ミナライ作業員
氷室について朝の車輌整備に参加していると、工事課の若手集団の声が聞こえてきた。
声のほうを見ると、奥田や河合を含めた四、五人が飯田を囲んでいる。
「なっさけねーなー。お前、うちの愛子さんにつぶされてんじゃねぇよ」
「女子とサシで飲んでて、男のお前があんだけゲロゲロになってたんじゃな。まったくしょうもない」
飯田はバツの悪そうな顔をして「ははは」と力なく笑っている。チラリと背後の氷室に目をやると、彼はふっと顔を背けた。愛子は気が遠くなりそうだった。
いったい朝っぱらからなんてことだ! なんで奥田や河合が、飯田と二人で飲みに行ったことを知ってるんだろう?
愛子は聞こえないフリで、力任せに車輌のガラスを磨いた。あれだけのことをしでかしたのだ。色々と中傷されることは覚悟していたが、まさか飯田本人がバラしたのだろうか。
いったい何の為に?
今はまだ日も当たっておらず、駐車場は涼しいのに、愛子はすでに汗びっしょりだった。冷や汗かもしれない。氷室は無言で黙々と作業をしている。
「うちのアネゴは強いからな。手ェ出したら、マジやばいよ、飯田くん!」
奥田の大きな声が聞こえてくる。愛子はいたたまれなくなって、車輌整備をさっさと切り上げると工事課の事務所に戻った。
恥ずかしい!
彼らにしてみれば、親しみをこめたつもりでも、愛子にとっては傷口に塩を塗られているようで、聞くに堪えない醜聞だ。
――嫁入り前の娘が、みっともない!
母親の言葉が身に沁みる。
誰も居ないプレハブで、無線台に突っ伏して泣きたいのを必死で堪えていると、ドアの開閉する音がした。
顔を上げると桜井園子が居た。彼女はヒールを鳴らして近付いてくるなり言った。
「飯田くんと付き合ってるなら、隠さなくたっていいじゃない。私に遠慮してるの? それとも同情?」
愛子は機械的に立ち上がっていた。桜井は見たこともないような冷たい眼差しを向けている。
「あ、あたし……付き合っていません」
朝からなんでこんなこと言われなくっちゃいけないの?
じわりと目頭が熱くなってきた。桜井はもう一歩近づくと、低い声で言った。
「飯田くんが言ったんだから。自分はもう好きな子とだけしか遊びに行かないし、飲みにも行かないって」
桜井はピンクのルージュを引いた唇をきゅっと噛んだ。握り締めた拳が震えている。愛子は彼女の言葉をゆっくりと心の中で反芻した。桜井が飯田に振られたのだということはかろうじて理解したけれども。
「あなた、ムカつくのよね」
「さ、さくらい……さん?」
桜井は何故こんなにもきつい目で見るのだろう?
「優越感に浸っているんでしょう? 飯田くんに好かれているって、わかってて。だから私にあの時あんな態度をとったんでしょう? 心の中で笑いながら!」
吐き捨てるように言って、桜井は頬を紅潮させた。
「……あの時って? なんだか話が……」
「しらばっくれないでよ! 座禅の日、階段ですれ違った。あの時、自信たっぷりの顔で『お先!』って……! あなた、あの時私が振られたばかりだって、知ってたんでしょう」
愛子は思い出した。確かに『お先!』とは言った。でも、あの時桜井が飯田に振られていたなんて、知るはずもない。
「あたし、そんなこと知らな……」
言いかける愛子を遮って、桜井は興奮状態で捲くし立てる。
「乾燥室に閉じ込めたこと、謝らないわよ、私。あなただって、あの時騒げばよかったじゃない。桜井園子に閉じ込められましたって、騒げば良かったじゃない。大人しいふりして、いつも黙って「私頑張ってます」みたいにしてて。ムカツクのよ! 今回だって、あんな醜態さらしたのに、飯田くんだけじゃなくって、工事課のメンバーからも庇ってもらうなんて! 営業所中の笑いものになればよかったのよ!」
愛子はただ呆然と口を開けて桜井を見つめているのが精一杯だった。彼女は感極まったように嗚咽を漏らすと言った。
「なんでいつも上田さんなの? どうして私じゃだめなの? 私のほうがいつだって飯田くんを見てたのに!」
桜井は言うだけ言うと、両手で顔を覆ってプレハブを出て行った。
閉まったドアを見つめながら、愛子は脱力して再び無線台の椅子に座った。毒気を抜かれたとは、まさにこの事だ。桜井のあんまりな八つ当たりに、涙も出てこない。彼女があんなに激しい性格だとは思ってもみなかった。妹が癇癪を起こしたときにソックリだ。
「支離滅裂じゃん……」
とはいえ、あれだけ自分の感情をストレートに出せるなんて、ちょっと羨ましい気がする。たとえそれをぶつける相手が意中の彼ではなくても、だ。自分はとてもじゃないが、あんな風に氷室に対する思いを口にする事はできない。
――上司と部下。
大人な氷室と半人前の自分。結果はわかりきっている。
愛子は窓の外を見やった。上がり始めた外気温で、駐車場に散水された水分がゆらゆらと蒸発している。奇妙に歪んだ景色の中を、同僚たちが忙しく行き来しているのを眺め、愛子はため息をついた。朝からこんな状態ではやっぱりへこむ。
「とにかく、仕事、しなくちゃ」
そろそろかな、と壁の時計に目をやったとき、いつもの無線が入った。一のランプが点滅する。
「帝都一、感あり、どうぞ」
『こちら帝都一、上田さん、至急駐車場まで来てください、どうぞ』
え? なに?
