アフターファイブ
飯田との抱擁シーン――というより、じたばたする子どもを取り押さえる親の図、みたいな、と愛子は脳内で無理やり画像を変換している――を目撃されてから数日経ったが、氷室は何事も無かったように愛子に接した。
彼にとっては、あんなことぐらい、本当に取るに足らない出来事なのかもしれない。そう思うと、愛子の心は果てしなく沈んでゆくのだった。女性として意識されていない以上、自分に出来る最大限のアピールは、もう仕事以外に無い。
愛子は暇を見つけては相良みつ子の居る配電課を訪ねるのが日課のようになっていた。
「そうそう、ポールマップが読めるようになれば、現場作業の無線指令には役に立つわよ」
「そうですね。でも、全然関係ないけど、電力会社の電柱に、こんなにたくさんの他社の機器が設置されているなんて、初めて知りました」
愛子は図面を眺め、本館の二階から見える電柱を見た。変圧器の下辺りに、四角いボックスが設置されているのが見える。ボックスからは三本のアンテナが、下向きに出ていた。
「あれは、携帯電話ね。他にもケーブルテレビの線なんかも通ってるから、工事をするときは、いちいち関連する箇所に連絡しないといけないのよ」
愛子は相良に礼を言い、ノートを手に配電課を出た。まだそれほど日は経っていないが、随分と勉強した気がする。最初は緊張していた相良との会話も、何だか楽しく感じられた。きっと相良の方もそう思っているに違いない。今日は、お茶とお菓子まで用意してくれていたのだから。メモをとったノートをめくりながら、本館の一階の廊下を通り過ぎたとき、自分の名前が耳に飛び込んできて、愛子はふと足を止めた。給湯室のドアが少しばかり開いており、複数の女性の声がした。
「彼女、最近よくうろうろしてるわよね。野暮ったい作業着で。あれって、やっぱ女子が着ると笑えるよね。日雇い労働者風っていうかさ」
「だからじゃない? 相良のオバサンと、仲がいいの」
「それにしても、飯田くんがちょっかい出すのが不思議だよね。あたしだったら、絶対桜井さんのほうがいいもん」
「あたしもそう思う。だってあの子まるで少年じゃん」
「だから、工事課なのよ。セクハラする気にもならないってゆうか……」
クスクス……
悪意を含んだ笑い声だった。
一歩、二歩と後ずさり、愛子は廊下の真横で口を開けている、営業課のフロアに飛び込んだ。接客中の営業課の男性社員が驚いたように振り返る。愛子は彼に会釈すると、カウンターの間仕切りを押し開けて、お客様フロアに出た。そこで立ち止まって営業課のフロアに隅々まで目を走らせ、女性社員の一人一人を確認した。席を外しているのはたぶん三人。その三人が、まさに今、裏の給湯室で自分の事を……。ショックで頭がくらくらする。
その三人とは、何度か一緒にランチを食べに行ったことがあった。それほど親しくなかったけれど、まさか陰であんなことを言われているとは、思いもよらなかった。
お客様用の自動ドアは、社員は通常通ってはいけない決まりだが、そんなことを気にしているゆとりは無かった。
背中に営業課の社員たちの視線を感じつつ、愛子は大股に自動ドアを出て行った。
自席に座っても、何だか落ち着かなかった。さっき聞いた会話が頭の中で回っている。なんであんな事を言われなければいけないのだろう? 半分放心しながらパソコンを覗いていると、背後に気配を感じた。
「上田さん、ソーシキリンジ、一班に無線で送ってください」
「へ? ソーシキリンジ?」
振り向くと、氷室が作業依頼の書類を手に立っていた。
「一班です。ソーシキリンジですよ、契約種別変更です。大丈夫?」
念を押され、ガクガクと頷きながら受け取って、首をかしげた。
ソーシキリンジ? 臨時……臨時契約?
