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愛子、暴走!

 八月に入り、夏も本番。毎日の現場作業には辛い季節だ。

 愛子は誰も居ない女子更衣室で、姿見に映る自分をじっと見つめていた。日焼けした少女は、以前と違って作業着姿がさまになっている。こんな風に自分を眺める日が来るなんて、ちょっと前までは思いもしなかった。

 例の軽トラックの運転も大分慣れた。何故クラッチ付きの運転を練習するのか疑問だったが、業務車を単独で運転する為には、社内認定試験を受けなければならず、その試験の審査内容の中に、何故かクラッチ操作の項目があるため、練習をさせられていたのだそうだ。

 ――早くそう言ってくれればいいのに

 ――え、俺言わなかったっけ?

 二人だけのとき、氷室は「僕」から「俺」と言うようになった事に、つい最近愛子は気がついた。けれども、それ以外特に変わったことも無く、相変らず上司と部下の、悲しくも平和な関係は続いていた。

 愛子は鏡の中の自分に背を向けると、更衣室を出ようとした。

 ちょうどドアが開き、桜井園子が入ってきた。桜井は小さく「あ」と言って一歩後ずさった。彼女と二人きりで顔を合わせたのは、あの時以来だ。桜井はずっと愛子を無視し続けていた。仕事も全く関係ないし、職場も本館と別館だから、普段顔を合わせる事は殆どないが、なんの前触れも無く顔を合わせてしまったので、彼女の方が気まずいようだった。

「おはようございます」

 愛子は努めていつもと変わらない調子で言ったつもりだった。一礼して運動靴をつっかけると、彼女の前を足早に通り過ぎる。

 ――刹那、桜井がごく小さな声で言った。

「上田さん、毎日楽しそうね。あなたのおかげで私もとても忙しいわ」

「え……?」

 桜井はフッと笑ったようだったが、愛子は下を向いたまま、彼女と目を合わせることを避けた。

 何だか息苦しかった。「あなたのおかげ」なんて。どうして一生懸命仕事をしているだけなのに、そんな風に嫌味のこもった言葉を投げつけられなければいけないのだろうか。

 その答えは職場について社内メールを見たときにわかった。

『女性作業員の為のシャワールームの設置について』

 提案者は氷室と配電課の相良みつ子女史だった。そして、設置に伴い女性職員の意見の取りまとめや設置場所などについての担当者は、総務課の桜井園子となっていた。

「シャワールーム、ですか?」

 氷室が背後に来たので、パソコン画面から彼の方を見ると、氷室は頷いた。

「今は男性社員と同じ浴室を使うしかないけど、上田さん使ってないでしょう?」

 愛子は頷いた。いくら汗をかいても、会社のだだっ広い浴室を占領して一人で入る勇気は無いし、万が一覗かれでもしたらと思うと、絶対に入浴などしたくない。

 それでも、最近は外から帰ると汗びっしょりで、自分が汗臭くてとても気になる事は確かだった。制汗スプレーをふりまいてごまかしているけれど、もしシャワーが別な所にあるのなら、とてもありがたいと思う。

「でも実際女性作業員って、あたしだけですし……」

「今はね。でもそのうち女性の宿直だってきっと始まるし、その先駆けで設備をつくるのは会社側の義務だって。相良さんも賛同してくれたしね」

 ああ、相良女史に言われたのか。また勘違いしてしまうところだった。愛子は自嘲気味に微笑んだ。桜井が言うように、愛子のために氷室が気をつかってくれたのだと勝手に思い込んで、少し嬉しかったのだが。

「余計な提案だったかな?」

 少し恥ずかしそうな氷室に笑顔を向け、愛子は言った。

「主任と相良さんのお気づかい、とても感謝しています」

 氷室はホッとしたように微笑んだ。工事課の愛子に対する扱いについて、事業所全体が注目しているのだと氷室は言った。だからきっと、いろいろと対応している所を見せなくてはいけないのだろう。

「とにかくあたしは、大型免許への第一歩として、会社のロゴ入りの車を運転する資格があるかどうかという段階ですから、今日も頑張りますよ」

 愛子の言葉に氷室は大きく頷くと、満足しきった猫のように目を細めて言った。

「頼もしいね。じゃあ、今日は四班に同行するから、運転お願いしますよ」

 氷室は、奥田たち作業員にいつもするのと同じように、ポンと愛子の肩を軽く叩いて白い歯を見せた。

 彼が背を向けて自席に戻って行くと、愛子は自分の肩に手をやった。氷室の大きな手の感触が、愛子の中に優しさと同時に切なさを刻む。毎日一緒に居たからといって、桜井がうらやむような関係でもないし、飯田が心配するような事態になるはずもない。氷室にとって自分は本当に、ただの部下にすぎないのだから。


