新しい上司がやってきた
堤は去って行き、氷室が着任した。失意に沈む愛子の気持ちなど全くお構い無しに、いつもと変わらぬ日常が流れ始めた。
氷室は工事課の皆に挨拶を済ませると、堤の席に座った。愛子の座る無線台のちょうど真横に当たる。机の向きは愛子を監視するような形に設置されている。愛子を、というより、無線台を見るためなのだが。
何だか落ち着かなくて、愛子は手当たり次第に書類を引っ張り出しては仕事をするフリをしていた。氷室は愛子など視界に入っていない様子で、堤から引き継いだ書類に鋭い視線を注いでいた。
ただ、毎朝恒例の無線の送受信のときだけ、席を立って彼女の背後で様子を見ていた。背後に氷室が居るというだけで、愛子は緊張して汗をかいてしまった。
無線のやり取りが終わると、氷室が声を掛けてきた。
「上田さん、僕は管轄内のことを早く知りたいので、今日一日、現場作業の見学とパトロールをしてきます。申し訳ありませんが、中のこと、お願いしますね」
「あ、はい。わかりました」
氷室はマップを手に出かけて行った。愛子はホッと胸を撫で下ろした。堤はいつも事務所に居たから、氷室もそうするかと思っていたのだ。堤とは話しやすかったので、一日一緒に居てもどうということはなかったが、氷室と二人きりでは息が詰まる。出かけてくれて良かった。
氷室と入れ替わるようにして飯田がやってきた。
「おチビ、心配してたけど、ちゃんと仲良くやってるじゃん」
「仲良くとか、まだ全然だよ。それより、中のこと頼まれちゃったんだけど、飯田くんの持ってくる書類、どうすればいいの?」
飯田は驚いたような顔になった。無理もない。約一年工事課に居て、今さら何を言うんだと言いたいのだろう。
愛子は飯田に向かって頭を下げた。
「あたし、堤主任が何やっていたかなんて、全く興味なかったし、主任もあたしに任せようとしなかったから……。飯田くんに聞くべき事じゃないとは思うけど、書類の流れだけでも教えてくれないかな」
飯田はちょっと考えるような顔つきをしたが、「わかった」と言うと、彼女の隣に椅子を持ってきて座った。
飯田の仕事は電気料金の集金だ。通常、料金の支払いは口座引き落としなのだが、口座から落ちないと滞納扱いになる。電気料金は一ヶ月ごとに発生するから、それがある程度溜まり督促しても支払われない場合は、送電停止となる。要するに、払わなければ電気を切られるというわけだ。今の世の中、電気を止められたら不便で仕方がないだろうなと愛子は思った。
公共料金ぐらい払えないでどうする! と思うのだが、実際支払わずに電気を止められてしまう顧客件数は、このK事業所だけで毎日五十件以上にも上る。それと工事課と何の関係があるのかわからない。尋ねると、飯田は丁寧に教えてくれた。
「オレたち料金課の人間が昼間停止作業をして、その後お客が料金支払ったら、電気使えるようにしなくちゃいけないじゃん。二十四時間営業のコンビニでも支払いが出来るから、夜中に支払いが確認できた場合は、当番で泊まってる工事課の作業員が電気つなぎに行くんだよ」
知らなかった……
「未払いの家はけっこう癖の有るお客も多いからね。凶暴な犬、放し飼いにしていたり、わけわかんねぇイチャモンつけてきたり」
そういった、要注意の顧客の情報や、過去の交渉経過などを飯田から聞いて作業員に伝えるのが堤の仕事だったらしい。
飯田とはいつも雑談をしていたのだから、そんな仕事は自分に回してくれたらよかったのに、と愛子は思った。どうやら飯田も同じように思っていたらしい。
飯田が引き揚げてゆき、一人になった愛子はため息をついていた。
工事課の中で、愛子はまったく戦力になっていなかった。けれども、堤だけは愛子のことを評価してくれていると思っていたのに。居なくなって初めてわかる。こんな簡単なことも任せてもらえないくらいに、自分は頼りない存在だったのだ。まったく、これでは本当にお茶汲みだ。いい人だと思っていた上司が恨めしくなった。
「あたしなんて、要らないじゃん……」
悔しくて、久しぶりに涙が出た。
氷室は翌日も現場視察と称して朝から出掛けてしまった。初めて会った日の印象とは違い、彼の話し方はとても丁寧だったが、やはり愛子は彼が出かけるとホッとするのだ。
無線台に座って、当直の作業員がやった仕事を確認していると、飯田が現れた。
「あれ? おチビ。珍しく仕事してるじゃん」
器用に片目をつぶって見せる飯田に、何か言い返そうとしたが、やめておいた。仕事で教えてもらわなければならない事が山ほどあった。飯田が持ってくる仕事は、昨日から愛子がやるようになったのだ。
昨日、現場視察から戻った氷室に「堤主任がやっていた仕事だから」と手渡したところ、「僕もよくわからないから、上田さん、今日からそれ全部、あなたがやってください」と、あっさり言われてしまい、愛子は複雑だった。
堤が任せなかったのに、いいのだろうか? 氷室は愛子の事を全く知らないというのに。信頼? いや、そういうことでもないだろうけど……。
午後になっても氷室は戻らなかった。
配電課の相良女史が太った体をゆすりながらやってきた。彼女は閑散とした事務所内を見回している。
「ねえ、上田さん。氷室主任はまだ戻らないのかしら? 先日堤さんに依頼した作業の件、ちゃんと引継ぎはしてあるの?」
愛子が小さくなって「わかりません」と言うと、相良はあからさまに舌打ちした。
「戻り次第連絡寄越すように言ってよ。それとも上田さんが書類、探して持ってきてくれてもいいけど。それくらいできるでしょう?」
「すみません。私には、何の書類なのか、どこにしまってあるのかも、さっぱり……」
相良はやれやれというように頭を左右に振っただけでプレハブを出て行った。
愛子は俯いてただ頭を下げていた。堤が教えてくれなかったから、などと恨めしく思ったりしたが、考えてみれば自分から進んで仕事を覚えようとはしなかった。やる気のないお嬢ちゃんに教えてやるほどヒマじゃない。きっと堤は心の中でそう思っていたに違いない。堤だけでなく、他の工事課のメンバーも、そう思っていたのではないだろうか?