今まで一度もこんなヘンテコな名称の作業を依頼したことなどない。
「あの……これ……何?」
思わずタメ口で言って見上げた途端に、氷室がプッと吹き出した。久しぶりに彼の笑った顔を見た気がした。
「ソーシキは、お葬式のことです」
そう言って、彼は丁寧に説明してくれた。
最近は斎場が主流なので、自宅で葬儀をする家は少ない。しかしここK事業所は、管轄内に昔ながらの漁村や古い集落があったりするので、自宅での葬儀もごく稀にあるらしい。その場合、普段以上に電力を使うことになるので、家庭用の小電流制限器のリミッターを解除して、たくさん電力を使えるようにしてやるのだそうだ。
「お葬式の最中に、ブレーカーが飛んで、真っ暗になったりするといけないでしょう?」
なるほど、である。
「帝都一、こちら帝都K、感ありましたらどうぞ」
無線で一班に指示を出した後、書類を渡しに行くと、氷室は無表情でそれをつき返してきた。
「上田さん、これ、コピーとって、料金課の飯田くんに、渡してきて」
愛子はハッと息を詰めた。氷室の「飯田くん」と言う時の言い方は、妙に力が入っているような気がしたのだ。
やっぱり氷室も桜井のように、自分と飯田の事を誤解しているのかもしれない。愛子は一礼してプレハブを出た。本館へ戻るのも嫌だったが、自分を見る氷室の視線も耐え難く感じた。せっかく、久しぶりに普通に氷室と話すきっかけをつかんだと思っていたのに。
イライラしてきて、駐車場に並んだ車両の間をジグザグに歩く。
「飯田のばか、アホ! あんたのせいで、あたしは……!」
口から出るのは、飯田の悪口ばかりになっていた。
愛子は何十台も並ぶ作業車の間をぐるぐる回った。炎天下での無意味な行動に飽きた頃、突然頭上から声が振ってきた。
「へえ。独り言でオレの名前呼んでくれたりするんだ?」
愛子は「ひゃっ」と叫んで飛び上がりそうになった。からかうような言い方は、見なくてもわかる。背中の汗がすうっと引いてゆくのを意識した。
恐る恐る見上げると、四階建ての本館屋上から飯田が身を乗り出していた。彼はわざと火の消えた吸殻を落として寄越した。バカみたいに、本人の真下で叫んでいたのだ。
「そんなとこに居るなんて、は、反則だよ……」
返す言葉が尻つぼみになってしまった。彼は「そこで待ってろ!」と怒鳴ると、屋上から消えた。
飯田は、本館裏手の非常階段から、足音も高らかに降りてくるなり、愛子の耳を覆っているヘッドセットマイクを奪い取った。
「お、かっこいいの、つけてるじゃん」
飯田は愛子の届かない高さでそれをくるくると回すと、自分の頭に装着した。
「返せ!」
ぴょこぴょこと虚しくジャンプする愛子を見て、飯田はにまっと笑って言った。
「なんか、言いたいことあるでしょ。ちゃんと聞くから、今日駅ビルの居酒屋で待ってるよ」
「行かないよ、居酒屋なんて。ガキみたいな事してないで、返してよ」
本人の顔を見て、よけいに腹が立ってきた。それに、まるでいじめっ子のような行動が、愛子の怒りを増幅させた。小学生の頃だっただろうか、いつも背の高い男の子が、愛子のポニーテールを吊るし上げては「ウサギ、捕まえた!」って、笑っていたのを思い出す。
社会人になってまで、やるか、普通。
「もういい!」
クルリと背を向けると、飯田が低い声で言った。
「オレだって、言いたいことがある。……桜井さんの事とか」
愛子は思わず振り向いてしまった。飯田は近付いてくると、愛子の首にそっとヘッドセットマイクを戻して言った。
「氷室の事とか、それから……オレが何であんなこと、したのかとか……」
逃げ出したい、そう思った。特に、「あの時のこと」は、聞きたくないような気がする。飯田との心地良い関係が壊れてしまいそうで、何だか怖い。
沈黙していると、エンジン音を響かせて、工事課の高所作業車とトラックが駐車場に入ってきた。二台の車には、大勢の同僚が乗っているはずだ。愛子は飯田の手に素早く書類を押し付けると、「わかった、行くよ」と言ってプレハブに戻った。
事務所に戻ると、無線台の傍に所長と総務課長が来ており、氷室と工事長を相手になにやら深刻な話をしていた。
「明日は、氷室くんともう一名、安全祈願の座禅に行ってください。各課からも、管理者クラス一名と担当者一名を出席させます」
先日奥田の事故があった際、安全祈願がどうとかと言っていたことを思い出した。だが、明日は協力会社や下請け業者を交えての合同会議が開かれる予定で、工事課にとっては大事な会合だった。その際には、工事長と主任はセットで出席するのが常なのだ。
「氷室くんの代わりに、別の作業員ではダメですか?」
さすがに大事な会議とあって、工事長は懸命に食い下がっているが、総務課長も所長の手前、妥協は出来ない様子だった。
愛子は、他の社員と共に遠巻きに見守りながら、先日の所長たちの言葉を思い出していた。
――疫病神って居るんでしょうかね?