今の声は氷室だ。一班の班長は野口のはずだが、何かあったのだろうか?
ヘッドセットマイクをつけて屋外に出ると、駐車場の中央で高所作業車が待機している。車輌の前で氷室と野口が手を振っていた。
「こっちこっち」
愛子は首をかしげながら歩いて行った。
いったい何の用だろう?
怪訝な顔で見上げると、野口が言った。
「上田さん、今日は一班の現場作業に同行してください。作業内容は樹木の伐採と変圧器の交換です。班長の僕に代わって氷室主任が同行しますから」
野口はキョトンとしている愛子の頭から、無線のマイクを取り上げた。
「というわけで、行こうか。上田作業員」
氷室がニコッと笑った。愛子の鼓動が一気に高鳴った。さっきまでへこんでいたのが嘘みたいだ。先日の話を、氷室は早速実行してくれたのだ。大型の作業車に同乗して、その扱いを実際に見せてくれるのだろう。
「じゃ、ねーちゃん、早く乗りな」
氷室より年配のベテラン作業員、――彼は『北さん』と呼ばれている――が愛子の腕をつかんで座席に引っ張り上げてくれた。
視点の高さに驚く。
乗用車とは見える風景も違うし、何よりハンドルが大きい気がする。車内をしげしげと眺めていると、声を掛けられた。
「悪いけど、これ三人乗りだから」
そう言って、何とすぐ隣に氷室が乗り込んできた。北さんとは普通に隙間が開いているが、氷室とは密着するような体勢になってしまい、かなり戸惑う。そんな愛子の様子にも無頓着で、氷室は昨日のように教官モードで指導を始めた。
「上田さん、同乗者の役目はただボケッと座っているだけではありませんよ」
左右の安全確認や走行ルートの指示などは、同乗者も運転者と同じような気持ちで行うようにするのだという。
「曲る時に『右よし』とかそういうのって、あたしも言うんですか?」
当然だと言うように、二人が同時に頷いた。
やだ、どうしよう!