女子社員だから出来ない。事務職だから無理。そう思って、自分の係の仕事に興味すら抱かなかったのは、誰でもない自分だ。
その後も、下請け業者や他の係の社員などが次々とやってきては、「氷室主任はどこへ行ったのか」と愛子に尋ねた。愛子は皆に仕事のことを訊かれるたびに「申し訳ありません。わかりません」と頭を下げ続けた。この時点で、ようやく愛子は上司不在の大変さを実感し出した。
こんな事ではいけない、そう思った。いくら仕事がわからないと言ったって、自分はこのプレハブで一年過ごしている。昨日赴任してきた氷室に比べれば、物のありかぐらいわかっていなくてどうするのだ。
悶々としていると、作業を終えた一班が帰社した。五人の作業員たちは、夏の陽射しの中の作業で汗だくだった。
「もっと冷房きかせてくれないかな」
一番若い奥田作業員が、事務所に入ってくるなりTシャツ姿になった。室内に、むっとする異臭が漂う。いつもなら、汗臭さに耐えられずフロアの片隅あたりに避難するのだが、今日の愛子はそれどころではなかった。
「あの、奥田くん。帰ってきて早々に、申し訳ないんだけれど、ちょっと無線、代わってくれないかな。配電課まで行ってきたいの」
「え? あ、ああ、……いいっすよ」
奥田は何事かというように目を瞬いた。彼とは無線を介してしか、ほとんど口を利いたことがないので、直接声をかけられて驚いたようだった。愛子は大急ぎで本館の二階に向かった。
プレハブから出た途端に、くらりとした。午後二時過ぎ、外気温がこんなに上昇しているとは知らなかった。いつも一日中クーラーの効いた室内に閉じこもっているからだろう。こんな中で防護服に身を包み、ヘルメットを被って作業していたら、汗もかくだろう。
ほんのちょっぴりだけど、奥田たち作業員の気持ちがわかったような気がした。
本館の二階はシーンと静まり返っていた。思えば配電課のフロアに来たのは初めてだった。そっと覗くと、みなパソコンの画面に向かって仕事をしている。愛子は首を伸ばすようにして男性社員の頭越しに相良みつ子女史を探した。
相良は窓際の大きな机に陣取って設計図面を広げていた。愛子は勇気を振り絞って声をかけた。
「すみません、相良副長に用事があるのですが」
フロア中の人間が、入口にいる愛子を一斉に見た。仕事の邪魔だったかもしれない、そう思って小さくなっていると、相良は今まで見たことがないような優しい顔で愛子を手招きした。
愛子は身を縮めながらデスクの間をぬって、相良の居る窓際まで歩いて行った。思いがけず機嫌の良さそうな相良の顔にホッとしていると彼女が言った。
「さっきの書類を持ってきたんでしょう? そこのキャビネの上に置いてちょうだい」
「え……書類?」
「それ以外に用事なんて、ないでしょう?」
そう言って、相良は忙しそうに再び手元の図面をめくり始めた。
どうしよう……。
愛子は居心地悪い空気の中でじっと突っ立っていた。飯田にお願いしたように相良にも仕事を教えてもらおうなんて、虫が良すぎたのかもしれない。
心の中で後悔していると、ふいに相良が顔を上げた。
「なに? まだ、何かあるの?」
怪訝そうな相良に、愛子はダメもとで昨日飯田にお願いしたように、業務の流れを教えて欲しいと頼んでみた。
相良は一瞬大きく目を見開き、愛子を上から下まで見ていたが、コホンと咳払いをして「わかりました」と言った。彼女は愛子に空いている椅子をすすめると淡々としゃべり出した。愛子は慌てて手に持っていたノートを開いた。
「あの書類は街路樹の伐採に関するものなの。だから、工事課で大体の作業日程を記入してもらったら、営業課の官公庁担当者に流すのよ」
「街路樹の、伐採……?」
メモをとりながら首をかしげる愛子に、相良も飯田と同じく丁寧に教えてくれた。
電線に樹木が触れると断線や短絡の原因になる。そのため、配電課の人間が管轄区内を日々パトロールして、危険箇所をチェックしているのだそうだ。そして見つけた箇所を工事課の人間が処理するという流れらしい。
「一般家庭の樹木なら、家の人に承諾を得てすぐに作業するのだけれど、公園や街路樹は役所の管理下にあるから、緊急事態以外は決められた手続きをふまないといけないのよ。あなたに探してもらいたいのは、その申請書類なの」
そういえば、時折「木を切っていて蜂に刺された」などと、奥田たち若手が喚いていた事があったかもしれない。
愛子は深々と一礼して配電課のフロアを出た。今までじっと無線台に座りっぱなしで、黙々と自分に与えられた事だけをこなしていたけれども、こうして他係を覗いてみると、何だかいろいろな事に興味が湧いてきた。
「仕事って、つながっているんだ……」
