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上司と部下

 二日間会社を休んだ。

 あの日作業着姿で帰りついた途端に、倒れたのだった。酷い発熱だったらしい。医者からは熱射病と診断された。家族は皆不思議がっていた事だろう。普通の事務員が熱射病なんて、有り得ない。作業着姿で帰宅した為、母親にどうしたのかと問い詰められたが、話す気にもならなかった。

 自分は職場内のお荷物で、女性の先輩からイジメにあっていて、さらに大好きな上司からは、セクハラされました。なんて、悲しすぎて誰にも言えない。


 行きたくないと思っても、気がつけばいつもの時間にいつもの公園の脇を歩いていた。こんな自分が嫌になる。本当に、辞めてしまおうか。でも、会社を辞めても何もする事がないし。

 会社に着いてしまった。

 重い足取りで女子更衣室に向かっていると、相良みつ子が追い抜いていった。

「お、おはようございます!」

 愛子は慌てて挨拶をした。相良は歩調をゆるめて愛子に並んだ。

「体は、もういいの?」

 干物みたいになって、みっともなく倒れた事が、相良にまで知れ渡っていたのか。愛子は無言で頷いた。

「氷室くんが心配してたわよ。彼に連絡したの?」

 愛子はかぶりを振った。会社への連絡は、母親に頼み込んでしてもらったのだ。母親からは「子供じゃないんだから」と叱られたが、たとえ電話でも、氷室の声を聞くのが苦痛だった。

「あの日残業してたら、あなたを抱えて右往左往してる彼を見つけちゃって、ほんと可哀想なくらい慌ててたわよ。救急車呼んでくれって、もう半泣き状態で」

 迷惑かけていたことを改めて自覚して、愛子は小さくなった。相良は思い出し笑いのようにくっくっと喉の奥で笑って言った。

「奥田くんが事故に遭ったばかりだから、騒ぐのはやめなさいって一喝したら、仔犬みたいにシュンとなっちゃって、私があなたを着替えさせている間もフロアの端っこで頭抱えてたわ」

 え……! 今何て言ったの?

「あのっ、私を着替えさせたって……」

 相良はニッコリ笑って頷いた。

「私よ。だってあなた、水浴びたみたいに汗かいてたから」

 愛子は両手で口を覆った。

 氷室じゃなかったのだ。自分を着替えさせたのは、彼じゃなかった。彼は愛子を探してくれて、心配してくれて、かいがいしく介抱してくれただけ。それなのに、あの仕打ちは!

「あたし、なんて酷いこと、しちゃったの?」

 立ち止まったままの愛子を残して、相良の大きな背中が女子更衣室に消えた。


 愛子の乾燥室事件は、相良と氷室の間で無かった事にされたようだった。そのほうが、愛子にとってもありがたかった。この事が表沙汰になれば、氷室の部下への監督責任が問われる。奥田の事故があったばかりだから、きっと氷室と佐々木工事長への風当たりが強くなってしまうだろう。愛子のことがあった時、工事課のほぼ全員が奥田の事故報告会議に出ている最中だったので、発見が遅れたのだが、幸い大事に至らなかったので、穏便に済ませられるものならば、そのほうが良いに決まっている。もっと心配なのは、下手に事を大きくして、愛子を閉じ込めた犯人探しが始まってしまうのではないかという事だった。桜井のした事は許せないけれど、彼女が非難の矢面に立たされるのは、何だか嫌だった。彼女はただ誤解しているだけなのだ。自分と飯田の事を、つきあっていると勘違いしているのだろう。これに関しては、全面的に飯田が悪いのだ。

 色々と考えているうちに憂鬱になってきた。

 プレハブに向かう足取りが重い。本館を出て裏手に回り駐車場を通り過ぎる。まだ時間が早いせいで、人影は無い。

 氷室にどんな顔をして会えばいいのだろう。 謝るにしても、どのように切り出せばいいか、まったく思いつかない。彼が出勤してくるまでに、どうするか考えよう。

 気持ちを切り替えてプレハブのドアを開けると、すでに氷室が着席していた。

「あ……」

 彼は愛子を認めると、何も無かったように軽く会釈をして、手元の書類に目を落としてしまった。

 完全にタイミングを逃した。さらりと、挨拶がてらに叩いた事を謝ってしまえばよかったのに。

 いつものように応接セットを片付けているうちに、一人、二人と社員たちが出勤してきて、職場はあっという間に賑やかになった。

 ケガをした奥田も、小さめのドーナツを首に巻いて、車輌整備の為に外へ出て行った。すっかり元気そうでよかった。

 室内に居ると、氷室の存在が気になるので、久々に車輌整備を手伝おうと軍手をはめたとき、先輩社員の野口に呼ばれた。彼はT大工学部卒で入社五年目だ。頭が良く、後輩からも慕われている。ゆくゆくは本店に行って幹部になるのだろう。

