社会人ってなに?
翌土曜日は休日だったが、愛子は早起きをした。朝食の席で昨日の早退の理由を母と祖母から尋ねられて、仕方なく本当の事を話したところ、母親には「呆れ返って物が言えないわ! 嫁入り前の娘がみっともない!」と酷く叱られた。しかし、祖母は違った。
祖母は愛子を自分の部屋に呼んだ。祖母の和室に入るのは久しぶりだ。冷房が苦手な祖母の部屋は、この家の中で一番風通しが良い。開け放った窓から涼しい風が入ってきて、カーテン代わりのすだれを揺らした。
祖母は愛子の大好きな茶まんじゅうと麦茶を用意してくれた。
「愛ちゃん、お仕事してお金をもらうのはとても大変ね。嫌なこともいっぱいあるでしょう?」
祖母の言葉に愛子は黙って頷いた。幼い頃、母や父に叱られると、いつも祖母の和室に逃げ込んでいたことを思い出した。大人になるにしたがって忙しくなり、働き出してからは同じ屋根の下に住んでいながら生活サイクルのずれで祖母と顔を合わせる回数がめっきり減っていた。愛子はまんじゅうを口に入れて、ぼそりと言った。
「おばあちゃん、あたし、会社で氷室主任に迷惑ばかりかけてて。全然仕事も出来なくて、あたし……」
氷室の名前を口に出した途端に涙腺が弛んでしまった。
祖母は可愛くて堪らないという表情で愛子を見ながら言った。
「愛ちゃん、迷惑かけた方たちには、きちんと謝ることが社会人なのよ。仕事はその次でいいじゃない。きちんと挨拶が出来て、失敗したら素直に謝れることが、一番大事なんじゃないかしら」
「本当に、そんなんでいいのかな?」
手の甲で目元を拭って、上目遣いで見上げると、祖母は笑って言った。
「学校じゃないから誰も教えてくれないし、褒めてもくれないけれどね。でも、愛ちゃんが自分に出来ることを一所懸命やってれば、きっと伝わってるから。その分おばあちゃんが褒めてあげる」
祖母は愛子の髪を撫でながら「毎朝早起きして偉いね」「男の子に混じって、女の子一人でも頑張ってるよね」と言った。面と向かって言われると、何だか照れくさい。
それでも祖母の部屋を出た時には不思議と気持ちがスッキリしていた。
――きちんと謝ること。自分に出来ることをやる。
愛子は父親の車を借りると、真夏の街に出た。
車の運転は大好きだ。十八になってすぐに免許を取って、よく友達とドライブした。エアコンを切って窓を開けると、気持ちのよい風が髪を弄る。青葉の街路樹を眺めながら、電柱や電線を目で追っていることに気付いて苦笑した。
国道に出て三十分ほどで見た事のある風景が広がった。昨日、氷室の運転で通った金龍禅院へ向かう道だ。左折で国道を離れると、急に緑が増えた。この辺りは道が細くなっている。俗に言う寺町通りだから、瓦屋根の古い家並みがあちこちに残っていて、とても風情がある。
一方通行の標識を気にしながら進み、ようやく寺に着いた。
祖母に言われたことを、愛子なりに考えての行動だった。会社の行事として開催された安全座禅の席での醜態は、愛子個人の問題ではない。『帝都電力社員』の醜態なのだ。
「とにかく迷惑かけた事を、住職さんに謝ってこよう」
愛子は水羊羹の包みを手に、住職を訪ねた。住職は驚いたような顔はしたが、怒ってなどいなかった。
「あの、昨日汚してしまったお庭をお掃除したいんですけど」
そう申し出ると、住職は大きな声で笑った。
「ははは、気にしなさんな。もう片付いているから」
「でも……」
それでも気が済まないことを告げると、「じゃあ裏庭の草むしり、手伝ってくださらんか? 家内が一人でやってますから」そう言って軍手とタオルと麦藁帽子を渡された。
「草むしり……」
予想外だったが、掃除をするつもりだったからまあ似たようなものである。
愛子は本堂を回りこむと、日差しが照りつける庭園を過ぎて日陰の裏庭に入って行った。裏は寺の墓地になっている。墓地と庭の境目辺りで女性がせっせと草を取っていた。そばに行って事情を話すと、住職の奥さんは笑って言った。