一年以上OLをやっているくせに、今さらかもしれないけれど、本当に目からウロコのような感覚だった。堤が転勤してしまい、日常が変わってしまうのが嫌だったけれど、もしかしたらこれは自分にとって良い機会なのかもしれない。
階段を降りていくと、踊り場のところで話し声がした。手すりから覗くと、壁に寄りかかるようにして、飯田と総務課の桜井園子が話をしている。なんだかやけに砕けた雰囲気で、特に桜井があんなに楽しそうにしゃべっているのは初めて見た。
このまま降りていって邪魔しちゃ悪いな、と思うような空気が漂っていて、愛子は再び階段を引き返そうとした。
「あれ、おチビ。本館に来るなんて、珍しいじゃん」
気配に気付いて飯田が下から声をかけてきた。彼は桜井に「んじゃ!」と片手を上げただけで、すぐに愛子の方に寄って来た。
「来るな。飯田くんに用事は無い」
「オレがプレハブに用事あるの。ほら、早く行こうぜ」
何だか桜井に申し訳ない気がして、わざとつっけんどんに言ったが、彼のペースで軽く流された。
気になって下を覗くと、桜井はあっという間に居なくなっていた。
飯田は桜井のことなどさっさと忘れてしまった様子で「ねえねえ、『シカ』って十回言ってみて」などとまたくだらないことを言い出した。こっちが気を使っているというのに、いったい何なのだ?
「早く言ってみてよ」
少年のようなニコニコ顔で問われると、ついこちらも反応してしまう。
「う、うるさいなぁ。シカシカシカシカシカシカシカシカシカシカ」
「クリスマスにサンタが乗ってくる乗り物は?」
「トナカイでしょ」
馬鹿らしいと思いつつ、答えてしまうのも、いつものことだ。なんか、自分が情けない。
「ブブ~、サンタが乗ってるのはソリでした。やっぱおチビは単純でいいよな。桜井なんかぜんぜん引っかからないモン」
もう頭にきた!
ムッとした顔で睨んで、足をふんづけてやると、飯田は涙目で謝って言った。
「冗談だってば。おチビ、難しい顔してるから、リラックスさせてやろうと思ってさ」
愛子はハッとして自分の顔に手をやった。
「新しい主任、全然仕事しないのか?」
並んで一階の廊下を歩きながら、飯田が心配そうに尋ねた。こういう時、いつも飯田はとてもタイミングがいい。愛子はつい愚痴をこぼした。
「氷室さんじゃなくて、前任者の堤さんがさ、あたしに何も教えといてくれなかったからさ。……ってゆうかあたし、工事課の仕事、何にも知らなかったんだなって。今さら焦ってる。氷室さん、ちょっと怖いから、中に居てほしくないんだけど、彼が居ないとあたしが周りから仕事のこと訊かれちゃうんだ。だから、もっとしっかりしなきゃって」
自分の不甲斐なさにため息まで漏れてしまう。それにしても、どういうわけか飯田にはこういう事を素直に言えるから不思議だった。彼の、良く言うとフレンドリー、悪く言うと馴れ馴れしい雰囲気がそうさせるのだろうか。
「焦ることないって。おチビは容量小さいんだから、いっぺんに詰め込むとぶっ壊れるぞ」
そう言って飯田は楽しそうに笑った。マイペースの飯田につられて愛子も笑ってしまった。
「ま、何かあったらすぐオレに相談しろよ」
「うん、ありがと」
飯田に話したせいだろうか。少しだけ気分がすっきりした。
工事課に用があると言ったくせに、飯田は本館を出るなりふいっと居なくなってしまった。
プレハブに戻ると氷室が帰ってきていた。彼は切れ長の目でチラリと愛子を見ると席を立って歩いて来た。何か怒られるようなことをしたかな? と思い、気がつけば愛子は下を向いていた。
俯く愛子の鼻先に、スーパーのビニールが差し出された。
「え?」
顔を上げると、氷室は日に焼けた顔をわずかに赤らめて言った。
「これ、アイス買ってきたから、みんなに配ってくれないかな」
「え……アイス?」
氷室とアイス。何だか、ちょっと似合わない感じがする。名前的には近いんだけど。白いビニールに目を落とし、もう一度見上げると、照れたような顔がなんだか子供っぽかった。ずっしりと重い袋を受け取ると、愛子はTシャツ姿でくつろぐ作業員たちの間をまわって歩いた。
「あー、アイス嬉しいな。愛子さん、二個食ってもいいですか?」
入社四年目で愛子と同じ歳の河合が両手にアイスを握り締めて笑った。『愛子さん』などと呼ばれたのは初めてだったので、ちょっとドキリとした。
だいたい配り終えて、氷室本人に配っていなかった事を思い出した。
「氷室主任、ごちそうさまです。買ってきた当人が後回しになっちゃって、ごめんなさい」
そう言ってビニールを差し出すと、氷室はドラえもんの形のチューチューアイスを手にとってにこっと笑った。切れ長の目尻が下がって、思いがけず崩れた顔になった。
「これ、残ってて良かった。ソーダ味が美味いんだよな」