 四班の作業に同行した後、助手席に氷室を乗せて帰社する途中だった。

「明日の認定試験、この分なら大丈夫そうだね」

 彼の言葉に、愛子は複雑な表情で微笑んだ。赤信号からの坂道発進もスムーズに出来て、初日のエンスト地獄が嘘のようだった。明日の試験にパスすれば、単独で公道を運転することが許される。そしていよいよ大型免許取得に向けて、本格的に教習所に通うことになるのだ。

 合格したいけど、でも……。

 明日、合格してしまえば、もう氷室に指導を受けることもなくなる。二人きりで現場に出る理由もなくなってしまう。

「明日受かったら、皆で盛大にお祝いしてやるからな」

 そう言って、氷室は上機嫌で愛子の頭をポンポンと叩いた。

 皆でじゃなくて、あたしは氷室さんにお祝いしてもらいたいんだよ。

 喉元まで出掛かった言葉を飲み込んで、愛子は帝都電力の看板の手前で駐車場入口を左折した。

「あれ?」

 駐車場に、見た事のある女性が立っている。氷室も気付いたらしい。駐車場の真ん中で車を止めると、女性がこちらに走ってきた。その人は目に涙を溜めていて、車から降り立った氷室にいきなり抱きついた。愛子は放心状態で二人の様子を見詰めていた。女性は居酒屋で見た、氷室の彼女だった。

 一班と四班の作業車が次々と駐車場に戻ってきて、氷室は女性をようやく押し戻した。

 作業員たちは、見て見ぬふりで所定の駐車位置にトラックや作業車を戻すと、積荷を降ろし始めた。時が止まったように氷室と女性を見ていた愛子は、運転席側の窓を叩かれて我に返った。

 北さんが厳しい顔で立っている。ウィンドウを下げると、彼はさっさと所定の位置に駐車するように身振りで示した。

 愛子は一回エンストしてから、慌てて軽トラックを三番の車庫に戻した。車を戻し終えて駐車場を見渡すと、氷室も女性も居なくなっていた。

 愛子の脳裏に、二人の抱擁シーンが鮮明に甦る。毎日が忙しくて、すっかり忘れ果てていた女性の存在。いや、忘れたことにしていただけなのだ。

 氷室には彼女がいる。あの居酒屋で二人を見たときから、ちゃんと承知していたことなのに。愛子は胸のあたりがきりきりしてきてグッと歯を食いしばった。

 会社にまで訪ねてくるなんて、いったい何事なのだろう。考えても仕方がないと思いつつ、心は氷室へと彷徨いだす。一班と四班の若手たちが工具の片付けに奔走する中、愛子は呆けたように本館へと足を向けた。ふらふらと非常階段を二階に上がり、料金課へと続く鉄扉を引き開けた。

 冷房で冷えた空気と一緒に、人声や電話の音があふれ出した。鉄扉のそばの座席で仕事をしていたパートの女性職員二名が、いきなり振り返ったので愛子はドキリとした。無意識に背の高い飯田を探していることに気付き、いったい自分は何をしているのかと焦った。両手の拳を握り締めて、元来た鉄扉から引き返そうとすると呼び止められた。

「おい、俺に用事じゃねぇの?」

 パソコンの陰で仕事をしていた飯田が首を伸ばして手招きした。愛子は吸い寄せられるように、飯田の居るフロアの隅に歩いて行った。

 夕方の料金課は賑やかで、電話がバンバン入っては社員たちが応対に追われている。

「待てませんよ。明日払ってくれないと、電気止めなければなりませんね」

「だって、お宅さまは先日も同じことおっしゃってましたよね?」

 皆口調は丁寧だが、言ってる事は借金取りのような内容ばかりで、愛子は少々驚いた。ふらりと入ってきてしまったのに、まるで別会社のような空気に、完全に飲み込まれてしまい、言葉を失う。