「まあまあわざわざすみませんね。さすがは一流企業にお勤めだこと。帝都電力さんは社員さんの教育をきちんとなさっているのね」
ああ、やっぱり社会人として組織で働くというのは、こういうことなんだと改めて理解した。会社の知名度があればあるほどに、個人の行いが組織の評価として跳ね返ってくるのだ。相良女史がしょっちゅう衣服の乱れを指摘したりするのは、あのブルーの作業着が会社の看板だからなのだと気付いた。所内で働く女子職員の制服よりも、現場作業員の青い作業着こそ一般市民に浸透している『帝都電力』のメジャーなユニフォームなのだ。
そう考えると、なんだかあの青い作業着が特別に思えてきた。
あたしって、単純。
愛子は雑草をむしりながら楽しい気分になっていた。
汗をかき、一心不乱に作業するうちに腰が痛くなってきた。立ち上がって腰を伸ばすと、自分の影が短い。太陽はちょうど真上を通過中だった。
「あの、もうそろそろ……」
振り返って声をかけたが、いつの間にか一人になっていた。
愛子はやぶ蚊に刺された首筋を掻きながら、ふらふらと本堂の正面に出た。白い玉砂利を踏みながら住職の奥さんを探してきょろきょろしていると、ふと視線を感じた。
首をめぐらせると、本堂の濡れ縁から住職ともう一人、男性がこちらを見ている。
「しゅ……主任!」
氷室が眩しげに目を細めている。
どうして彼が居るのだろう? 愛子は頭の中が真っ白になってしまった。
「草取り、ごくろうさま」
氷室に声を掛けられ、愛子は慌てて自分の姿を見やった。Tシャツとジーンズは汗とほこりにまみれている。ぶかぶかな軍手と大きな麦藁帽子を被った自分の影は、まるで畑の中に立つ案山子みたいに見えた。
「あ……あの、あたし……」
愛子はしどろもどろで俯いた。昨日に引き続き、どうしていつも彼の前でこんな姿を晒してしまうのかと、頭を抱えたくなってくる。
住職が愛子に向かって手招きした。
「家内が握り飯を用意したから、食べていきなさい。ご苦労様でした」
昨日座禅を組んだ本堂に上がりこみ、奥さんお手製のおにぎりとつけものをご馳走になった。ほかほかのおにぎりはきっと美味しいのだろうけど、氷室がそばに居るので味なんかまったくわからない。
愛子が食事する間、彼は黙って眩しい玉砂利の庭園を眺めていた。昼時のぬるい風が彼の前髪を揺らす。いつもは整髪料でサイドに流している髪が、今日はすっとんとんだった。愛子は勤務シフトを思い出した。氷室は昨夜当直だったと記憶している。髪型のせいだろうか。ネクタイを外し、Yシャツ姿でくつろぐ彼は、職場に居るときよりずっと若く見える。
でも、氷室さんはあたしの上司……。
氷室は会社の代表として、昨日のことのお詫びに来たらしかった。
「出来の悪い部下でごめんなさい……」
愛子がぽつりと謝ると、氷室は振り向いてふっと柔らかく微笑んだ。
「もういいよ。昨日ちゃんと謝ってくれたでしょう?」
「あ……」
愛子は顔から火が出そうだった。彼の腕の中で、半ベソ状態で謝罪した事を思い出した。真っ赤になって俯いている愛子に、氷室が言った。
「僕のほうこそキミに謝らなくっちゃいけない。昨日のことも、乾燥室のことも。部下の体調にも気付かないなんて、上司としては失格だ。特に現場作業員を束ねる身としては尚更さ。不甲斐ない自分が嫌になるよ」
愛子はなんと言って良いのかわからなかった。黙っていると氷室は目線を庭園へとさまよわせた。
「転勤早々奥田くんが事故に遭って、わざわざ安全祈願をしたのは、たぶん僕のせいだ。どうしてだか行く先々で事故があるんだよ。呪われてるのかな」
そう言って氷室は自分の右の小指を左手で包み込んだ。愛子はじっと彼の手元を見つめた。あの小指は、事故と関係があるのかもしれない、ふとそんな気がした。
住職にお礼を言って本堂を出ると、愛子は勇気を振り絞って言ってみた。