ぱくりとドラえもんアイスを口に咥えた姿を見て、愛子は思いっきりふき出していた。
日に焼けた精悍な顔の彼が、まるで悪ガキのように見える。
咎めるような目で睨まれたが、何故だかもう最初のように怖いとは思わなかった。
愛子は無線台に戻ると、氷室と同じドラえもんアイスを口に咥えた。職場でみんなと食べるアイスは、子供の頃友達とプールで食べたアイスみたいにとびっきり美味しかった。
業務終了を告げるチャイムが鳴ると、宿直のメンバーを残して皆一斉に席を立つ。工事課は現場作業がメインだから、役職が上の人間以外はデスクワークが殆ど無いのだ。愛子も無線台の上を片付けて席を立とうとした。
「はあ……」
横で氷室が小さくため息をつくのが聞こえた。振り返ると、彼と目が合ってしまった。氷室はうろたえたように咳払いをすると、背後のキャビネットを引っ掻き回し始めた。重なっていた書類を引っ張り出した途端に山が崩れてファイルが数冊床に散らばった。
「あの……手伝いましょうか?」
なんだか帰りづらくなってしまった。勇気を振り絞って声をかけると、彼はつり目を大きく見開いて言った。
「時間外だけど、いいんですか?」
「あ……はい」
「あの……とても助かります」
氷室は丁寧に頭を下げた。愛子はちょっと困ってしまった。自分にできる事など、たかが知れているのに。
前任者の堤は、愛子に全く仕事を触らせなかった。彼は仕事用のキャビネットのキーを全て自分で管理していたので、主任席の後ろに何が収納されているのか、誰も知らなかった。もちろん、愛子も。
「書類のある場所が、よくわからないんです。それから、パソコン……」
そう言って氷室は堤からもらった引継ぎ書をあてども無くめくった。
自分もわからないのだ、と言おうとしたとき、氷室が顔を上げて愛子をじっと見た。
「上田さんならきっとそういうこと良く知っているんじゃないかと思って、手伝ってもらえて、とてもありがたいです」
ホッとしたような顔で言われてしまい、愛子は引きつった笑顔になった。
やはり使えない自分は、帰るべきではないのか? と思い、周囲を見ると、同僚たちがぞろぞろとフロアを出てゆくのが目に付いた。皆、二人を見て見ぬふりで帰ってゆく。さっきまで活気に満ちていた 事務所内が、あっという間に静かになった。
引継ぎ書を見ながら、パソコン画面を懸命に操作する氷室の後ろで、愛子は散らかった書類を戻していた。
事務所内の静けさが気になり、何かしゃべらなくてはいけないと思ってしまう。声をかけようと振り返って、愛子は口をつぐんでしまった。
斜め後ろ四十五度から見た氷室の横顔を目で辿る。整った鼻梁から意志の強そうな口元、すっきりとシャープなあごのライン。伸びはじめた髭はワイルドな印象こそあれ、決して不潔ではなくて……。
愛子を怖がらせたつり上がり気味の瞳は、パソコンの青い画面を受けて外国人のようにグレーに光っている。愛子は暫く見つめていたが、我に返ると無言で作業に戻った。
キャビネットの中に、昼間相良女史から依頼された書類を発見したのは収穫だったが、せっかく残ったけれど、あまり役には立たなかった。
一時間ほど二人でどこに何が入っているのか確認したあと、もう帰るように言われてしまった。
「あの……お役に立てず、すみません」
小声で言って自席のバッグを取りに行くと、氷室が追いかけてきた。
「上田さん!」
立ち止まった愛子に、氷室は思いがけない事を言った。
「僕のこと、怖いですか?」
「え?」
何事かと振り返って見上げると、彼は真面目な顔をしていた。
態度に出てしまっていたのだろうか。愛子はうろたえて彼の顔から目を逸らした。逸らした目線の遥か彼方、例の応接セットで、宿直の作業員たちがテレビを見ながら夕食を食べているのが見えた。
愛子は上目遣いで氷室の顔を見上げた。彼は口をへの字に引き結んで、頭を掻いている。最初は確かに怖かった。目つきが鋭くて、睨まれているような印象だったから。でも今はちょっと違う。そう、言いたかったが、急な事で言葉が出てこなかった。
「へんな事聞いて、ごめん……。明日は、申し訳ないけど、中の仕事するから」
黙っている愛子に、氷室はバツが悪そうな顔で小さく言うとくるりと背を向けて自席に戻って行った。
プレハブを出て、本館の女子更衣室に駆け込んだ瞬間、氷室の言葉の意味を理解した。
――明日は、申し訳ないけど、中の仕事するから
「申し訳ないけど」って……氷室主任、今までわざと外に出ていたとか?
怖がっていると思って、なるべく席を外していたのだろうか? そう考えると、こちらこそ申し訳ない気持ちになった。
明日からは、もっと積極的に声をかけてみよう、そう思って氷室の顔を思い浮かべた途端に、愛子の心臓がトクンと跳ねた。
なに……?