 飯田は、フロアを見渡して毒気を抜かれたようになっている愛子に尋ねた。

「どしたの? おチビ」

 愛子はハッとして飯田を見た。氷室の彼女のことなど、飯田に話すべきことではないのだ。どこまで自分は甘えているのだと、自分自身が嫌になった。

「ゴメン、以前に葬式リンジってあったじゃん? あれのことで教えてもらいたくて」

 愛子は咄嗟に嘘をついた。飯田は脇机から手引書を取り出して、丁寧に教えてくれたが、愛子はどこか上の空だった。

「……ってことで、電力の使用量が増えた原因を調べなきゃならないから、俺たち料金課は作業リストの写しをもらってるわけだよ」

「OK、ありがとう」

 愛子は笑顔を張り付けて、飯田にお礼を言うと非常階段から駐車場へと降りて行った。 ふと表通りに目をやると、氷室とあの女性が道路わきに並んで立っている。氷室は私服に着替えていた。愛子はポケットの携帯を取り出して、デジタル表示を確認した。いつの間にか終業時刻はとうに過ぎている。

氷室と女性はどうやらタクシーを待っているようだった。いったい、どこへいくのだろうか。自分には関係ないと思いつつ、愛子は彼らに気付かれないように軽トラックを車庫から出していた。認定を受けていない愛子は、単独で会社の車輌を運転することは出来ない規則になっている。

 ドキドキしてきた。自分は規則をやぶって何をしようとしているのだろう? これじゃあ、まるで覗きだ。もやもやした気持ちが湧き上がってきたとき、ようやくタクシーを捕まえた二人は、海岸方面へと走り出した。

 理性より好奇心が勝るときもある。今の愛子はまさにその状態だった。彼女は半クラッチから二速に入れると、タクシーを追って単独で帝都電力を出て行った。


 タクシーは茜色の海岸線をしばらく走り、高速道路の緑の看板にしたがって左折した。

「どうしよう。高速なんて、この車で走ったこと無いよ」

 引き返そうと思った時には、もう高速への分岐に入っていた。ここまで来たら、もう引き返せない。愛子は車輌に搭載されているETCの機械にバイザーの裏側から抜き取ったカードを挿入した。

 タクシーは有人のゲートを通過した。見失っては大変だ。愛子はETCのゲートをくぐって高速に乗った。

 いったいどこまでいくのだろうか。二つ目のインターを過ぎた頃から、周囲が混雑し始めた。クラウンのタクシーと軽トラックではパワー不足もあって、このままでは見失いかねない。そう思ったとき、タクシーは左にウィンカーを出して、高速を降りる体勢に入った。愛子もウィンカーを出して高速を降りた。

 いったいここはどこだろうか? あまり来た事のないところだった。軽トラとの間に一台車を挟み、タクシーは赤信号で止まった。

 愛子は信号に書かれた町名を見た。完全にK事業所の管轄外に来ていることに気付いて、にわかに不安になる。

「ここまで来ちゃったんだから、行くしかないじゃない」

 愛子は自分にそう言い聞かせると、青信号にしたがって車を発進させた。タクシーは駅前の大通りを進み、官庁街に来た。警察署、消防署と並んで、帝都電力Y支社の巨大な鉄塔が見えた。電力会社の屋上には、どの建物にも必ず巨大な鉄塔があるからとてもわかり易い。

 Y支社を通り越して左折すると、タクシーは大きな建物の駐車場に乗り入れた。愛子はスピードを落とし、車間距離を開けながらついて行った。

 二人は白い建物の正面玄関でタクシーを降りると中に消えた。

 愛子は駐車場の片隅に軽トラックを駐車させると、正面玄関に立った。

『S大学附属病院』

 白い大きな建物が三棟、渡り廊下でコの字型につながっている。正面の病棟を見上げ、彼女は首をかしげた。誰かのお見舞いだろうか。少なくともデートでない事は確かだ。そう考えて、ホッとした反面、規則を破ってまで自分はいったい何をしているのだろう、という自己嫌悪に陥ってきた。氷室がプライベートで誰とどこに行こうと、自分には全く関係がないのに、会社の車を使ってストーカーまがいのことをしている自分が、堪らなく嫌になる。

「あたし、本当にどうかしてる……」

 ぽつりと呟くと、愛子は軽トラックに戻って運転席に飛び乗った。冷静になってみると、自分のしでかした事が急に怖くなった。管轄外まで単独運転で来るなんて。上司に提出する運転日誌には、走行距離と行き先とを書かなくてはいけない。距離だけなら誤魔化せるが、高速を使ったためにETCにしっかりとインターの記載がされてしまっている。