「上田さん、ちょっとこれ使ってみてくれないかな」

 野口に手渡されたのは、ヘッドフォンのようなものだった。耳の辺りに大きなダイヤルとマイクが付いている。ちょうどラップシンガーが歌うときのマイクみたいだった。

「なんです? これは」

 愛子は軍手を外しながら尋ねた。

「マイクだよ、無線の。ヘッドセットマイクって言うんだ」

 そう言って、野口はもう一つ、小さな手のひらサイズのリモコンを手渡した。愛子は手の中のリモコンをじっと見た。テレビのリモコンみたいに数字のボタンがついている。どうやらこの数字が作業班のナンバーになっているようだった。

「いつもと同じように一班なら一の数字を押しながらしゃべるんだよ。けっこう感度いいから、事業所内ならどこにいても応答できると思うよ」

 愛子は目を見張った。こんな便利なものがあったなんて。 

「もっと早く買ってくれたらよかったのに」

 そうすれば、氷室に叱られずに済んだだろうし、乾燥室で倒れる事もなかったのに。

「これ、主任に頼まれて僕が作ったんだよ。けっこう苦労したんだぜ。秋葉原で高い材料買ってさ。ま、金出したのは主任だけどね」

 野口は得意気にあれこれと説明してから現場に出て行った。

 愛子は作業員の行き交うフロアの彼方に、氷室を見やった。

「氷室さん、自腹で? それって、あたしのため……?」


 始業のチャイムが鳴り、いつもの無線が入る。愛子は事務所内を歩きながらリモコンを片手に応答してみた。

「帝都七、気をつけて作業願います」

『帝都七、了解です』

「願います、帝都K、以上」

 プレハブ内は、どこに居てもばっちり受信できた。いつもの無線より感度が良いくらいだ。愛子は満足しながら無線台に向かおうとして足を止めた。無線台の横には氷室が居る。作業員たちも出払ってしまい、工事長も役職者会議に出席の為もうすぐ席を外してしまうだろう。そうなると、二人きりはどうにも気まずい。

 愛子はヘッドセットマイクをつけたまま、自席で書類の整理を始めた。休んでいる間、仕事が溜まっているかと覚悟していたが、全部きちんと処理が終わっており、愛子は目を丸くした。氷室がやっておいてくれたのだろうか?

『お礼とお詫びは早いほうが良い』と、誰かに聞いた事がある。

 やはり、叩いた事を謝って、介抱してくれた事や、仕事のお礼を言うべきなのだ。

「上田さん、会議に行ってきますね」

 大儀そうに立ち上がると、佐々木工事長が事務所から出て行った。室内が静かになった。ちらりと目をやると、彼と目が合ってしまった。愛子は大きく深呼吸をすると、氷室の席に歩いて行った。

「あのっ、主任、先日は叩いてしまい、申し訳ありませんでした」

 借りていたTシャツを差し出して、ぺこりと頭を下げると、氷室が立ち上がる気配がした。顔を上げると、目の前に彼がいた。氷室はTシャツを受け取って愛子をじっと見下ろしているが、何も言わない。

 どうしよう……怒ってるんだ、きっと。

「あたし、その……勘違いしちゃって……」

 俯いてぼそぼそと言い訳していると、そっと肩に手を置かれた。そのままぽんぽんと軽く叩くと、氷室は「パトロール行きます、中のこと、お願いしますね」と、上着を羽織って出て行った。

 軽くあしらわれた気がした。


 氷室が出て行くと、すぐに飯田が現れた。彼が来るのは帰りに会ったあの日以来だ。飯田は愛子の座っているデスクにいつもの書類を放り出すと、行儀悪く隣の空き机の上に腰掛けた。