愛子は更衣室の姿見に、自分の顔を映した。作業着姿の女の子は、鏡の中で真っ赤になっていた。
社員通用口から外に出ると、辺りは真っ暗だった。昼間の暑さは影を潜め、心地良い夜風が愛子の髪を揺らした。
残業なんて、久しぶりだった。本館の建物を見上げて暫く佇んでいると、背の高い男性が通用口から出てきた。
男性は満面の笑みで愛子に声をかけてきた。
「よお、おチビ! こんな時間に珍しいじゃないか。一緒に帰ろうぜ」
飯田は会社員とも思えないラフなスタイルだった。白いTシャツにダメージ加工のジーンズで、上からふわりと黒っぽい綿シャツを羽織っている。どこかだらしない、そんなファッションでも、飯田がするとまるでグラビアモデルのように良く似合うから不思議だった。
並んで歩き出したとき、遊歩道の先で女性が立ち止まっているのが見えた。
「あ、桜井先輩?」
愛子が声をかけた瞬間、聞き間違いだろうか? 飯田が小さく舌打ちするのが聞こえた。
「桜井先輩、今帰りですか? あたしも……」
言いかけて愛子は口をつぐんだ。飯田に腕をつかまれ、そのままぐいと引っぱられた。飯田は愛子を抱え込むようにして耳元で囁いた。
「お前は何も言うな。いいな」
「へ?」
意味がわからず固まっていると、桜井園子が近づいてきた。カツカツとヒールの音が夜の帳に吸い込まれる。
「二人で仲良くデート?」
桜井はにこやかに声をかけてきたが、微妙に上ずって聞こえた。ちらと飯田を見上げると、彼はへらりと笑って言った。
「うん、まあね。デートって言うか、同期会なんだ。入社一周年記念ってことで」
愛子は目を瞬かせた。同期会とは、いったい何の事やら全くわからない。
絶句していると、飯田はますます愛子の腕を引き寄せて、まるで肩を抱くような体勢をとった。どうでもいいけど、ちょっと接近しすぎだ。愛子は逃れようと、懸命に体をよじった。
「そう、同期だったよね、二人は」桜井の声は妙に低かった。
「駅まで一緒に帰る?」
飯田が言うと、桜井はかぶりを振った。サラサラの黒髪が街路灯の灯りで艶やかに光る。
愛子はドキリとした。今、確かに凄い目つきで睨まれた気がする。
飯田のかげで小さくなっていると、桜井はいつもどおりの丁寧な仕草で二人に向かって「おつかれさま」と頭を下げた。ふわりと香水が香る。
彼女は踵を返すと、ほの暗い遊歩道を小走りに去っていった。
桜井の姿が闇にまぎれて見えなくなると、飯田は「はー」と大きく息を吐いた。なんか、事情がわかってしまった気がした。
「飯田くん、桜井さんに何かしたの?」
問いかけたが、彼はぺろりと舌を出しただけで、何も言わなかった。飯田は気さくだしオシャレだから、女子社員の間では人気だが、反面、プレイボーイぶりは男子社員から非難されていることを、男性職場の愛子は良く知っていた。男女の事にとやかく言うほどお子様ではないから、愛子は今まで飯田の事を色眼鏡で見た事は一度も無い。けれども、さっきの態度は何だか許せない気がした。総務課の桜井園子は、事業所の女子の中では親しい方だった。年齢は飯田と同じで三つ年上だが、とても落ち着いているし、物腰も柔らかなので、比較的しゃべり易かった。工事課の若手の中でも彼女に密かな思いを寄せている者は多い。
その彼女に対して、飯田は遊び半分で何かしたに違いないと思うと、嫌悪感が込み上げてきた。
まだつかまれたままの腕をもぎ離し、愛子は怒鳴った。
「飯田くん、いいかげんにしないと、許さないからね!」
いきなり怒り出した愛子に、飯田は驚いたような顔を向けていたが、何も言い返さずただ立っているだけだった。
愛子は彼の脇をすり抜けると、全速力で走った。飯田の呼ぶ声が聞こえたが、無視した。
公園を突っ切りつつじの植え込みを飛び越えて駅まで走り続けた。何だか、胸の中がいつまでももやもやしていた。
翌日、いつも現れる時間帯に飯田は来なかった。代わりに料金課の新入社員の男子が書類を置いていった。飯田はなんだかんだと理由をつけて仕事をさぼりながら三十分以上居る事が多かったので、今朝は妙に時間を持て余してしまう。一人ならまだしも、今日は氷室が在席しており、何かしていないと逆に息が詰まりそうだ。
息が、というより胸が……。
昨日から変だった。氷室を意識すると体温が二度ぐらい上昇するような気がする。
「さあ、仕事仕事!」
気合を入れ直し、飯田に教わった仕事の流れに沿って書類をチェックしていると、氷室に呼ばれた。
「上田さん、所内メールで連絡事項が来てますので、見ておいてください」
せっかく気合を入れ直したのに、名前を呼ばれただけで再び動悸がしてきた。
どうなっちゃったんだろう……あたし。
胸の辺りを押さえつつ、空き机に設置されたパソコンを覗き込んだ。
愛子に関係する連絡は殆ど無かった。強いて言えば乾燥室の扉が壊れて、一旦閉まると中から開かなくなりますので要注意、という文書ぐらいだろうか。愛子より、工事課の作業員たちのほうが困るだろうと思った。彼らは汗掻いたシャツを自分で洗濯しているからだ。特に独身者は会社にある洗濯機をしょっちゅう使用している。愛子の場合は、乾燥室など夕方一回、布巾を干しに行く程度だからあまり関係ない。それにあそこはいい環境ではないし。乾燥室をサウナと勘違いして中で筋トレをやったりするバカが居るから、いつも匂いがこもって臭いのだ。