「あの、あたし車で来ているんです。良かったらご自宅までお送りしますけど」
「え、運転できるの?」
氷室が心底驚いたような顔をした。自分が運転免許を持っているということが、そんなに意外だったのだろうか。
「あたし、運転は大好きです」
氷室は笑って「じゃお言葉に甘えて」と言って助手席に座った。
愛子はドキドキしてきた。彼の自宅がどこにあるのか、独身なのかそうでないのか、そういったことがきっと全部わかるのだ。何より、父親以外の男性を助手席に乗せて走るなんて、教習所の教官以来だ。
「なんか緊張する……」
ボソリと呟くと、となりで氷室がシートベルトをぎゅっと握り締めるのが目に入った。
「やっぱり、最寄りの駅までにしてもらったほうがいいかな?」
緊張気味に言う彼の言葉を無視して、愛子は車を発進させた。
「お住まいはどこですか?」
「Y市の川沿いにある会社の独身寮です」
彼の答えに、愛子は心の中でガッツポーズをした。なんという幸運! 独身寮ということは間違いなく結婚していないということだ。
どうしよう、どうしよう!
急に心拍数が上がってきて、赤信号を見落としそうになってしまった。急ブレーキを踏んだ途端に凄い剣幕で叱られた。
「危ないじゃないか!」
「す、すみません。いつもはもっと上手なんですけど……」
言い訳する愛子に一瞥をくれると、氷室はまるで教官のように愛子の運転をチェックしだした。
「制限速度、きちんと守って」「進路変更時のウィンカーが遅い気がするんだけど?」「信号のない交差点では速度を落として」
何だか本当に講習を受けているようだった。
「主任、うちのお父さんよりうるさいよ」
うんざりして思わずタメ口で言うと、コツンと頭を叩かれた。
「こんなんじゃ、会社の車、任せられないな」
彼の言葉に愛子はチラリと助手席を見た。
会社の車って、どういう事だろうか。
不思議そうな愛子の顔つきに気付いたようで、氷室は真面目な表情で言った。
「もし、上田さんにやる気があるのなら、大型車の免許、取ってもらおうかなって、今、ふと考えていたところなんだよ」
「え? 大型免許? あたしが、ですか?」
「うん、相良副長から女性の職域拡大について、もっと積極的な取り組みをするべきだって、前々から意見をもらっていたようなんだ」
前々からということは、前任者の堤の頃からという意味だろう。男女雇用機会均等法が施行されてからもう大分経つが、会社の中で一番女性が進出しにくい部署が工事課なのだと氷室は言った。
「事務職として採用している女性社員に、いきなり電柱登らせるわけにはいかないでしょう?」
まずは出来そうな所から実績を作ってゆくしかないのだそうだ。
「でもね、現場に出るということは、少なからずも内勤より事故に見舞われる確率が上がるという事なんだ。だから、本人の意向を無視して、やりたくもない仕事をさせるわけにはいかないんだよ。特に、事務職として採用されている上田さんは、やりたくなければ拒否する事だって出来るんだ」
――自分に出来ることを一所懸命やる。
――彼の期待に応えるように。
愛子の頭の中を祖母や相良の言葉がぐるぐる回った。青い作業着姿の自分が、会社のロゴ入りのトラックを運転している姿を想像すると、何だかちょっぴりワクワクする。桜井園子や、給湯室で陰口を言い合っている女子社員と自分は違うのだ。今までも彼女たちと自分は違うのだと思っていたが、今回は今までの「違う」ではない。
外に出て、工事課の一員として汗を流す。
『労働者風のOL』じゃなくって、本物の作業員なら、きっとカッコイイんじゃないかな。
信号が赤になり、ブレーキを踏んで止まると、愛子はハッキリと言った。
「主任、あたしやってみようかな。いえ、是非やらせてください」
横に座る彼を見ると、切れ長の瞳が優しげに微笑んでいた。初めて会ったとき、どうしてこの人が怖かったのかと不思議なくらい、それは包み込むような温かな眼差しだった。