす強張った表情に舌舐めずり、俺は興奮に鼻の穴を膨らませ、そのなだらかな丘陵地帯に一瞬だけ指先を触れさせ――
「おまわりさん、あの人です!」
心臓が凍りついた。
仰天して声の主を見遣ると、猿顔の女子高生が肉親の仇でも発見したような気迫で俺を指差していた。
「あの男がそっちの女性に“幸せになれる壺”なんて胡散臭いものを押しつけようとしてたんです!」
いかにも説明臭い、そして容赦ない叫び。
第三者の口から状況を聞くと、明らかに詐欺の現行犯だ。見つけたらそりゃ俺だって通報する。
突然の非常事態に狼狽する俺を、颯爽と現れた中年の警察官二人組がべらぼうな速度で取り囲み、手錠で拘束した。「はいはい、詳しい話は署で聞くからねー」とお決まりの文句を呟きながら。
その間、芳子さんはといえば「へ? あれ?」「あのー……どういうことですか?」などと右往左往していた。現状を露ほども理解できていない。底抜けの阿呆だ。
俺は焦燥した。
詐欺容疑で捕まったことで、ではない。
――まだ、彼女を幸せにしていないのだ。
見届けたい、芳子さんの心底からの笑顔を。
偽善者だと後ろ指を差すならば、好きにしろ。
捨てられた動物に情が移るのと同じ理屈。それのなにが悪い。憐憫だろうが自己満足だろうが、この感情は、本物だ。
「芳子さん!」
ふたりを隔てる車の扉が閉められる直前、俺は顔を突き出し、丹田を震わせて叫んだ。
「大丈夫! あなたはこれでもう幸せです! それと“シャルール”は正面の信号を右に曲がって次の十字路をまた右に曲がったところで絶賛営業中ですよ!」
そして閉じる鉄扉。パトカーは微塵の余韻も残さず発車した。唐突に叫んだ俺を、警官が運転席から怪訝な目つきで睨む。どうだっていい。
最後の台詞が全部伝わったことを、俺は確信していた。それを思えば、中年親父からの冷遇なんて屁でもないさ。
振り返れば、芳子さんの姿。
片手に壺を抱えながら、太陽のような笑顔で手を振っていた――
★
後日、取調室にて――
「だーかーら! 俺は詐欺師じゃないですって!」
「と言っても、証人がいるからねえ」
「芳子さんには――俺と一緒にいた女性には話を聞いたんですか? 彼女なら俺が詐欺なんかしてないって説明してくれるはず!」
「もちろん、事情聴取はしたよ」
「だったら――」
「彼女が『おっぱい触らせたからこれで幸せになれるんです』って言ってたんだよ」
「うげ……」
「なにをすれば女性にあんな発言させられるの? 詐欺っていうか、もはや洗脳でしょ」
「まあ、いろいろと経緯がありまして……。というか、むしろアンタ、彼女に変なことしてないだろうな。たとえば胸を触ったりの痴漢行為」
「……警察を馬鹿にしてる?」
「いえ、単純に警察を信用していないだけです」
「詐欺の容疑者の割に、ずいぶんと正直な台詞だね」
「だから詐欺師じゃないですって。こんなにも正直なんですから。ね?」
「……確かに、それはそうかも。釈放しちゃっていいかな」
「どうもー」
――悪魔は話術に長けているのである。
読んでいただきありがとうございます!
“正直者が馬鹿を見る”という言葉は、まさに現代社会の縮図です。同時にそれは、人間同士が関わる上で凶悪な足枷となります。
大仰な話ですが、他人を信じられる人間こそが希少種な今、個々人が勇気を持って疑念の殻を打ち破らなければ、世界中が疑心暗鬼に包まれてしまうのではないでしょうか。
とか真剣に考えて執筆を始めたんですが、おっぱいを揉むくだりから明らかに大幅な脱線事故を起こしております。