そういえば、氷室も昨日洗濯機でTシャツを洗っていたっけ。顔に似合わぬ赤で、小さな花模様がひとつプリントされていた。自分で洗濯するという事は、彼はやっぱり独身なのだろうか。一番知りたい事を誰にも訊けないのは、どうにも歯がゆい。総務課の桜井なら知っているだろうけど、昨夜妙な事になってしまい、今日はまだ顔を合わせていなかった。
それにしても、飯田はいったい桜井園子に何をしたのだろう? あらぬ想像が頭の中でぐるぐるする。自慢じゃないが、愛子は男性経験が皆無だった。二人姉妹の長女で、私立の女子高、短大を経て帝都電力に入社したのだ。配属先が、男性ばかりのこの飯場のような工事課だった為、プレハブに漂う男性の体臭や、上半身裸の姿を目にしたときは眩暈がした。二つ年下の妹にまで「お姉ちゃん、いつになったら彼氏連れてくるの?」とバカにされているほど、愛子はオクテだった。
ぼけっとしていたところを、無線が入って現実に引き戻された。
『こちら帝都四、感ありましたらどうぞ』
愛子は無線台に走った。雑音と共に、複数の人間の声が混じって聞こえる。音声をクリアにしようと、スケルチ・ダイアルをひねった途端、再び怒鳴るような無線が入った。
『こちら帝都四、感ありますか!』
何だかいつもと違う感じがした。チラリと作業予定表に目を走らせると、四班は活線作業中だった。
活線作業とは、電気を流したままする工事のことだ。停電しなくて良いので、お客様にとってはありがたいが、作業員は感電死亡事故の危険にさらされる、リスクの高い作業方法だ。
「こちら帝都K、帝都四、どうしました?」
『えー、活線作業中防護管が落下、奥田作業員が負傷しました。現在手当て中ですが、作業員が不足です。応援要請です』
大変な事になってしまった。氷室に報告しようとすると、彼はもう背後で無線を聞いていた。
「上田さん、一番近い五班を行かせてください。ぼくもすぐ現場に向かいます」
「あ……主任、行っちゃうんですか?」
今日は佐々木工事長もお休みで、氷室が出てしまうと事務所内には愛子しか居なくなってしまう。何とか引きとめようと試みるのだが……。
「あの、五班の穴埋めは?」
「あとで連絡しますので、無線から離れないでください」
言うなり氷室はヘルメットを被って飛び出してしまった。ケガをしたという奥田の事が心配だったが、それ以上に一人になってしまうのが初めてで不安が募る。こういうときに限って、二つも三つも悪事が重なったりするのだが。そうならない事を祈りつつ、愛子は無線台のマイクを握り締めた。
待つ事数十分。ぽつりぽつりと連絡が入り、ようやく事態が明らかになってきた。高所作業車のバケットに乗って、電線に防護管を取り付けていたところ、強風に煽られて持っていた管が落下。下で指示を出していた奥田に当たったらしい。防護管というのは、絶縁素材で出来た長さ二・五メートルほどの筒だ。工事現場などでクレーンのアームが電線に触れても感電しないように、保護するための電線カバーである。
奥田は救急車で病院に運ばれたらしいが、命に別状はないとのことだった。
「感電事故じゃなくて良かった」
愛子はホッと胸を撫で下ろした。ここがいかに危険な職場かという事を、再認識させるような事故だった。
上に知らせが行ったらしく、事業所の所長が現れた。総務課長と配電課長まで従えている。所長がプレハブに姿を見せたのは愛子の知る限り初めての事だった。
所長はがらんとした事務所内を見やると愛子の方に歩いて来た。
「一人かね?」
呻るように問われて、愛子の背筋がピンと伸びた。
「こ、工事長は、休暇です。主任は事故の知らせを聞いて、現場に向かいました」
「うむ、氷室くんからは携帯で私が連絡を受けている」
禿げ頭の配電課長が頷いた。三人は何しに来たのだろう。誰も居ないのに。
「あの、ご覧のとおり、誰も居ないんです」
帰ってほしくてちょっと大きめの声で言ったが、三人は愛子を無視するように手近の椅子に座ってしまった。
お茶ぐらい、出したほうがいいのかな?
無線台を離れるわけにもいかず、チラチラと彼らを盗み見ていると、総務課長の言葉が耳に飛び込んで来た。
「やっぱり、安全祈願はするべきでしょう」
「うむ、しかし所内全体でなくてもいいんじゃないかな。予算も掛かるし、業務に支障をきたす」所長の低い声。
安全祈願って、何だろう?
「彼だけ行かせたらどうですか? だって、彼が来た途端ですよ。無事故無災害記録がストップしてしまったのは」
配電課長が吐き捨てるように言うと、総務課長が苦笑いした。
「疫病神って居るんでしょうかね? まあ、奥田くんは大したことがなかったみたいでしたけれど、S工務事務所、I支社と、彼が行くたびに人身事故ですからね。ちょっと、偶然にしては嫌ですよね」
「彼」とは氷室の事だろう。それにしても、疫病神とはひどすぎる。明らかに彼とは関係ないだろう。だって事故が起きた時、氷室はこの事務所に居たのだから。何だかむかついてきた。咳払いを繰り返していると、彼ら三人はようやく立ち上がって事務所を出て行った。
塩撒いてやろか!