「なんとかは、風邪ひかないっていうけど?」

 飯田は呑気だ。そんな彼の態度が余計に腹立たしい。心の中で彼を罵りつつも無視していると、飯田はぴょんとデスクから降りて愛子の脇にしゃがみ込んだ。

「……腹でも壊したか?」

「だれが!」

 下から見上げるように顔を覗き込まれ、思わず反応してしまう。徹底的に無視するつもりだったのに。飯田は「してやったり」といった表情を浮かべて、満足気に目を細めた。相手にしていられない、とばかりに、飯田が投げた書類をつまんでめくり始めると、彼がぼそりと言った。

「あのさ……氷室と、何かあったの?」

 愛子はどきりとした。書類をめくる手が止まる。なんで、氷室の名前が出てくるのかわからないし、飯田の質問の意図もわからない。

 黙っていると、飯田は低い声で言った。

「見たんだ、オレ。夜、お前泣いて帰ってったじゃん」

 ハッとした。作業着のまま飛び出したのを、見られていたのだ。

「あの後、ここを覗いたらあいつしか居なかった。昼間だって、お前、なんか泣いてたみたいだったし、もしかして、氷室に……?」

 飯田は何か誤解してるのかもしれない。

 でも……。

 乾燥室で倒れたことなど言いたくもない。特にこの男には。またからかわれるに決まってる。それに、桜井のことがあるし。

答えようもないので再び書類をめくり始めると、飯田がすっと立ち上がった。

 愛子はほっとした。桜井のことが心に引っかかっているせいか、以前のようにお気楽な会話が出来そうもなかったのだ。ところが、飯田は背後に突っ立ったままで出て行こうとはしない。どうしたのかと椅子ごと振り返ると、脇の下に手を入れられて、すくい上げるように椅子から立たされた。

「ちょっと!」

 そのままぎゅっと抱きしめられて、愛子は頭の中が真っ白になってしまった。反射的に身をよじって抵抗すると、つま先が床を離れた。柑橘系のメンズフレグランスの薫りとタバコが混じった匂いを嗅いで、愛子は我に返ったように叫びだした。

「やだよ! 飯田くん、離して!」

 愛子は、首筋に顔をうずめる飯田の頭を思いっきりグウで殴りつけた。

「やだってば! 下ろしてよ、はやくっ!」

 頭だけでなく、腕や背中まで何度も殴りつけるが、飯田は全然放してくれない。両腕で抱きかかえられ凄い力で締め付けられて、愛子は急に怖くなった。なんで飯田はこんな事するんだろう? いつもの おふざけにしては、度がすぎる。

「飯田くん、ふ、ふざけないでよ!」

 暴れながらの声が、引きつったように裏返って、目に涙がにじんできた。

「愛子……オレが……」

 耳元で飯田がくぐもった声を出したとき、バタンとプレハブのドアが開いた。

 途端に解放されて愛子はへなへなと床に座り込んだ。大きく息を吸い込んでドアを振り返ると、氷室が立っていた。

 氷室はその場で固まっていたが、視線は飯田と愛子の上をせわしなくさまよっていた。

「あ……」愛子は息を飲んだ。

 今の、見られた……!

 飯田を見ると、彼は不敵な笑みを浮かべて言った。

「お早いお帰りで」

「用事が済んだら、自分の部署に帰りなさい」

 いつもと変わらぬ調子だったが、氷室はあの、鷹の目で飯田を睨んでいた。飯田は前髪をかき上げると、ポケットに手を突っ込んで大股にプレハブを出て行った。

 彼が出て行った後、氷室は座り込む愛子に目を向けたが、すぐに自分のデスクから書類を二、三枚つかむと無言のまま出て行った。

 パタンと閉まったプレハブのドアを、愛子はいつまでもぼんやりと見つめていた。


 昼近くになっても氷室は戻らなかった。もちろん仕事にきまっている。けれど……。もしかして自分と顔を合わせたくないのでは? などと考えて、その度に愛子はどっと落ち込んだ。例によって氷室宛の電話や仕事の問い合わせに追われたおかげで、何とか気が紛れはしたが、時間はいつもより数倍のろのろと過ぎていった。