 どうしよう……。

 とにかく、早くK事業所に戻らなくてはならない。愛子はすっかり暗くなった街を見渡して途方に暮れた。

「あたし、どっちから来たっけ」


 ようやく事業所に戻った頃には、夜の七時を回っていた。愛子は三番の車庫に軽トラックを止めると、大きくため息をついた。結局、行きと同じルートで帰って来たから、二度高速に乗ったことになる。助手席に置いた運転日誌を手にとって、エンジンを切った車の中でぼんやりしていると、ふいに助手席のガラスを叩かれた。

「ひっ!」

 心臓が止まる思いで振り向くと、暗がりの中に飯田の顔があった。

 愛子は震える指先で、ドアのロックを解除した。飯田は無言で助手席に滑り込んできた。

 運転日誌を抱えて小さくなっている愛子に、彼は無表情で尋ねた。

「こんな時間まで、どこに行ってたんだ?」しかも単独で、と彼は付け加えた。

 何も言うことができず、黙ったままの愛子に、飯田はきつい顔になってもう一度同じ事を訊いた。

「あたし……」

 愛子は口ごもった。なんと言えばいいのだろう。沈黙が自分自身を袋小路へと追い込んでゆくような気がして、じわりと涙がにじんだとき、飯田が尋ねた。

「夕方、何かあったんじゃねぇの?」

 愛子は思わず助手席に顔を向けた。飯田の切なげな眼差しと出会う。彼は愛子の目を見つめたまま、ズバリと言い当てた。

「氷室にあの女の人が会いに来てたから、お前ヘンだったんじゃない?」

 愛子は観念して口を開いた。

「気がついたら、車出してて……。二人の乗ったタクシーについていったの」

 彼女の言葉に、飯田の目が大きく見開かれた。

「高速道路使って……行き先はS大病院だった」

 愛子は運転日誌を胸に抱えて俯いた。

「それで?」飯田の声がささやくように問いかける。「それで、氷室と何か話したの?」

 愛子は大きくかぶりを振った。

「ただ後をつけて行っただけなのか?」

 確認するように尋ねる飯田に、愛子はコクンと頷いた。何だかみっともなくって、泣けてきた。

「バカみたいでしょう? あたし、何やってんだろう」

 ハンドルに突っ伏すと、温かな手のひらがそっと愛子の頭に乗せられた。そのまま優しく髪を撫でられて、胸が苦しくなってきた。また都合よく飯田に甘えている自分を自覚して、ますます泣けてくる。

 ひとしきり愛子の頭を撫でていた飯田が言った。

「運転日誌、よこせよ」

「え?」愛子は顔を上げた。

「今日の夕方、この軽トラックを運転したのは、俺だからな。いいな?」

 飯田の言葉がよくわからず、愛子は鼻をすすりながら尋ねた。

「でも、飯田くん。これって工事課の車だよ。料金課の飯田くんにはいつも乗ってるロゴ入りの軽自動車があるじゃない。他係の車、許可無く勝手に使ったら始末書じゃないの?」

 飯田は愛子から車のキーと運転日誌を取り上げると小声で言った。

「お前、こんなもん、氷室に提出できるのか?」

 愛子は大きく息を飲んだ。氷室の行き先と同じ経路を書くわけにはいかない。でも、飯田だって同じではないのか?

「じゃあ、飯田くんはどうするつもりなの?」

「俺の事はいい。お前、規則違反バレたら、明日の試験受けられなくなっちまうだろ」

 何のために毎日頑張ったんだ? そう言って、飯田は助手席のドアを開けて車外に出た。そのままくるりと背を向けて、本館へと歩き出した飯田を、愛子は慌てて呼び止めた。

「飯田くん、待ってよ。それじゃあ駄目だよ。 規則破って単独運転したのは、あたしなんだから。ねえ、飯田くん!」

 飯田は背を向けたままで、ひらひら手を振って言った。

「おチビは気にすんなって。とにかく、明日頑張れよ」

 本館のドアに背の高い後姿が消えるまで、愛子はじっと駐車場に佇んでいた。


 翌朝の車輌一斉点検で、愛子は氷室に呼ばれた。

「上田さん、軽トラックのキーが無いんですが、知りませんか?」

 愛子はギクリとして顔を伏せた。黙っていると、ちょうど野口が彼を呼んだので、氷室は愛子に背を向けてうやむやのままに事務所内に戻って行った。駐車場の端っこに佇んだまま、愛子は背中に大量の冷や汗をかいていた。