あの言葉から察するに、安全祈願とやらの目的の一つは、氷室を出席させることに間違い無さそうであった。バカみたいな話だが、この職場に配属されて最初に目を奪われたのが、工事長の席の真上に据えられた、立派な神棚だった。毎月一日には、朝一番で神棚に向かって手を合わせ、作業員一同が安全を祈願するのも恒例となっている。二週間に一度、神棚に供える榊の葉を取り替えるのは、若手作業員の忘れてはならない役目の一つだった。
命にかかわる危険な職場だからこそ、安全やそれに関わる神事が重要視されており、また、氷室のように行く先々で事故に遭うような人間は、たとえそれが本人の不可抗力であったとしても、忌み嫌われるのだった。
一歩も引かない工事長と総務課長の間で、所長が和解案を提示した。
「氷室くんの代わりに、私が工事課の合同会議に出席しようじゃないか。そして、安全祈願には、所長代理として総務課長に出てもらうから。それでいいでしょう?」
これが、王手だった。
工事長はうなだれたように一礼してから、ふいに愛子に目を向けた。
「上田さん、明日、申し訳ないけど氷室くんと安全祈願に行ってください。これ以上、作業員を出すわけにいかないんです」
「あ……でも、無線は……?」
いきなり氷室と出掛けるなんて困る。愛子はうろたえて周囲の同僚たちを見やった。皆あからさまに目を背けたようだった。そりゃそうだ、安全祈願の座禅など、誰も好んで出席したくはない。
「そのヘッドセットマイクを、一班の野口班長に預けておいてください。何とかなるでしょう。駄目なら、携帯を使ってでも補うようにしますから」
佐々木工事長の言い方は、キミの代わりはいくらでも居る、と言っているのに等しく聞こえ、愛子はただ「はい」と答えるよりなかった。
終業時刻を告げるチャイムと共に、本日の宿直者を残して工事課のメンバーが一斉にデスクを離れた。
一番若い奥田が、ドーナツサポーターのとれた首を回しながら、追い越しざまに愛子に言った。
「上田さん、申し訳ないね。本当は事故に遭った僕が指名されていたんだけど、明日病院だからさ。代わりに安全座禅、頑張ってね」
奥田は満面の笑みで愛子の背中をボンと勢いよく叩いた。何だか妙に嬉しそうだった。前回同じ行事に出席した事のある作業員たちからは、「座禅って大変だぞ」とか「背中叩かれても黙ってお辞儀をしないとまた叩かれるぞ」なんて、嘘か真かわからないような脅しを聞いている。愛子は覚悟を決めたような顔を作って、「頑張ります」などと、笑っていたが、内心は座禅よりも先ほどの工事長の態度や、氷室と出かけなければならないことで頭が一杯だった。
飯田との待ち合わせも、愛子の気分を暗くしていた。
大きくため息をついて、貴重品の入ったバッグを手にデスクを離れると、氷室に声を掛けられた。
「上田さん、明日は九時にここを出ますから。いつもの作業着でよいそうです。よろしくお願いしますね」
「主任と二人で、ですか?」
念のため尋ねてみると、氷室はあっさり頷いた。
「他係のメンバーは、それぞれ現地集合ですが、僕が合同会議の準備をしてからじゃないと出られないので、あなたも行動を共にしてもらいます。時間になったらすぐに出発できるよう、準備しておいてください」
表情の無い顔で言って、氷室は自席に戻って行った。
本来なら、氷室と二人で出掛けられるなんてドキドキのはずなのに、この空気の重さはいったい何なのだろう。
上司と部下、ただそれだけ。
愛子は大きくため息をついて職場を出た。
アーケードのある商店街を抜けて、人々でごったがえす駅ビルの中に入った。冷房のよく効いた一階の飲食街を歩いてゆくと、居酒屋の前ですでに飯田が待っていた。店に入ると奥まった隅の二人席に案内された。入口から死角になっていたので、こんなところにも席があることを、愛子は初めて知った。
「今日はオレのおごりだから、好きなの頼んでいいよ」