何だか恥ずかしくてもじもじしていると、北さんが「発進よし!」とだみ声で叫んでハンドルを回した。
窓の外で野口や奥田たちが手を振っている。彼らの後方で飯田が驚いたような顔でこちらを見ているのがやけに気になった。
「ねーちゃん、ボケボケするなよ。駐車場出るときゃ、一時停止だからな」
「は、はい!」
愛子は背筋を伸ばして、北さんと一緒に叫んだ。
「右よし、左よし!」
チラリと運転席を見ると、北さんが日に焼けた樫の幹みたいな顔を満足気にほころばせて笑っている。この一年、彼とはほとんど話をしていなかったので、笑った顔も初めて見た気がした。
外に出るって気持ちいい。
愛子はふと桜井園子が気の毒に思えた。朝からあんなことになって、彼女は今日一日をデスクの前で悶々と過ごすのだろう。そう考えると、爆発したような彼女の態度も、ああするより仕方がなかったんだと、妙に納得してしまった。
「主任、現場に出るって、楽しいですね」
思わずそう言うと、氷室は何故だか不敵な笑みを浮かべただけだった。
「楽しいなんて、前言撤回です!」
高さ十メートルの上空で、愛子は半泣き状態になっていた。
現場に到着するとすぐにヘルメットと、腰に巻く安全帯ロープを手渡された。
「な、なんですか? これ……」
同じ歳の河合が自分の腰を無言で指さして、さらに高所作業車のバケットを見やった。
訳もわからぬままに作業前のミーティング。
伐採対象の樹木は、巨大なケヤキだった。現場は小さな神社で、ケヤキはご神木らしい。幹の部分は大人三人でようやく抱えられるほどに太い。神社の敷地をはみ出して伸びている枝が、大きく電柱に覆いかぶさっていた。
「ご神木なのに、切ってもいいんですかね?」
小声でぼそりと尋ねると、氷室は嫌そうな顔で言った。
「僕が来ること自体が、やばかったんじゃないかと思うんだけどね。ま、罰が当たるなら、この際僕が一手に引き受けるよ」
どういう意味かと考えて、思わずプッと吹き出してしまった。所長たちの「疫病神」発言を思い出したのだ。けれど、彼にとっては笑い事ではないらしい。氷室は幾分硬い表情で遥かな高みを見上げていた。
幹にしめ縄を巻かれたご神木の根元に塩を撒き、作業員全員で手を合わせると、北さんが言った。
「じゃ、安全祈願に行ってきたお二人さんに、まずは一枝切っていただこうか」
「え、ええ?」
嫌そうな顔の氷室とハトマメ状態の愛子を載せて、するするとバケットのアームが伸びてゆく。
そして高さ十メートルの悲劇という訳だった。
「しゅ、主任、お、降ろしてください~」
一旦真下を見てしまったのがいけなかった。河合作業員が小人のように見える。一畳分有るか無しかのスペースで、愛子は氷室の腰の辺りにしがみついていた。
「おいおい、ねーちゃん。とりあえず、儀式みてぇなもんだからよお、近くの葉っぱ一枚だけでもさっさと切れや」
高所作業車の運転席から顔を出して、北さんが楽しそうにやじる。
「そういうわけですから、上田さん、頑張って。体は安全帯ロープでバケットにつながっているし、僕も押さえててあげますから」
愛子は恐る恐る顔を上げた。真夏の青空をバックに、日焼けした氷室の顔が間近にある。彼は「大丈夫だよ」というように、大きく頷いた。
彼に励まされて、愛子はゆっくりと立ち上がった。伐採用の大きなはさみを受け取って、そろりと外側に体を向ける。動くたびに揺れるのが怖い。両手持ちのはさみが意外に重くて、伸ばした腕がプルプルした。なんだか取り落としてしまいそうで、枝まで伸ばせない。
いやだ、怖いよう。
すると、はさみを持つ手に氷室の右手が重なった。背中からがしっと抱きすくめられて身を硬くすると、低い声が囁いた。
「押さえてるから、今のうちに手前の一枝、切って」
言われるままにはさみを動かすと、小さな枝がくるくる回りながら遥かな下界へと落ちていった。
その後氷室も一枝だけ切って、二人は地上に戻ってきた。
半ば放心状態の愛子を見て、河合たちが声を上げて笑ったが、それどころではなかった。
氷室さんに、抱きしめられちゃった!
そのことだけで心拍数が跳ね上がり、のぼせたようになってしまう。
愛子は作業車の陰に座り込んで、手際よく大きな枝を切り落としてゆく同僚たちを見上げた。彼女の手の中には、自分が切り落とした小さなケヤキの新芽がある。
愛子はさっきのことを思い出して、甘ったるい感情とは別に、不安なものが込み上げてきた。
背中には、まだ彼の感触が残っている。こんな浮ついた気持ちで、きちんとやってゆけるのだろうか。事あるごとに氷室を意識している自分を自覚する。そんなことで、果たして工事課の作業員としての仕事が出来るのだろうか。
現場からの帰りは、伐採した枝を積んだ軽トラックのほうに乗るように指示された。
運転席の河合は、鼻歌混じりで助手席の愛子に問いかけた。
「愛子さん、さっきの、どうだった?」
「ダメ。あたし高い所はちょっと……」
作業の感想かと思ってそう答えると、河合は首を振った。
「そうじゃなくって、氷室さんにギュッてされたじゃん。あれって、セクハラ?」
愛子の顔が真っ赤になった。自分と氷室の様子は、河合たちの目にどう映ったのだろうか。そう考えると、激しい動悸がしてくる。
「か、河合さんの発言のほうが、よっぽどもセクハラです」
かろうじてそう言うと、河合は楽しげにゲラゲラ笑っただけだった。
翌日も、作業員たちに同行しての研修のような形だった。午後からの現場は、電源車の助手席に座らせられた。
電源車の運転席に座った氷室が仕事内容を簡単に説明する。
「今日は協力会社のK電工さんと一緒の作業です。夜間工事のため、この電源車は照明用の電源確保で現場に置いてゆきます」
「じゃあ帰りはどうするんですか?」
「帰りは……」
氷室はちょっと思案するような顔をしたが、無表情に戻ると言った。
「軽トラックが一台余分に行ってますから、帰りは上田さんの運転で帰ってきましょうか」
愛子は思わず氷室の顔を睨みつけていた。
氷室さん、死にたいんですか?