「氷室さんは、疫病神なんかじゃないわよ!」
閉まったドアに向かって愛子は怒鳴った。何故だか、自分のこと以上に腹が立った。怒鳴るだけじゃおさまらず、愛子は無線台を離れて給湯室に走って行った。
本当に塩を撒いてやる!
流し台の下や戸棚の中を散々探して、ようやくあら塩の袋を引っ張り出した。七百グラム入りの袋を手にプレハブの外へ行き、建物の周り中に塩を撒き散らした。相撲取りがするように、手のひらいっぱい塩をつかみ出しては乾いたアスファルトの上に叩きつける。そうやって一袋撒いてしまうと、ようやく気分がすっきりした。
ふと振り仰ぐと、夏の空は雲ひとつ無く、どこまでもただ青かった。今しがたの自分が、何だか気違いじみていたな、と少し反省した。何であんなに嫌な気持ちになってしまったのか、良くわからなかった。
汗ばんだ額を、ぬるい風が撫でてゆく。愛子は空になったビニールを手に事務所に引っ込んだ。
昼を回って作業員たちが次々と帰社したが、氷室はなかなか戻って来なかった。作業員たちの間にも事故のことが知らされていたので、愛子は訊かれるたびに「奥田は大丈夫だ」と説明した。
事故があった四班と共に奥田も氷室も帰って来た。奥田は首に大きなドーナツ型のサポーターのようなものをはめていた。よくムチウチの人がしているやつだ。
皆に混じって奥田を囲んで具合を尋ねていると、名前を呼ばれた。氷室が怖い顔で立っている。
何だろう……?
彼は愛子を無線台の有る事務所の窓際に連れて行くと、低い声で言った。
「無線、離れてなかった?」
「え……」
「急な作業が入って、何度か連絡したんだけど、出なかったね」
冷ややかな声で言われ、ギクリとした。さっき塩を撒いていたときかもしれない。絶対に、そうだ。それ以外はちゃんと所内に居たのだから。
「あの、あたし……」
「こんな時だからこそ、居てくれなきゃ困るじゃないか。きちんと仕事、してください」
氷室はいらついたように言って、自席に戻って行った。愛子は何も言えずに唇を噛んだ。
なんで……?
誰の為に塩撒いたかわかりゃしない。きちんと仕事をしろだなんて、一生懸命やっているのに、あんまりだと思った。
愛子は一礼すると「ちょっと席外します!」と言って布巾をつかみプレハブを出た。氷室の刺すような眼差しと、冷たい言い方を思い出して涙が出てきた。
駐車場で現場に出ようとしている飯田と会ってしまったが、彼は声をかけてこなかった。愛子は泣き顔を見られないように布巾で隠しながら本館の裏手の乾燥室に走って行った。
とにかく一人になりたかった。
冷たく言われてようやく自覚した。自分は氷室が好きなのだ。たぶん、初めて会った日から。こんなに誰かが気になった事はなかったと思う。怖いとか、冷たいとか言いながら、会った日から彼ばかり見ていたことに気付いた。上司を好きになるなんて、それだけで気まずいのに、完全に使えない部下だと知れてしまった。
「もう、やだ……」
あとからあとから涙が出てきて、手にしていた布巾がぐしょぐしょになってしまった。きっと顔も化粧が落ちてぼろぼろだから、更衣室で直さなきゃいけない。でも、本館に入る前に、泣き止まなくっちゃ。誰に見られないとも限らない。
乾燥室のドアに寄りかかって懸命に涙を拭っていると、カツカツと渇いたヒールの音が近付いてきた。愛子は慌てて乾燥室の中に入った。
室内は八畳ほどのスペースで、工事課のメンバーが干したTシャツや作業着が洗濯ロープでたくさんぶら下がっている。愛子は隅の方に駆け込んで、洗濯物の影に身を潜めた。
ドアを開けて入ってきたのは桜井園子だった。彼女は手に布巾を持っている。愛子と同じように洗ったそれを干しに来たのだろう。
愛子はホッとして一歩、二歩と踏み出した。
桜井は愛子に気付いたようだった。唇の端を上げて、ニッと笑ったように見えたので、愛子は声をかけた。
「あの……」
桜井はプイと顔を背けると、靴音も高らかに乾燥室を出て行った。
「え?」
バタンとドアが閉まり、白い日光が遮られた。室内は乾燥室特有のオレンジ色の光で満たされた。密閉された空間で、生乾きの洗濯物の臭いが急に鼻についた。
愛子はゆっくりとドアに近付いてノブを回した。ノブは何の抵抗もなくただくるくると軽く回っただけだった。
まずい……!
