安全祈願はヤバすぎる
翌朝未明、愛子はベッドの中で頭を抱えてのた打ち回っていた。こんな頭痛は初めてだった。
結局あのあと、ヤケ酒モードで二軒はしごして帰宅した。飯田がタクシーで送ってくれたのは覚えているが、それ以外はあまり記憶がなかった。タクシーを降りた後、彼が何度も頬を叩いて何か大事な事を言っていたようだったが、頭が割れそうで、今は全く思い出せそうになかった。
とろとろと浅い眠りを繰り返し、喉がやけに渇いて、乾燥室の夢にうなされていると、目覚ましが鳴った。
「もう、一歩も動けない……」
自分が異常に酒臭かった。なんで、あんなに飲んでしまったのか、訳がわからない。最後はめちゃめちゃハイテンションだった気がする。頭を揺らさないようにそろりと起きだすと、ワンピースのまま寝ていた。きっとこんな状態じゃ仕事にならないだろう。
「休もうかな。どうせあたしの代わりは野口さんだし……」
そう呟いた途端に、思考がゆっくりと動き出した。野口に何かを渡すように言われなかったか? 何でそもそも野口が自分の仕事を?
「あ……」
一気に記憶が巻き戻る。タクシーを降りたときの飯田の口の動きが甦って来た。
『ざ・ぜ・ん・い・け・る・の・か』
「ああ、どうしよう」
割れそうな頭を抱えて、化粧もそこそこに、同じワンピースのままで、愛子は家を飛び出した。
一駅乗っては下車をする、を繰り返し、ようやく会社にたどり着いたときには、八時を回っていた。遅刻ではないけれど、いつもやるべき事を片付けるには到底時間が足りない。それに、電車に揺られたことで、吐き気が酷かった。会社のトイレで便座とお友達になりながら、買ってきた液薬と口臭予防の錠剤を一気に飲み込んだ。
職場に行くと、氷室は合同会議の準備に追われて飛び回っており、会議の出席者である協力会社や下請けのお偉いさん方もすでに顔を見せていた。愛子は応接セットの片付けとお茶出しを命じられて、吐き気と戦いながらフロアを行ったり来たりした。そして、九時になると、さらわれるようにして業務車に乗せられ、安全祈願の会場へと移動させられた。
車中では頭痛と吐き気の為に、愛子は終始無言状態だった。氷室も仕事のことが気に掛かるのか、後部シートでぐったりしている愛子の様子には全く気がつかないようだった。
愛子にとって、心ときめくはずのドライブは、最悪の形で終わった。
金龍禅院は、一般の人が禅に触れるためにその門を開いている禅寺である。そして、この寺に縁のある龍は、雷の化身ということで、何年も前から帝都電力の作業員が座禅を組んで安全を祈願しているのだそうだ。なんとも曖昧な稲妻つながりである。
本堂に集められた帝都電力の社員十数名は、和尚のありがたい話を聞いた後で、さっそく安全祈願の座禅を組まされることになった。
「女性は正座、男性は胡坐を掻き、目は半眼で。半眼、すなわち薄目を開けて、前方下手を見るのは、釈迦如来の目線と同じ。無心の境地に達する為に、倣うことが大切です」
和尚は大きなしゃくを持って、皆の周りを歩きながら、念仏のようにしゃべった。
この時点ですでに愛子は意識が朦朧としていた。
開け放たれた本堂からは、白い玉砂利を敷き詰めた美しい庭が一望できたが、そんな美観も愛子の虚ろな目には何も見えていないに等しかった。
気持ち悪っ……。
緑豊かな庭園には、セミの声がうるさいくらいに響き渡り、愛子の二日酔いの頭をさらに痛めつけた。
頭が割れそうだわ、どうしよう……。
ぎゅっと目を瞑った途端に、背中を思いっきり叩かれて、愛子は板の間に突っ伏した。
まるで蛙がつぶれたときのように、べしゃっと顔から板の間に倒れてしまい、愛子は呻き声を上げた。
隣で氷室が息を飲むのが聞こえると同時に、叩かれた音がした。突っ伏した姿勢から元に戻ると、氷室がちょうどお辞儀をしたところだった。叩かれたら、合掌してお辞儀をしなければならないと、最初に説明されていたことを思い出した。多分彼は倒れた自分を助け起こそうとして動いた為に叩かれたのだろう。
惨めだった。知らぬ間に、涙が出てきてしまい、鼻をすするたびに叩かれた。そんな愛子の様子を見て、思わず吹き出した料金課の女性も叩かれた。
ああ、キモチワルイ……。
叩かれて、頭を下げるたびに眩暈がして、胃の中のモノが上がってくる感じがする。先ほどから、本堂のある中庭は無風状態になり、愛子の額には汗が噴き出していた。もっともその汗は、苦痛の為の脂汗かもしれないが。
自分では意識していないのに、また体が前のめりになっていたようだった。
バシッと叩かれた途端に、堪えていたものがあふれ出してきた。
もう限界です。神様、仏様、和尚様、私をお許しください。
「げっ」という音と共に、立ち上がった愛子は、本堂の濡れ縁から庭に向かって嘔吐していた。
これにはさすがに和尚もたまげてしまい、座禅は即刻中止された。
ああ、やっちゃった、どうしよう!
