第六話 エピローグ
要は大きく深呼吸をすると気合を入れて教室へと足を踏み入れた。
まっすぐに窓際の一番後ろの席に向かって歩み寄った。
まだ朝のホームルームの始まる時間前だったけれど、黒神礼には自分の席にいつも通りほほ笑みを浮かべて静かに座っている。
「黒神、話があるんだけど」
黒神礼美の机に手をついて、要は彼女に顔を近づけていった。
「なんで……」
微笑が驚いた顔に変わった。
「俺に呪いはきかなくて残念だったな。怪我の一つもなくて元気なんでびっくりって感じか?」
不敵に笑って見せた要だったが、要のセリフは黒神礼美の耳には届いていないようだった。信じられないといった感じで目を見開いて微かに顔を左右に振っている。
「なんで……なんで、私に構わないでって言ったのに……私のこと嫌いだって言ったのに……嫌いだって言ったのに……」
声にならない声で呟きながら、黒神礼美は震えていた。
「お、おいちょっと」
その様子に話しかけた要は面食らってしまった。
朝のざわめきの中にあった教室はすっかり静かになってしまっていたし、クラスメートたちの視線を一身に集めてしまっていたけれど、要は気にしている場合じゃなかった。
すっかりと冷静さを失ってしまった様子の黒神礼美を落ちつけようと要は彼女の肩に手を伸ばした。
「さ、触らないでください!」
悲鳴のように叫んで、黒神礼美は立ちあがって要から離れるように後ずさった。イスが勢いよく弾き飛ばされ床に転がる。
要は両手を顔の前でクロスさせていた。
昨日と同じように黒神礼美が叫んだ瞬間に何かが吹き抜けるのを感じたからだ。
「い、今のなに?」
「風?」
何かを感じたのは要だけではなかったようで、近くにいた生徒たちは不可思議な現象に戸惑いの声をあげていた。
「これって……もしかして……」
恐々とした視線が黒神礼美に向けられ、そして逸らされていった。
「……駄目です。私に……私に触らないでください……私に触ると呪われるから……呪われるから……触らないで……」
自分の身体を抱くようにして黒神礼美は呟いている。顔は泣きだす寸前のように歪んでいて、瞳は恐怖に揺れていた。
そこには昨日、要がムカつくと文句を言った黒神礼美の姿はどこにもなかった。
その姿に茫然としてしまった要だったが、我に返ると慌てて彼女に近寄った。
「い、いや、こないで……触らないで……」
まるで要が黒神礼美をいじめているような状況だった。
「なんでこんなことに」
ぼやきながらも要はこのまま黒神礼美を放っておくわけにはいかなかった。
「おい!」と少し強めに声をかけると、黒神礼美は身体をびくりと震わせて要に視線を向けた。今までも要の方を見ていたのだけれど、ようやく焦点が合った感じだ。
「大丈夫、触らないから。それに俺には呪いはきかないから。な、だからちょっと落ち着いてくれよ。頼むよ」
必死の面持ちで要が話しかけるとようやく黒神礼美には呟くのをやめて頷いた。
「えっとな、おまえに話があるんだけど、ちょっといいか?」
はじめの勢いもすっかりなくなって低姿勢になって要は黒神礼美に話しかける。
彼女が頷いてくれたのを確認して、
「ここだと何だから、あー、屋上までついてきてもらってもいいか?」
「……わかりました」
という返事を聞いて要はほっと息を吐き出した。
「じゃ、じゃあ行こうか」
「……はい」
なんとなく微妙な空気になってしまったけれど、要は廊下に向けて歩き出した。その少し後をうつむき加減で黒神礼美が続いていく。
「要……」
倉田の声が聞こえてきたが、要は恥ずかしいような何とも言えない複雑な気持ちで教室内に視線を向けることができなかった。ただ倉田がいるであろう方向に向けて片手をあげて大丈夫だというように親指を立ててみせた。
屋上には当然だが誰もいなかった。
朝の屋上は、空気が澄んでいるような気がしてきて独特の雰囲気があるなと、なんとはなしに要は思った。
ここに来るまでの間、校内でも有名人である黒神礼美を従えるようにやってきたので、要は大変な注目の的になってしまっていた。
大きなため息の一つもつきたい気分だった。
しかもすっかりしおらしくなってしまって、うつむいて悲しそうな表情を浮かべている黒神礼美の姿を見ると、実は要の方が泣きたくなってくるところだ。
屋上に着いたのはいいけれど、少しの間二人とも何もしゃべらずに無言だった。
黒神礼美は要に呼ばれたからついてきたという雰囲気だったし、要の方は自分が考えていたシチュエーションとまったく違ってしまっていて戸惑っていた。
要の予定だとお互いケンカ腰とまではいかないけれど、もっと険悪な雰囲気になっていて、その勢いで少年神様からもらったお札を押しつけてしまうつもりだったのだ。
「ああもう!」