今朝の所内メールが頭をよぎる。
【乾燥室の扉が壊れて、一旦閉まると中から開かなくなりますので要注意】
愛子はノブをつかんで押してみた。ドアは気密性を保つ為に鉄扉になっているのでビクともしない。
「桜井さん、桜井さん! 開けてください!」
ドンドンと叩き続ける。時折休んで外の様子を伺うが、まったく誰の気配もなかった。
「誰か、居ませんか?」
しばらくドアを叩いていたが、手が痛くなってきた。愛子は何か無いかと乾燥室内を見回したが、ロープにつられた衣類以外、とくにドアをこじ開けられるような工具も見当たらない。携帯電話も机の引き出しに入れっぱなしで外部と連絡をとる手段は無かった。
汗の浮いた額を拭って、愛子はずるずると座り込んだ。暑さにくらくらする。乾燥室は本館の裏手で、ここに用事のある者でない限り立ち寄らない場所だ。工事課の現場作業員は全員帰社しており、干されたばかりの洗濯物を見る限り、もう夕方まで誰も来ない可能性が強かった。下手をすれば、当直の人間が入浴してタオルでも干しに来ない限り誰もここには用がないかもしれない。
どうしよう!
ドアの横の壁に、膝を抱えて寄りかかった。オレンジ色の光が当たらない場所でも、暑さは変わらない。
「干からびちゃうよ……」
考えると余計に喉が渇いてきた。水分補給できないのに、汗がやたらと吹き出す。
どうして桜井はこんな事をしたのだろう。気付いていなかった筈がない。確かに目が合ったのだから。考えられる事はただ一つだ。昨日の彼女の目つきが全てを語っている気がした。
「もう、何なのよ! 飯田のバカヤロウ!」
不安な気持ちを誤魔化すように、愛子はぶつぶつと飯田を罵りまくった。
いったいどれくらいの時間が経ったのか、見当もつかない。愛子はぼんやりする視界でぶら下がった洗濯物を見つめていた。
洗濯物が真上に見えるって事は、あたし、寝っ転がっちゃってるんだ……。
のどがからからに渇き、体がやけに熱かった。まるで砂漠に居るような気分だった。とは言っても、砂漠に行ったことなどないんだけれど。起き上がろうとするのだが、何だか力が入らない。目だけで見回すと、斜め上に氷室の赤いTシャツがあった。
何で誰も探してくれないのかな?
愛子はハンガーにぶら下がったTシャツをじっと見つめた。オレンジの光の中、まるで夕日みたいにキレイな赤色。
氷室さん、あたしが消えた事なんか、ぜんぜん気付いてないんだな。そりゃそうか……。だってあたし、使えない部下だもんね。工事課のお荷物だし、きっと居ても居なくても同じだから、あたしが居なくても誰も困らないわけだ。ははは……なんか、こういうの、昔あった気がする。かくれんぼで一生懸命隠れてたら誰も見つけに来なくて、日が暮れちゃって、妹がお母さんと二人で探しに来たんだよね。夕焼けの公園で、誰もいなくなって。それでも一人、今みたいに遊具のトンネルの中に寝そべって。丸い穴から見える夕日がやけに赤くて……。ああ、あれはマジ、悲しかったかも。
それにしても、なんでこんなに力が入らないの? 目蓋も自由にならないなんて、真っ暗じゃん……。
遠くで氷室さんの声がするけど、多分気のせいだね。だって、あたし、要らない部下だもん……。要らないから、辞めようかな、会社。退職金幾ら出るのかな? 桜井さんなら知ってるかな? あ、でも桜井さん、あたしのこと嫌いなんだっけ。なんか、寂しいな。……って、ちょっともういいかげんにしないと、目の前真っ暗だし。誰か、明るくしてください、お願い。電力会社なんだから、電気つけてください……。
額がひやっとして、愛子は目が覚めた。
「ああ、良かった。気がつかなかったら、救急車呼ぼうかと思ってたんだ」
「氷室……さん?」
間近に氷室の心配そうな顔があった。愛子はゆっくりと手を上げて、自分の額に触れた。濡れタオルが乗せてあった。起き上がろうとすると、止められた。
「横になっていたほうがいいよ。今何か飲み物を持ってくるから」
そう言って、氷室が視界から消えた。愛子は横たわったまま辺りを見回した。工事課のソファに寝かされているようだった。壁の時計は午後七時を指している。事務所内には誰も居なかった。宿直者も居ないという事は、現場作業に出ているのだろう。愛子はゆっくりと起き上がった。頭が割れるように痛む。乾燥室で閉じ込められて意識不明で発見されたのだと理解した。何だか間抜けで情けなかった。
ふと気がつくと、Tシャツが変わっている。赤に花柄が一つ。ぶかぶかのサイズは男物だ。
ぼんやりしていた頭が、急にクリアになった。
赤いTシャツの胸元を握り締めて固まっていると、スポーツドリンクを手にした氷室が戻って来た。
「起き上がって大丈夫なの?」
労るような彼の声など、愛子の耳には入らなかった。
「氷室さん……。これ、これは、あなたが?」
Tシャツを引っ張って喚く愛子に、氷室はちょっと驚いたような顔をしたが、大きく頷くと言った。
「それ、僕のだよ。酷い汗だったから取り替えたほうが……」
愛子は氷室の頬に思いっきり平手打ちしていた。肌を打つ乾いた音が、事務所内に有り得ないくらい大きな音で響き渡った。
「ばかっ!」
ひと声叫ぶと、愛子は自席のカバンをつかんで事務所を飛び出した。
信じられない! 見られたんだ!
みっともなく倒れているところだけでなく、裸まで!
「もう、サイテー!」
だぶだぶの赤いTシャツと作業ズボンのままだというのに、貴重品の入ったカバンだけを持って、愛子は逃げるように家に帰った。