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苦い告白

 青々と葉を茂らせた銀杏並木を歩き、地下鉄駅への階段を降りようとしたとき、後方でクラクションが鳴った。振り返ると、路肩に帝都電力の軽自動車が止まっており、運転席の窓から氷室が手を振っていた。

「あ……」

 小走りで近寄っていくと、氷室は助手席に乗るように手で合図した。

「この先の現場に用事があったから」

 そう言って車を発進させた氷室を、愛子はチラリと盗み見た。色黒の彼の頬が、ほんの少しだけ赤くなっている。愛子は思わず心からの笑顔になった。今日この辺りで作業している班は無い。無線指令の関係で、各班の作業予定区域は、いつでも愛子の頭の中にしっかりと入っている。きっと氷室はわざわざ迎えに来てくれたのだろう。その心遣いを嬉しく思うと同時に、さっきの後ろめたさがぶり返してきた。

「試験はどうだった?」

 尋ねられて、愛子はバッグの中から合格通知を取り出した。氷室はチラリと横目で見て、満足そうにフロントガラスへと視線を戻した。

「これで、名実共に工事課の作業員の仲間入りですね。上田さん、おめでとう」

 微笑む彼の横顔を見ているうちに、愛子はもうこれ以上昨日のことを黙っていられなくなってしまった。せっかく飯田が庇ってくれたのに、と心が痛んだが気付いた時には淡々と昨日のことをしゃべっていた。

 氷室と女性の乗ったタクシーを追いかけて、軽トラックで管轄外まで単独運転したこと。それを飯田のせいにしてしまったこと。

 赤信号で車が止まった。氷室は大きく息を吐くと、車の天井を仰いだ。愛子は逆に俯いて自分の膝の辺りを見つめた。

「黙っていて、すみませんでした。馬鹿なこと、したと思ってます。でも、どうしても、二人がどこに行くのか知りたかったんです」

 そして、愛子は最後まで正直に言った。

「……氷室さんが、好きだから。とても気になるから……」

 言ってしまった。

 チラリと横を見ると、氷室は天井を凝視したまま固まっている。後続車からクラクションを鳴らされて、氷室ははじかれたように動き出した。とっくに青信号になっていた。

彼はハザードを出すと、車を路肩に寄せた。そのまま歩道の銀杏を見ながらしばらく沈黙したあと、彼は困ったような顔で言った。

「なんか、俺、今すごく動揺してるんだけど」

 愛子はにわかに不安になった。自分のしたことを改めて思い返すと、とても正気の沙汰とは思えない。完全に行き過ぎのストーカー行為だし、それを飯田の責任にして黙っていたなんて、よくよく考えると、信じられない性悪女だ。氷室は完全に引いてしまったのだろう。

 嫌われた。絶対に嫌われたと思う。

 羞恥と自分自身への嫌悪感で胸がむかつく。俯いて息苦しさに耐えていると、ため息が聞こえた。彼の顔が見れない。きっと呆れて言葉も出ないのだ。そう思うと、今にも涙が出てきそうだった。私服の白いスカートの膝を、ぎゅっと両手で握り締め、愛子はひたすら謝罪した。

「ごめんなさい……」

 彼は何も言わずに車を発進させた。

 ――もう、お終いだ。

 気まずい沈黙のまま、二人の乗った軽自動車は会社に帰還した。


 車から降りて本館の更衣室に行こうとする愛子に、氷室が声をかけた。

「上田さん、規則違反のことですが」

 愛子は身構えるようにして振り返った。氷室の顔が曇っている。

「規則違反は始末書です。でも、始末書は別な形で飯田くんが書いてしまいました。ですから、もうコレに関して上田さんを処分することはできません」

「はい。わかってます……」

 彼の顔を正視できなくて俯くと、氷室は低い声で言った。

「……本当に、反省しているの?」

 返す言葉もなく、愛子はただじっと下を向くしかない。今、改めて彼と自分の立場を思った。

 ――あたしは、上司を困らせる、とんでもない部下だ。

「ごめんなさ……」

「ムチャしやがって」

 謝罪を遮った氷室の声に、顔を上げた愛子は息を飲んだ。彼の顔は苦しげに歪んでいる。愛子の目を見つめると氷室は怒ったように言った。

「あんな、廃車寸前のおんぼろトラックで高速に乗るなんて、事故でも起こしたらどうするんだ?」

「あ……」

「もう、周りの人間が事故に遭うのはたくさんなんだよ」

 そう言った氷室の顔は、苦いものを呑み込んだようで、愛子は胃の辺りがきゅうっとした。どうしたらいいのかわからず頭を下げた愛子に、彼はぽつりと言った。

「それから、さっきの事だけど……」

 彼は言いにくそうに口ごもったが、少し間を置いてはっきりと言った。

「あれは、聞かなかったことにしておくから」

 氷室の声は、業務連絡をするときのそれと同じに聞こえた。彼はくるりと踵を返すと、先に立って歩き出した。

 愛子は何も言えぬままに唇を噛んだ。自分の気持ちを告げた事は、彼にとってやっぱり迷惑だったのだ。それでも、毎日顔を合わせて仕事をするのだから、早いうちにケジメだけはつけておかないといけない。それが大人というものだろう。