気合を入れ直すように要は自分のほっぺたを両手で叩いた。そして黒神礼美を正面から見据えて彼女にすぐそばまで近寄った。
「あ……」
怯えて震える黒神礼美を見て要は何だ悲しい気持ちになった。
「あのな、別に殴ったり、怒鳴ったりするつもりはないからそんなに怯えないでくれよ。昨日ひどいことを言ったことも謝るからさ」
「ひ、ひどいことを言ったのは、私の方。ごめんなさい。呪われろなんて言ってごめんなさい。イライラさせちゃってごめんなさい。存在していてごめんなさい」
「だから、謝るのは俺の方だって、ごめん! すげえひどいこと言った。呪われて当然かもしれないけど、運よく俺は呪いを解いてもらうことができた。だからおまえの呪いも解いてやりたいんだよ!」
泣きそうな声で謝り続ける黒神礼美の声にかぶせるようにして要は言った。
「えっ……呪いを解く……」
「そうおまえについている悪霊ってやつを祓ってやって、呪いを解くんだ。そうすればもう呪うの呪われるのって言う話も終わりになる」
「嘘、そんなのウソ。だ、だって、私はいっぱい呪っちゃったから、だから私は呪われていて、誰も私を見てくれなくなってしまったのだから。私だけ許してもらうなんてことできない。許されるはずない……」
黒神礼美の目には涙がたまっていた。要の言葉を信じてみたい。だけどどうしても信じることができないという感じで言葉も感情も黒神礼美のすべてが揺れているようだった。
「えっとな、ある神社に神様がいてな、そこで俺の呪いも解いてもらうことができたし、その時もらったこの札を使えば、おまえについている悪霊ってやつを、そうそう、おまえは悪魔が憑いているなんて噂になっていたけど、悪魔じゃなくて悪霊らしいぞ。って話がずれちゃったけど、とにかく神様とか胡散臭いかもしれないけど、この札が消えるまで持っていれば、悪い霊を祓うことができるらしいぞ」
説明しながら我ながら胡散臭いなと思わずにはいられない要だった。
しかし要が差し出したお札を黒神礼美は手に取ろうとはしなかった。
やはり信じられないのか怖いのか、とにかく胸の前で両手を握りしめて、お札と要の顔に視線を漂わせている。
「おまえだって、いつまでも呪いだなんだっていうこの状況は駄目だって思っているんだろ?」
黒神礼美にかかわると呪われる。
これは事実だった。実際に要自身も体験してしまったし、今までたまたまだと思っていたことも黒神礼美のせいだったのかもしれない。
だからこそ要は黒神礼美がいつもほほ笑みを浮かべている意味に気がついてしまった。
声をかけた時に自分にかかわるなと忠告をしてくれた意味を悟ってしまった。
「もう誰も傷つけたくないって思っているんだろ?」
それでも黒神礼美は否定するように拒否するように顔を横に振る。
「一人はさみしいだろ? さみしいからクラスメートの名前とか覚えないんだろ。知ろうとしないんだろ? 知らなければ関わりを持たなければ、自分は一人だと意識してなければつらいんだろ? これは俺の勝手な思い込みだから勘違いかもしれないけど、本当は誰かと話したり笑ったりしたいんじゃないのか? 今を楽しく過ごしたいんじゃないのか?」
「でも、でも、私は人を呪ってしまいました。いなくなっちゃえと願ってしまいました。だから私の周りからは誰もいなくなりました。人を呪った私ですから、呪われてしまうのも当然です。これ派閥でもあるのです。明石さんもこれ以上私にかかわると本当に呪われてしまいますよ」
さみしそうな表情を浮かべて、黒神礼美は静かに語った。
だけれど要はそんな話を聞きたいのではなかった。
「だからさ、この札を使えばその呪いを解くことができるんだよ。おまえさ、小学生の時から今みたいだったんだって? だったらさ、もう一〇年近くたっているわけだ。楽しい時期を一〇年も無駄にしているんだぜ。もう自分を許してもいいんじゃないか。なんだったら俺が許してやるぜ。だからほら」
わざとおどけるように言って、要は手に持っていたお札を黒神礼美の手に握らせようといた。
黒神礼美の手もおずおずとお札にのばされた、その時だった。
ものすごい力が要を吹き飛ばした。
「―――ッツウ」
幸い前日と違ってフェンスは遠かったので、要の身体は広い屋上を転がるだけで済んだ。
たいしたダメージもなく、なんとか要は立ち上がる。
黒神礼美は呆然と要を見つめていた。
その様子から今吹き飛ばしたのは彼女が要を拒否したからではないことがわかった。
「これがもしかして悪霊の反発ってやつか。こんなきつい一発をくらうなんて聞いてないぞ。本当に予定通りにいかねえな、こんちきしょう!」
要は黒神礼美に向かって走り出した。途端に圧力のようなものを感じてすぐに勢いを殺されてしまう。けれども要はあきらめない。一歩一歩確実に黒神礼美に近づいていく。
