蕎麦屋は二度ベルを鳴らす 2
帝都東京。麹町に探偵事務所を開く元警部のロバさんこと路場戸出二郎は三本指にはいる銀行を有する住吉財閥の美しき女主人・由美子に呼ばれ、挑戦とも受け取れる奇妙な依頼を受ける——。***ご注意***同じ小説家になろうサイトで活動されている三人の方々とひょんなことからTwitter上で盛り上がったリレー小説企画です。(1話目)巳田さま→(2話目)まめご*いまココ*→(3話目)天ヶ森雀さま→(4話目)kuro-kmdさまと続きます。展開および設定の縛りなし、とにかく話を続ければOKというアバウトな企画です。よってこの話はここでは続きませんのでご注意ください。続きは『蕎麦屋は二度ベル』『リレー小説』タグつながりにてお願いいたしします。また続きの公開時期は各書き手さまの都合によるため未定です。よろしくお願いいたします。
空に向かって二本脚をかけるように伸ばす兎の銅像の下、元次は小さな背をさらに縮こまらせて、長身の男の後ろ姿を見送っていた。
時々、身をゆすらせる。傍から見るとふ化する前のさなぎの様でもある。
「元次」
冷徹ともいえる涼やかな声が聞こえ、振り向いた元次がみたのは画面いっぱいのブーツの靴裏だった。
「みにゅっ……!」
のけ反った小男の顔を表情一つ変えずにグリグリと踏みつける女は、先程、女主人の後ろに控えていた富士子だ。
「困った人ね、何をペラペラしゃべっていたのかしら」
「いてェよ、いてェよ。ふーじこちゃーん、ヤーメーテー」
「その名前で呼ぶのはやめて頂戴」
元次の頭に優雅に踵落としをかますと、エプロンドレスがひらりと舞った。富士子ちゃんは足グセが非常に悪い。
しかし元次も慣れているもので、すぐにけろりとした顔に戻り
「何も言ってねえだよ……大奥様が奇術師だってことを教えてやっただけでさぁ」
言ってから富士子の剣呑な冷気に押されたように慌てて付け足す。
「さ、先にそういうのは伝えていた方がいいだろぉ、下手に隠して疑われたらたまったもんじゃない……」
「ふん」
小男の言い訳を鼻息一つで封じた富士子は彼方を睨んだ。屋敷を訪問した背の高い男の姿はもう見えない。
「若奥様は何で、あんな事を言い始めたんやろ」
乾いた風がかさこそと枯葉を物悲しく掃く中、ぽつりと元次が呟いた。
それはそのまま富士子の心でもあった。
しかも探偵まで雇って。
――あの人はわたくしを疑っているのよ。それがとても辛いの。
歌うように言う由美子への疑惑は、心の中で水に落とした墨汁のようにジワジワ広がってゆく。
由美子は鉄朗を愛していないどころか、興味すら持っていない、と富士子は思っている。第一新婚当初、ロンドンの鉄朗氏の元に自分を派遣したのは由美子自身だ。
「あの探偵、どう思って?」
元次は細い目を見開いて冨士子を仰ぎ見たが、しばらくして答えた。
「奇妙なお人やな」
いつのまにか国言葉になっている。
「そうね」
富士子も同意した。
変人との噂高い炉場戸出二郎氏だが、まさか蕎麦持参で参上するとは思ってもみなかった。掴みどころのない昼行燈のような雰囲気の中、最後、眼光だけがカチリと煌めいた。富士子の知っている男も、そんな目をする男だった。
「どちらにせよ」
ずいぶんと冷たくなった風に語りかけるように、富士子は一人ごちる。
「大奥様の名誉は守らなくては。いくら大奥様が稀代の奇術師でも、お墓の中からの脱出は無理だもの」
***
来客が去った部屋の中、蓄音器からはミッシャ・エルマンの「アヴェ・マリア」が静かに流れている。
とろりとした濃厚な音色に耳を傾けながら、由美子はゆっくりと長椅子の背に身を預けた。
「虹子」
足元でうずくまっていた白い子犬を抱き上げると、返事をするようにきゃんと鳴く。
そして由美子の心中を察したのか、手の甲を労わるようにぺろりと舐めた。
目を細めて微笑した由美子はゆっくり立ち上がって、濃緑色のビロウドのカーテンに縁取られた窓際へと向かう。虹子は大人しく抱かれたままだ。
窓の外の風景は、夏の名残りをきれいにそぎ落として、すでに秋の気配を見せていた。
