絶望する者 ―月城 英次―
ピリリリ…、ピリリリ…、 ……ガシャリ。
ぼくは目覚まし時計の朝の警告音に、鉄塊のように重たい右手で処断をくだす。
…ぼくは今日も平凡な目覚めを迎える。毎日さわやかな一日の始まりを享受していた古きよき時代
を想い、ため息をつく。この歳で、何の悩みもなく暮らしている人なんて世界のどこにもいないと
頭ではわかっている。だけど、体はけだるさという生理状態をもって、ぼくを苦悩させる。
しばらく何も考えず、ボーっとして気持ちを落ち着ける。最近のぼくにとって、この時間が最高の至
福の一時である。
「えいじ~。もう起きた?」
下の階から母さんの大きな声が聞こえた。ぼくの部屋はこの家の2階。平凡な2階建てのマイホー
ムの主である。去年までは兄の秀幸と2人で使っていた部屋だが、その兄さんも今年から近くの鉄工
所に就職し、一人暮らしを始めている。
「ああ、もう起きてる。今行くよ」
ぼくはそう応えると、すばやく着替えて通学かばんをとると、階段を下りて居間へと向かう。
居間に着くと、朝食はすでに用意されていて、テーブルに向かいあうようにして二人分、きれいに
並べてある。メニューはごはんと玉子焼きに、昨日の夕飯の残りのシジミの味噌汁。味噌汁は沸騰す
るまで火にかけられていたらしく、真っ白な湯気を立てている。うっかり者の母さんらしいといえば
らしいが、父さんや兄さんに小言を言われても直らないところは、まさに筋金入りだ。
今日は水曜日、平日は父さんはぼくが起きる前に出勤してしまうので、今は母さんと二人で朝食を
食べている。テレビを見ると、父さんがつけっぱなしにして行ってしまったらしく、今日のニュース
が流れていた。ニュースではここ最近のはやりの首相批判が今日も行われている。みんなで祭りあげ
た人間をみんなで蹴落とすのだから、とんだ茶番劇だと思ってしまうニヒルな自分が顔を出す。
「ねえ、早く食べないと遅刻するわよ?」
母さんに後ろから声をかけられて、はっとする。気づくと時計は6時15分を指していた。電車通
学のぼくにとっては6時半の出発が、平和な学校生活のための絶対条件である。
「ああっ!!ヤバい、ヤバい。もうこんな時間か」
「秀幸がいなくなってから、下におりてくるのが遅くなったから、…気をつけなさい」
母が戒めるようにぼくを叱咤する。しかし、ぼくはそれどころじゃない。
「わ、わかったから。早く席について! 急がないと遅れちゃうよ」
母が席につくと、ぼくは急いで食べ始める。…が、そのスピードを熱い味噌汁にたびたび
妨害される。
「ねえ、えいじ。ちょっといい」
食事中に話すことがあまりない母さんが、自分から口を開いたことにぼくは少し驚く。
「え、食べながらでもいい?」
ぼくは母さんに一応承諾を求める。
「え、ええ。父さんが今日の朝話してたんだけど。今度えいじと二人で話したいんだって」
「え、何で?」
突然のことにぼくは二度おどろいた。何せ父がぼくと二人で話したいなんて言ったことなんて
今まで一度もない。
「えいじ、あなたも今年で高校3年生でしょう? あなたが自分の進路についてどう考えてるのか
お父さんが聞きたいんだって」
ぼくはその言葉に少し箸の動きを止めたが、すぐにまたご飯を口にかき込んで、あえて何もしゃべ
らないようにする。
ぼくが朝食を食べおわるまでしばらく沈黙が続いた。母さんはぼくが食べ終わるまで、ほとんど
食べることもせず、ぼくのことを見つめていた。その視線はなぜかとても煩わしくて、嫌だった。
食べ終わるや否や、ぼくは通学かばんを手にとって玄関の扉へと急いだ。
「えいじ!やっぱりお父さんには少し考える時間がほしいって言ったほうがいい?」
母さんがぼくの背中に、何かを請うように叫びかける。あまりの声の必死さに後ろから掴まれるよ
うな気がして、思わず後ろを振り向いてしまった。母はぼくが思ったよりは少し離れたところで、
不安そうに立ちつくしていた。
「別にそんな必要ないよ。父さんとは今度話す。進路についてはもう考えてる。これで何も
問題ないだろ?」
ぼくはできるだけ明るくこう答えて家を出た。
…たぶん、母さんは兄さんの時と同じようになるんじゃないかと怖れているんだろう。それは、
十分理解していたが、ぼくもそれなりの覚悟はしている。
ぼくは去年まで2人で歩いていた通学路を、1人で駆けていた。味噌汁で少し火傷した舌が
ヒリヒリと疼くのを感じながら。