白い玉砂利の庭園に、胃の中のモノを全部吐きまくった後、愛子は濡れ縁に座り込んだ。今までの静寂が一転し、背後の人間たちが慌ただしく動き出していた。
ぐったりした愛子は、氷室に支えられて、本堂の外に運ばれた。壁に寄りかかるようにして廊下に座らされた愛子は、あまりに自分が情けなく、また恥ずかしくて、意識の無いフリをしていたが、実際は全部聞こえていた。
総務課長が和尚に散々怒られているのも聞こえていたし、何故具合の悪い人間を参加させたのかと氷室が全員から責められているのも聞こえていた。
「申し訳ありません、僕が気付かなかったばかりに……」
ひたすら謝る彼の声が聞こえたとき、つぶっていた目から涙が溢れてきた。
もう、おしまいだ。よりによって氷室の前で、こんな醜態を曝してしまうなんて。それでなくても、元々工事課の戦力外なのに、雑事もこなせず迷惑ばかり掛けている事が、申し訳ない。会社員どころか、社会人として失格だ。
本当にあたしって、役立たずだ。
氷室が戻ってきて、声をかけられた。
「上田さん、帰りましょう」
羞恥のあまり目を開けることが出来ずにいると、よいしょとばかりに抱え上げられてしまった。
そのまま浮遊感と共に、外へ連れ出されたようだった。ざくざくと砂利を踏む音がして、喧騒から離れた。薄く目を開けると、きゅっと唇を引き結んだ氷室の顔がすぐそばにあった。彼は険しい眼差しで前方を見据えたまま、愛子を抱きかかえて駐車場に向かっていた。
もう、気を失ったフリをするのも限界だった。
「ご、ごめんなさい……」
愛子は氷室の腕の中、消え入るような声で謝罪していた。意識があるのだから、すぐに下ろされてしまうだろうと思った。
氷室は一瞬立ち止まったが、下ろすような事はせず、車まできちんと運んでくれた。
助手席のシートを倒して愛子を寝かせると、すぐにエンジンを掛けて冷房を入れた。
「車出すけど、気分が悪いようだったら、すぐに止まるからね」
愛子はシートにひっくり返ったままで、力なく頷いた。自分自身が酒臭くてたまらないくらいだから、二日酔いによる嘔吐だという事は十分承知しているはずなのに、氷室は労るように声を掛けてくるだけだった。まともに彼の顔を見ることも出来ず、こちらから声を掛けるのも憚られた。汗と涙にまみれた顔を、両手で覆っていると、そっとタオルを渡された。
ごめんなさい。ごめんなさい。
タオルを受け取って顔を覆うと、愛子は心の中で何回も謝った。
会社の駐車場に着いた時、氷室からすぐに着替えて早退するようにと言われた。
惨めな思いで工事課のプレハブに戻った愛子は、若手メンバーから異例の称賛を浴びせられた。先に戻っていた座禅出席者から、早くも嘔吐事件が会社中に広まってしまったのだと理解した。だから、氷室は「すぐに帰れ」と言ったのかもしれない。
このたびの彼女の武勇伝は、悪ふざけが大好きな若手のツボに、大いにヒットしたようだった。こんなふうにからかわれるくらいなら、しょうもない奴だと無視されるほうがましなように思えてくる。さすがに、班長クラスになると、もう何も言えないといった雰囲気だったが、とりあえず今日のところは叱られるような事は無かった。
氷室は帰社してすぐにどこかへ居なくなってしまった。合同会議の後始末か、あるいは愛子の事件の後始末か、どちらにしても責任者としての仕事に追われている事は間違いない。これ以上どんな迷惑があるのか思いつかないが、また何をしでかすやら、自分に自信が無かったので、今日はもう言われたとおりに帰ることにしよう。愛子は職場の皆に挨拶すると、本館の女子更衣室へ向かった。
途中、遠目に飯田の姿を見かけたが、声はかけずにおいた。彼も心なしか具合が悪そうだった。あんなに飲んだのだから、自分だけが撃沈しているのでは面白くない。飯田もきっと頭痛に悩まされているのだと思うと、妙に笑えた。
重たい体を引きずって、女子更衣室への階段を上がっていると、上から桜井園子が降りてきた。事業所中に醜態をさらした以上、もう飯田の件なんて、ノー眼中だ。桜井だけでなく、女子社員全員が自分のことを不快に思っているに違いないのだから。
案の定、愛子の姿を認めても、桜井はすっと視線を下に向けて声もかけてはこない。
愛子は大きく息を吸い込んだ。二日酔いの抜けかけた頭では、何かを考えるのも面倒臭い。座禅のことも、乾燥室のことも、飯田のことも、勝手に誤解して、勝手に想像して、勝手に陰口でも何でも叩くがいい。そんな気分だった。
「お先です!」
大きな声で言ってやると、桜井は驚いたような顔で会釈を返してきただけだった。