枯葉が一枚、二枚、風に踊り、飛んで消えゆく。
「お母さま」
ふくいくとした桜貝の色をした形のいい唇が動いた。
「お母さま、ごめんなさい」
言葉はヴァイオリンの奏にまぎれて、脆く儚く消えて行った。
胸元の虹子だけが聞いていた。
***
炉場戸出二朗氏の事務所は麩町に立ち並ぶビルの一角にある。建てつけの悪いきしむドアを開けると、ぴょっこりと少年が顔を出した。
「ロバさん、おかえんなさい」
嬉しさ全開、人懐っこさ満開で両手を差し出す少年に、二朗は苦い顔をしながらまずフェルト帽を渡し、ツイードのジャケットを脱いで渡した。
「ロバさんはよせ、ボウズ」
「はい、ロバさん。でもぼくはボウズじゃありません。小林です」
二朗の顔がますます苦々しくなった。二朗は小林少年の事をボウズと呼び、小林少年は二朗をロバさんと呼んで憚らない。お互いの名を訂正しあうのは儀式の様なものである。
小林少年は元々、町の悪ガキ共の総大将だった。とある事件があってしょっぴき、刑事魂の導くまま滔々と説教した所、非常に感銘を受けた少年は心を入れ替えたらしい。それは喜ばしいのだが、以来、親鳥に懐く雛のように二朗に付きまとうようになった。
最初は辟易して逃げ回っていた二朗もついには根負けして、この巣のような事務所の出入りを自由にさせている。
「お茶いれますね」
帽子とジャケットに丁寧にブラシを入れポールに掛けた後、いそいそと茶の用意をする小林少年の姿はまるで、新婚生活に浮きたつ新妻そのものだ。
もう慣れた。
べろりと顔を撫でて、きしむソファに腰掛けた二朗は、暖かい湯気の立つ茶に手を伸ばした。
小林少年は茶を入れるのがうまい。住吉邸で出された極上の煎茶までとはいかずとも、疲れた体を癒すには十分だった。
とは本人には言ったことがない。調子に乗るのが目に見えているからだ。
「今日のご依頼はどんなんだったんですか?」
小さなテーブルを挟んだ向かいの小椅子に腰かけた小林少年が、興味津津の様子で聞いてくる。二朗は住吉邸での顛末を詳細に語った。第三者に話す事によって、次第に頭の整理も出来てくる。
由美子の願い。夫の鉄朗。奇術師の母。買収劇。大岡平次。住吉財閥。白い子犬。富士子という女。元次の丸まった背。並木の蕎麦。
「蕎麦は関係ないんじゃないですか?」
極めて正確な突っ込みが小林少年から入った。
「君はどう思う」
あえて無視して二朗は聞いた。うーん、と小林少年は唸る。
「皆目分からないや。でもロバさんは、もう検討がついているんでしょう?」
一番星を埋め込んだようにキラキラと目を輝かせて見つめてくる小林少年に、二朗は苦笑を返す。
「大方はな。だが、確証はない。となると」
「まずは情報収集ですね!」
飛びあがらんばかりに立ちあがった小林少年は、勇み拳を握った。
「小林軍団に収集をかけます! 任せてください、どんなささいな噂話だって拾ってきますよ!」
元悪ガキ大将は今だに子分たちに慕われているらしい。時にはどんなブン屋にも負けない強力なネタを拾ってくる彼らを総して「小林軍団」と呼んでいる。ちなみに最少年齢は9歳である。
「うん、頼む」
勿論、子供たちにだけ任せる二朗ではない。警部時代のつても、帝都図書も使えるものはすべて総動員するのが彼の流儀だった。
「はい!」
元気よく敬礼した小林少年の腹が、盛大に鳴った。グーキュルルルルーと飯を催促している。
「飯にでもするか」
再度、苦笑した二朗がフェルト帽を手に取る。顔を真っ赤にさせた小林少年が頷いた。
「今時分なら、角の蕎麦屋が空いているだろう。いこうか」
「お昼も蕎麦だったのに、晩もですか?」
呆れたような小林少年の頭を二朗は笑って小突いた。
「馬鹿。蕎麦屋は蕎麦を楽しむだけのもんじゃない。それに」
ばさりとジャケットを羽織り、帽子を粋に被る。
「俺の体は蕎麦で出来ている」
それはちょっと気持ち悪いです、という極めて真っ当な小林少年の意見は、再び無視された。
つづきは、天ヶ森雀さま(109370 )へ