 昼休みになったが、まだ帰社していない班があるため、愛子はいつものように無線台に弁当を持ってきて座った。

「二班、まだかな」

 窓の外に目をやると、駐車場には夏の陽射しに焼かれた作業車がずらりと並んでいた。ふと、ヘッドセットマイクの存在を思い出して、表に出てみようかな、という気になった。

 製作者の野口に確認すると「たぶん、遮るものが無ければ、事業所のアンテナから半径五百メートルくらい拾うはずなんだけど」との事だった。念のために席を外すことを彼に告げ、愛子は弁当を手にプレハブを出た。

 通勤ルートの遊歩道を通り、いつも突っ切る公園に入ってゆく。昼時の公園には、近くの役所の職員や、デパートの制服を着たOLの姿が目に付いた。みな、弁当やパンを手にベンチでくつろいでいる。愛子も、木陰のベンチを選んで腰掛けた。桜の巨木の梢からセミの声が降ってくる。木漏れ日の下で弁当を広げた時、見慣れた作業着姿が目に入った。

「あら、珍しいわね」

 相良女史はつつじの植え込みの向こう側から声をかけてきた。彼女は一旦姿を消したかと思うと、公園の入口からやってきた。手にコンビニの袋を提げた彼女は、愛子のとなりに腰を下ろしてしまった。

 愛子は緊張気味に背筋を伸ばした。相良とランチなんて、ちょっとしたゴーモンだ。

どうしよう。話すことなんて、無いのに。

 相良はコンビニのビニールからサンドイッチとコーヒーを取り出した。

「それは、音楽を聴くものなの?」

 指さす相良に、愛子は野口からの受け売りで、無線送受信機の説明をした。

「これのおかげで、少しだけ行動半径が広がりました」

「そう、やっとだわね。私、堤主任には散々言ったのよ。あなたを無線台に張り付けておくのはもったいないって」相良は続けて「いつもあなたが気になっていたものだから」と、驚くようなことを言った。

 しょっちゅう工事課に来ては口を挟んでいた相良が、実は自分のことで堤と揉めていたなんて。

「女子社員だからって、現場作業が出来ないわけじゃないし、今どき無線台に張り付けて、庶務やお茶汲みだけさせているなんて、ナンセンスだと思ったのよ」

 愛子は相良のふくよかな顔を盗み見た。会社一筋(?)の女性管理職の横顔は、少し満足気に見えた。

「氷室くんがそれを渡したって事は、あなたを戦力だと思っているのだから、彼の期待に応えるように努力することね」

 そう言って、相良はたまごサンドを一気に口に押し込んだ。コーヒーを飲み干して立ち上がりかけた相良に、愛子は思い切って言ってみた。

「あのっ、時々配電課を訪ねてもいいですか? 私、もっと仕事の流れとかを知りたいんです」

「氷室くんに教わったらいいじゃない。あの人とても優秀よ。訳あって、こんな末端の事業所に居るけれど、本店に居てもおかしくないぐらいなんだから」

 知らなかった。氷室がそんなに出来る人だったなんて。そういえば、堤よりずっと若いのに主任になっているのだから、評価されているのだろう。

 でも……。

「あの、私、相良副長に教わりたいんですけど。だめでしょうか?」

 相良はじっと愛子を見ていたが、「いいわよ。午後ならたいてい中に居るから」と言って公園を出て行った。

 一人になり、弁当を食べ終えた頃、無線が入った。感度良好だ。

「帝都二、感あり、どうぞ」

『手持ち終了です。直ちに帰社します、どうぞ』

「ごくろうさまです。作業発生ございません、帰社願います。帝都K、以上」

 公園のベンチに座ってマイクで応答すると、ランチ中のサラリーマンやOLが一斉にこちらを見た。以前だったら、ちょっと恥ずかしい気もしたけれど、愛子は堂々と胸を張っていた。

 これが私の仕事だもん。

 野暮ったい紺色の作業着も、少しだけ好きになりかけている。会社は恋愛しにくるところじゃない。仕事をするところなんだ、と割り切らなくてはいけない。あんなことがあって落ち込んでいたけれども、そんな事に心を砕くより、もっとしなければならない事が、山ほどある。

 ただ、好きなだけじゃだめ。氷室さんの期待に応えられなくちゃ。私は彼の部下なのだから。

「上司と部下。それ以外の何ものでもないんだから……」

 ぽつりと声に出してみた。頭の上から降り注ぐセミの鳴き声がうっとうしかった。



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