軽トラックなど、運転したことがない。というより、自分の家の1500ccの車以外、触ったことがないのだ。軽トラックは確かクラッチ付きの古いタイプだと思う。クラッチのある車なんて、教習所でしか運転したことがなかった。
「主任、あ、あの車はちょっと……」
もごもご言っているうちに、現場に到着してしまった。現場は今建設中のアミューズメントパークの中だった。水族館を中心に、遊園地が造られており、外観はほぼ完成状態だ。現在敷地内の一部がショッピングモールとしてすでに営業中だった。
ショッピングモールの営業時間に配慮して、本日の作業は夜間工事が予定されているのだ。
氷室はK電工の責任者に愛子を紹介した。
「ほう、帝都さんが女性の作業員を入れたとなると、うちもやらなきゃいかんな」
なにやら意味深な会話だった。
一通り打ち合わせなどを済ませると、例の軽トラックで引き揚げることとなった。
本当なら、オープン前の遊園地なんて興味津々なのだが、このあとの運転訓練の事で頭がいっぱいで、それどころではない。
愛子は神妙な面持ちで軽トラックの運転席に座った。シートベルトをして、ブレーキにあわせて椅子を固定する。
「あれ?」
ギアがない?
左の脇あたりに手をさまよわせていると笑われた。彼に左手を取られてハンドルの横に導かれる。
「これ、コラムシフトだから」
「あ……」
すっかり緊張して、まったくわからなかった。
「コラムシフトのギアは通常と違う」
氷室に言われて、愛子はハンドルの脇を覗き込むようにしてギアの配置を確認した。初めての経験に、動揺したままローギアに入れ、アクセルを踏んだ途端にエンストした。
「す、すみません!」
オートマしか乗っていないから、エンストなんてちょっとびっくりしてしまう。
氷室は無表情でもう一度やるように指示した。何度もやり直して、クラッチをつなぐ練習をした。ようやくスムーズな発進ができるようになった頃には、大分時間が経っていた。広いアミューズメントパーク内を何度も走らされたが、公道に出る自信は全く無かった。
「じゃあ、今日はここまでね」
「え、会社まで運転しなくていいんですか?」
キョトンとする愛子に、氷室は小さく咳払いして言った。
「さすがに僕も命は惜しいからね」
あんまりな言い草に、愛子はがっくりと肩を落とした。
「あたしの運転がどうのって事より、この車の方がやばくないですか?」
ふくれっ面で言うと、氷室は「ははは」と楽しそうに笑った。
「まあね。この軽トラックはいつ壊れてもおかしくないけどね。上田さんのエンスト攻撃でコイツの寿命も縮まったみたいだし」
くっくっと笑いながらの言葉に、愛子は顔をしかめた。
「あたし、一生懸命だったんですよ」
恨めしげに言うと、氷室が急に真面目な声で言った。
「上田さんが現場に出るって言ってくれて、とても嬉しいです。昨日も今日も、嫌がらずに頑張ってくれてありがとう。明日からも、お願いしますね」
愛子は助手席の氷室を見つめた。彼は照れたように微笑むと、前方に目を向けた。つられて愛子も視線を移す。工事中のジェットコースターの向こうに、ショッピングモールのイルミネーションがとてもきれいだ。
何だか急にドキドキしてきた。
自分が頑張ると、氷室が喜ぶ。それだけのことで、俄然ヤル気になってくる。なにより、彼が自分を信頼してあれこれと指導してくれることが嬉しくて堪らない。氷室もひょっとすると、自分に特別に好感を持ってくれているのかもしれない、などと都合のいい妄想が頭の中をぐるぐるした。
思い切って、今ここで自分の気持ちを言ってみようか。桜井園子みたいに……。
「あの……」
言いかけた言葉は彼に遮られた。