 昨夜、運転日誌と共に飯田にキーを預けたままだ。彼がまだ持っているのだろう。飯田は「何とかする」と言ってくれたが、氷室に黙っているのが苦痛に感じた。やはり正直に言って、謝った方がいいような気がする。

 愛子は駐車場を見渡した。大勢の社員たちが行き交う中、背の高い飯田を探したが、彼の姿は無かった。

「朝のうちに、やっぱり氷室さんに言おう」

 誰にも聞こえない声で呟いて、プレハブに戻った愛子は、ドアを開けた所で固まった。

 応接セットに工事長と氷室が座っており、その向かいのソファに料金課長と飯田が居る。何やら険悪な雰囲気だった。

「すみません、うちの飯田が勝手におたくの車輌使ってしまって」

 料金課長はぺこりと頭を下げたが、飯田はでかい態度でふんぞり返っている。工事長が眉根を寄せて言った。

「でも、どうしてわざわざうちのトラックで?」

 すると飯田はへらへらした態度で言った。

「だーかーらー、何度も言っているように、たまたま急いでて、上田さんが車庫入れしようとしてたから、オレが強引にそのまま借りちゃったんです。すんませんでした」

 飯田以外の三人は、彼の言葉に対して納得できない様子でごちゃごちゃ言っていたが、しばらくして立ち上がると解散した。

 料金課長と飯田がこちらに向かって歩いて来た。愛子はようやく我に返るとギクシャクした動きで彼らの為に通路を開けた。

「あ……飯田くん……」

 小さく声を掛けたが、飯田は「何も言うな」というように頷いただけで、静かにプレハブを出て行った。

 閉まったドアを見詰めてぼんやりしていると、背後から工事長に呼ばれた。

「上田さん、今日認定試験ですよね。しっかりやってくださいよ。落ち着いてね」

「は、はい!」

 愛子は振り向きざまに返事をした。不自然なほどに、声が大きくなってしまった。動揺を隠すために無線台と自席の間を行ったり来たりしていると、今度は氷室がそばにやって来た。

 愛子は立ち止まって彼の顔を見上げた。

 正直に話すなら、今しかない。今日の試験は中止になるかもしれないけれど、それは仕方がないんじゃないか? 嘘をつくよりましだろう。そんな思いが湧き上がってくる。

「あの……主任……」

 声に出したとき、氷室がニッコリとこの上もなく優しい顔で微笑んだ。愛子の心臓が大きく跳ねる。

「上田さん、たくさん練習したんですから、自信を持ってくださいね。いつもどおりでいいんです。遅れるといけないから、早く着替えて教習所に行ってください」

「主任、あたし……」

 愛子は言おうとしていた言葉を飲み込んで、代わりに精一杯の笑みを浮かべた。

「……頑張ります」

 氷室に一礼し、後ろめたい気持ちのまま、愛子は真夏の陽射しの中に出て行った。


 教習所での試験は、意外なほどにあっさりと合格した。おんぼろの軽トラックで練習していたせいか、教習車のクラウンは物凄く運転し易かったのだ。

 教習所の受付で、『認定試験合格通知』というA4版の紙切れを手にし、愛子は眉根を寄せた。こんな紙切れ一枚があるか無しかで、昨日の単独運転が違反かそうでないかに分かれるなんて何だか釈然としない。それでも、この紙切れを獲得する為に、氷室と共に練習をした事を思い返すと、紙切れのある無しに関わらず、もっと大切なものが見えてくるような気がする。運転技術に問題は無い。けれど、自分は規則をやぶったのだ。それはやっぱりいけないことではないのか? 

 工事課では、安全を守る為にルールが何より重んじられている。些細なことでも、作業手順や決まり事を無視すれば、大事故につながりかねない危険と隣り合わせの職場なのだ。その工事課の戦力になるべく訓練を受けているのに、全くの私情であっさりと決まりを破るなんて。そんな自分が、会社のロゴ入りの大型車を運転する資格があるのだろうか。

 合格したにも拘らず、愛子は重い足取りで教習所を後にした。


 

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