飯田はいつもと変わらない態度で、へらりと笑った。彼に言いたい事は山ほどあったが、こう面と向かってニコニコされてしまうと、何だか言葉が出てこない。飯田は要領よく適当につまみを頼み、愛子に生ビールを手渡すと、勝手にグラスを合わせた。
「んじゃ、かんぱーい」
楽しげに顔を覗き込まれ、愛子はすっかり黙り込んでしまった。彼のおごりで飲み食いしているだけなのだから、これじゃあまるでただのデートだ。
「愛ちゃん、そのワンピ、可愛いじゃん」
さりげなく褒められて、悪い気はしないのだが、どうにも気分が乗らなくて、愛子はいきなり話題を変えた。
「あのさあ、こんな、デートみたいなことしててさ、桜井さんに悪いとか、思わないの?」
ふう、と飯田はあからさまに嫌そうな顔で大きく息を吐いた。
「あのさ、桜井さんとオレは、べつに何でもないの。この間の事は、お前をダシに使ったみたいになっちゃって、悪かったと思ってるよ。だからこうしてお詫びのしるしで……」
「お詫びのしるしって……!」
愛子は絶句した。もしこれが本当にお詫びなら、あとビール五十杯は注文してやらなければわりに合わない。なんたって、こっちはあやうく干物になりかけたのだ。
「だけど、桜井さんの顔は……あれは、ただ事じゃなかったよ。飯田くん、本当に何でもないって、言えるの?」
飯田はバツが悪そうに目線を泳がせると、落ち着かない仕草でタバコを取り出した。やっぱり何かあるのは、見え見えだった。飯田は観念したように言った。
「この前、うちの係の若い奴らと、総務課・営業課の女子社員とで合コンみたいなことしたんだよ。その時にさ、桜井が酔ってオレが送っていく事になって……」
愛子はうんざりして耳を塞いだ。飯田のこのテの話題は、何となく結末が予想できてしまう。すると飯田は大真面目な顔で、愛子の手を耳から外した。
「ちゃんと聞けって!」
「いいよ、もう。飯田くん、いつもそんなんじゃん。女の子つまみ食いして、そんなに楽しいの?」
乾燥室に閉じ込められたけれど、今は桜井に心底同情していた。飯田は怖い顔でかぶりを振った。
「違うって。さすがにオレも、桜井園子嬢は遊び半分じゃいけないキャラだって、わかってたよ」
「じゃあ、どうして?」
「いっぺんだけって言うから、軽くしてやったんだ」
愛子は瞳を大きく見開いたまま固まった。ぶわっと血液が顔に集まる。
「軽くしてやった」って、いったい女性をなんだと思っているのだろう?
「そ、そんな、軽くとか……そんなの、区別があるわけ?」
愛子は手元のビールを一気飲みすると、ジョッキをテーブルに叩き付けた。
「いっぺんだけ、キスしてくれって言うから、してやっただけだ」
「え……? キス」
飯田は頷くと、愛子の反応に満足したのかにまっと笑った。本当なのかと念押ししたが、飯田は大きく頷いて言った。
「軽いキスしたからってさ、恋人にされたらこっちだって困るって。それも酒の席だし、あっちがしてくれってうるさかったからしただけで、桜井だってそれでもいいって……」
でも、何だか釈然としなかった。もし自分が氷室にそんなことされたら、きっと桜井みたいに勘違いしてしまうと思った。たとえ酒の席であっても、そういうのは良くないと思う。やっぱり飯田が悪いのだと愛子は思った。
「付き合う気が無いならさ、あたしなんかダシに使わないで、きちんと言葉で言ってあげた方が親切だよ。飯田くん、そういうところ、全然わかってないよ」
語気を強めて言うと、飯田は黙り込んでしまった。こちらは全く悪くないのに、責めているような形になってしまったのが気に入らない。もう、帰りたいなと思い、腰を浮かしかけると、手をつかまれた。
「氷室だ。女連れ」
飯田が愛子の背後に目線を走らせて小声で言った。
瞳を見開いたまま、そろりと振り返ると、こちらに背を向けてカウンター席に座った氷室と女性が見えた。チラリとのぞく女性の横顔は、とても綺麗だった。
「すげぇ美人連れてるじゃん。あれって彼女だよな、絶対」
飯田の声が愛子の胸にぐさりと刺さった。