「女子の作業員を育成することが、今後の管理職たちの課題のひとつに正式に取り上げられたんです。だから、年内に大型免許を取得出来るように、僕がキミを指導するようにと、業務命令が出たものですから。上田さんには期待していますよ」
「業務命令……ですか?」
「ええ、女性の職域拡大の取り組みが、会社全体の重点課題になりそうなんで、その先駆けで上田さんに頑張ってもらわないとね」
そう言って笑顔を向けられ、愛子は瞳を大きく見開いた。
日に焼けた肌。すっきりとシャープな輪郭。つり上がり気味の目が、笑うと驚くほど優しくなる。
氷室さんが好き……。
飲み込んだ言葉は苦い。ロマンチックなシチュエーションだけに、何だか余計に切なくなってくる。結局氷室は上からの命令で愛子について毎日指導をしていたのだ。彼自身の考えだと思い込んでいた自分がバカみたいに思えた。勘違いも甚だしいというヤツだ。
二人きりで夕暮れの景色を眺めているというのに、仕事でしかつながりの持てない彼と自分の関係を、改めて突きつけられたようで惨めだった。それでも尚、頑張ろうなんて思ってしまう自分は、もう病気かもしれない。
――恋の病。しかも、治る見込みの無い末期状態だ。
「主任、私、きっと工事課の戦力になってみせますから」
――主任。あえてそう呼んで、愛子は精一杯の明るい声を出していた。
彼の運転で事業所に戻った時には終業時刻が迫っていた。ちょうど車から降りたところに、営業課の男性社員が走ってきた。
「氷室さん、営業窓口にお客さんが来てますよ」
彼は軽トラックのキーを愛子に渡すと、男性社員と共に本館へ行ってしまった。
愛子は軽トラックをロックし、荷台に載せた工具の箱を下ろすために後ろに回った。
「あちゃ、届かないよ」
自分の小ささが嫌になる。すぐ手前に放り込んである荷物に手が届かない。荷台の枠に手を掛けて、懸垂の要領でよじ登った所に長い手が伸びてきて、工具の箱をあっさりとさらっていった。
「あ!」
飛び降りて振り返ると飯田が居た。彼は工具の箱を両手で差し出した。
「人使い、荒いんだな、アイツ」
「あ、ありがと」
愛子は上目遣いで彼を見上げた。飯田と言葉を交わすのは二人で飲んだとき以来だ。顔を合わせる機会は幾度もあったが、なんとなく話をする状態ではなかったからだ。
愛子は先日の飲み代をすべて彼に支払ってもらったのだという事を思い出した。
お礼を言うと、飯田は「気にするな」という風にゆるゆると首を振った。
「あの時は、悪かったよ。チョーシに乗っちゃって、飲ませすぎた」
「いいよ。あたしがいけなかったんだから」
久しぶりの会話はなんとなくぎこちない。桜井園子の発言のせいだろうか。
――飯田くんに好かれているって、わかってて。
ふっと目を背けると、飯田が言った。
「よかったじゃん。毎日、アイツとべったりで」
愛子は再び飯田の顔を見上げた。オレンジの夕日を浴びて眩しげな彼の顔は、何故か歪んでいるように見える。言い方もなんだか彼らしくない、嫌味を含んだような響きだ。
「主任とべったりなんて、ヘンな言い方しないでよ。仕事なんだから」
――仕事。そう言った途端に胸が苦しくなる。愛子は俯いて、飯田の手から工具の箱をひったくるようにして受け取った。そのままプレハブに向かって歩き出すと、背中に彼の声が言った。
「おチビのクセに、背伸びして……。つぶれんなよ」
さっきと違って労るような言い方に、思わず足が止まる。良くも悪くも……どうしていつも、彼はこうタイミングがいいんだろう?
飯田のバカ。おチビ、おチビって、うるさいよ!
頬に水分が伝って、俯く口元に垂れてきた。
あたし最近、涙腺ゆるすぎだ。
飯田に背を向けたまま心の中でそう呟くと、愛子は自分の長い影を踏みながらプレハブに向かって走り出した。