彼女に近づくと近づくだけ、まるで磁石が反発するように要は抵抗を感じていた。
台風の時の強風に立ち向かうように前傾姿勢になりながら、手にお札を握りしめた要は黒神礼美に近づいていく。
なにがなんでもお札を押しつけてやるつもりだった。
これだけ抵抗があるということは、きっとこのお札は間違いなく黒神礼美の呪いを解くことができるのだと要は確信していた。
だから歩みを止めない。
歯を食いしばって進んでいく。
そしてついに黒神礼美の腕を掴むことに成功する。
「なんで……」
黒神礼美は泣いていた。
顔をくしゃくしゃにして泣き顔を要に向けていた。
「ここまできたら絶対悪霊を祓ってやる。ここでお前を見捨てたら、俺は一生後悔する。つまり人生台無しだ。だから助ける」
とはいうものの今にも要は吹き飛ばされそうだった。最初の勢いで殴られるような衝撃がきたらすぐにでも離れてしまいそうだ。
だから要は黒神礼美を抱きしめた。
きつくきつく力いっぱいに抱きしめた。
そこで要ははじめて黒神礼美が小柄できゃしゃな体つきをした女の子だということに気がついた。
小さな女の子だった。
恐怖の対象のように言われていた少女だから、なぜか自分と同じくらい、もしくは自分よりも大きいような気がしていた要だったが、今はじめてそのことに気がついた。
まるで竜巻に巻き込まれたように二人の周りを風が吹き荒れていた。
手に持っていたお札を握りしめ、そのまま黒神礼美を胸に抱いて、要はひたすら嵐が過ぎるのを待つように耐えていた。
「俺が守ってやるから」
無意識のうちにそんなことを呟いていた。
胸の中で黒神礼美が頷いたような気がした。
いつの間にかめちゃくちゃに荒れ狂っていた気配がなくなっていた。
知らない間に手に握りしめていたお札はどこかに消えてしまっているのだが、それでも要は目をつむったまま黒神礼美を抱きしめ続けていた。
「あ、あの……」
腕の中で身じろぎする気配を感じて要が目を開けると、すぐ近くに黒神礼美の真っ赤な顔があった。
「あ、ご、ごめん」
慌てて要は抱きしめていた少女を離した。今になって要の方も顔が熱くなってくるのを感じた。考えてみれば女の子を抱きしめたのは人生でも初めての経験だ。
あたふたと意味もなく両手を動かして、そこでお札がなくなっている事にも気がついた。
「終わったのか?」
警戒するように辺りを見回して、そこで要はかわいらしい女の子を発見した。
つまりは黒神礼美のことなのだけれど、彼女の印象はまるで違っていた。
文字通り憑きものが落ちたといった感じだ。
「あ、あの、か、要くん」
思わず見とれてしまっていた要に恥ずかしげに少女が話しかけてきた。
「え? 俺?」
名前を呼ばれて要は我に返るどころか驚いてしまった。
「ご、ごめん。名前呼ぶの迷惑ですよね?」
上目づかい要を見る少女は本当に別人のようだった。
「別にかまわないけど……」
「本当に! よかった」
胸の前で両手を握りしめて症状はうれしそうにほほ笑んだ。
その微笑みは今まで浮かべていた偽物の笑みとは違って、とてもいい笑顔だった。
「あのそれで、要くんは今彼女がいたりするのですか?」
「いやいないけど」
少女の頬笑みに見惚れていた要は無意識に答えていた。
「じゃ、じゃあ、あの、私を要くんの彼女にしてください」
頬を赤らめて少女、黒神礼美は言った。
まるで別人だった。
「……………」
黒神礼美の言葉の意味が要に伝わるまでに長い時間がかかった。
少女は瞳を潤ませながら要の答えを待っている。
「え? は? ええっ! なんで?」
要は思い切り混乱した。
意味がわからない。
なんでこうなったのかまったくわからない。
はじめはただ単に席が隣になったからだった。
「いや待って、いやちょっと、ええっと」
「要さんははじめて私とちゃんと向き合ってくれました。ひどいことを言われて嫌いだと思いましたけど、こうやってまた話しかけてくれました」
「………」
「知っていますか。私みたいにまわりから拒絶されていたさみしい女の子は、ちょっと優しくされるとすぐに相手のことを好きになっちゃうのですよ」
「いやでもさ」
「私じゃダメですか?」
「いやダメとは言わないけど……」
「じゃあいいですよね。私、絶対に要さんのこと離しませんから。浮気したら、相手の女の子のこと呪っちゃいますから」
笑顔でなんだか怖いことを言っていた。
要はいまだ思考がついてきていなかった。
「きっと私、ヤンデレですよ」
悪霊は祓うことができたけど、なんだか別の者にとりつかれたような気がする要だった。
なんとなく二人のその後を書いたらおもしろそうな気もするけど一応これで完結です。