 立ち去ってゆく氷室の背中に向かって、愛子は震える声で言った。

「あのっ、ご迷惑な事はわかってます。でも、でもどうしても言いたかったんです。……それだけですから。もう二度とストーカー行為もしません。氷室さんのプライベートに好奇心を持ったりもしません」

 言っているうちに、涙が滲んでくる。氷室が立ち止まってゆっくりと振り返る。

「規則違反も絶対にしません。だから……」

 愛子は泣きたいのを堪えて懸命に笑顔を作った。

「明日からも今までどおり、一作業員として、皆と同じに扱ってください。お願いします!」

 なんとかそれだけ言い終えて、愛子は氷室の脇をすり抜けると本館に走った。氷室の呼ぶ声がしたが、振り向かなかった。

 ――限界だ。これが、精一杯。

 誰も居ない女子更衣室に駆け込むと、わんわん声を出して泣いた。

 ポケットティッシュ一個分を使用して鼻をかみ、三十分ほどぐずぐずした後、丁寧に顔を洗った。化粧をして、濡れた前髪をヘアピンで留める。白いワンピースからいつもの青い作業着に着替えると、ようやく気持ちが落ち着いてきた。もう職場に戻っても、なんとか仕事ができそうだった。自分の感情を誤魔化せる歳になったという事だろう。良くも悪くも社会に揉まれ、少しは大人になっているのだなと、何だか奇妙に冷めた自分を自覚した。


 プレハブに戻る為に本館一階の廊下を歩いていると、右手側のドアが開いて飯田が出てきた。ドアの向こうは営業課のフロアだ。

「おう、おチビ。当然、合格したんだろう?」

「うん、楽勝。……っていうか、飯田くんのおかげで……」

 そこまで言って、愛子は口をつぐんだ。彼の背後に桜井の姿があったのだ。彼女は営業課の女性社員と話をしながら、開いたドアの隙間を通してこっちを見ている。飯田と親しく話していたら、またチクチクといじめられるかもしれない。普段であればどうってことのない悪口も、さすがに今日浴びせられたら平常心を保てる自信が無い。

 飯田は愛子の様子に気付かず、ニコニコ顔で話しかけてきた。

「そうだよな、大きな貸し作ったからな。どうやって返してもらうかなぁ。チュー一回とかでもいいかな」

 いつもの軽口だが、さすがにこのタイミングはまずい。

 飯田のアホんだら! 叫びたいのをぐっと堪えて視線を彼の背後に向ける。飯田を挟んで桜井とバッチリ目が合ってしまった。

 まずい!

 思わず肩をすくめるようにして会釈すると、何と彼女が花のように微笑んだではないか。

 愛子は自分の目を疑った。絶対に、凄い目で睨まれるかと思っていたのに。

 桜井は歩いてくると、ドアにもたれかかって声をかけてきた。

「相変らず仲良しね。うふふ」

 その声に飯田が飛び上がった。桜井の方を振り向いた彼は、まるで幽霊でも見たような顔をしている。桜井は飯田に魅力的な笑顔を向けると、今度は愛子に対して思いも寄らない言葉をかけてきた。

「上田さん、認定試験合格おめでとう。女性初の現場作業員の誕生ね。大変だと思うけれど、頑張ってね」

 桜井の豹変振りについてゆけず、愛子はただガクガクと人形のように頷いた。いったい彼女に何が起こったというのか?

 飯田も同じように感じたらしく、無言で目を合わせてきた。

「あ、そうそう、上田さん専用のシャワールーム、二、三日中には女子更衣室に設置されるから。楽しみにしててね」

「あ、ありがとうございます」

 二人が見守る中、桜井は優雅な足取りで総務課のある二階に戻って行った。

 彼女の後姿が完全に視界から消えると、飯田が囁いた。

「何か、桜井……おかしくねぇ?」

 確かに。でも、おかしいという言い方は違う気がする。むしろ、以前の彼女に戻ったようだ。いや、以前より遥かにはじけている。

「そういうのって、やっぱり『おかしい』っていうのかな?」

 愛子は飯田と顔を見合わせて首をひねった。


 桜井の事があり、氷室に振られたダメージはいつの間にか紛れていた。

 工事課では、愛子の認定合格を祝って、若手の奥田と河合を中心に一杯飲もうという企画が持ち上がっていた。

「そんな事してくれなくっても、いいってば。まだ大型免許だって取れてないのに」

 顔をしかめる愛子に、奥田は「それはそれ、これはこれ」と言って白い歯を見せる。工事課の人間は、皆何かにつけて飲みたがるのだ。愛子のお祝いだって、飲みたいが為の口実に違いない。それでも、彼らの気遣いがちょっぴり嬉しかったりする。明日からは愛子も事務員ではなく、作業員という肩書きだ。氷室の下、外に出て共に働く仲間という意味で、何だか以前より奥田たちに親しみが湧いてきた。

 こうやって楽しくやっているうちに、きっと氷室の事もただの上司として見れる日が来るに違いない。そう、自分に言い聞かせて、愛子は主任席で仕事をする氷室を見つめた。


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