「い、一緒にいるからって、彼女とか決めるの、おかしくない? 飯田くんとあたしだって、ただの友達じゃん」
自然と声が小さくなった。飯田は手元の箱からタバコを一本抜き出すと火を点けた。氷室と連れの女性を目で追いながら、フウと大きく煙を吐いた。
「そりゃ、愛ちゃんとオレはトモダチだけどね。でも、あれ、どう見たって親しいんじゃない?」
見たくない、と思いつつも好奇心に負けて再び振り向いた愛子の目に飛び込んで来たのは、女性の肩にそっと手をかける彼の姿だった。女性は氷室に向かって何かしきりにしゃべった後、しばらくして手元のお絞りで目元を拭いだした。振り返ったまま、カウンターの二人に釘付けの愛子を見て、飯田がフッと笑ったようだった。
「そんなにかぶりつきで見てたら、おかしいって」
呆れたように言われ、愛子は動揺を隠すために、運ばれて来たばかりのビールを一気飲みした。あの女性は飯田が言うように、氷室の恋人だろうか。年のころは二十代後半くらいに見えた。男の前で涙を流すなんて、よほどのワケアリだと思った。氷室も氷室で、女性の背中を優しく叩いている。どう見ても、飯田の見立ては正しいと思えてきて、愛子は無意識に三杯目のビールを飲み干した。
その後もカウンターの二人が気になって仕方がない愛子に、飯田がとうとう言った。
「なんかさあ、氷室ばっか、気にしてるんだね。こんなにいい男が目の前に居るってのに」
「え……あ、ゴメン……」
愛子は再びビールを一気に飲もうとして、飯田に止められた。
「もう止めとけって。これ以上一気飲みしたら、マジで倒れるって」
言われて初めて愛子は自分の視界が歪んでいることに気がついた。それでも尚、カウンターが気になり、椅子にほぼ横座りになると、トロンとした目を飯田から二人へと泳がせた。
「なあ、氷室を呼んできてやろうか?」
飯田が完全に怒ったような声で言ったとき、カウンターの二人が立ち上がって店を出て行く素振りを見せた。
「飯田くん、余計なこと、しないで」
愛子は飯田の腕を引っ張って、座席に座らせた。氷室は女性の背中を抱くようにして店を出て行った。
二人の姿が見えなくなった途端に、張りつめていたものが切れたようだった。
ゆらりと立ち上がった愛子を見て、飯田がハッと息を飲むのが聞こえた。
「愛……何それ、おまえ、笑えないよ……」
「へ?」
愛子は、飯田の方に向けている自分の顔に両手で触れた。頬が両方とも濡れていた。
「らって、飯田くんが意地悪いこと、言うから……」
ろれつが回っていないことに気付いたが、何だか言葉が止まらなかった。
「あの人、氷室さんの彼女だよね。きっとそうだよ。あたしなんて、彼の眼中に無いんだから」
涙も止まらない。飯田はただバカみたいに口を開けてこちらを見ている。そうだよ、アンタが悪いんだ。
「飯田くん何であんなことしたの? よりによって氷室さんの前で……」
飯田は悪くない。見られたのは偶然なんだから。でも、頭ではわかっているのに、言葉が勝手に出てしまう。
「だってお前……」
飯田は困ったような顔を向けた。
「大きなお世話なのよ! 氷室さん、どうせあたしなんかに興味ないし。あのことらって、何事も無かったみたいに無視して。あたしなんて何とも思われてないんらモン。部下としても、女性としても……。あたひなんて……ひっく」
急に足元がふらついた。飯田の前で涙を流している自分も、十分ワケアリだな、などと、頭の中のどこか冷静な部分で思ったりするが、一歩、二歩と踏み出した時点で、愛子は居酒屋の床にぺたりと座り込んでいた。
「大丈夫かよ」
呆れたように抱えられて、椅子に座らせられると、愛子は飯田が止めるのも聞かずに、残っていたビールを一気飲みし、さらに飯田の前にあったウーロンハイにも手を出していた。
「お前、あいつのこと怖がってたのに、もしかして……本当は好きだったとか?」
ぐるぐるまわる頭に、そんな飯田の声が聞こえて、ただガクガクと頷いていた気がするけれど、もう何だか意識が飛び始めていた。