最終話
翌日の午後、愛子は退院した。
母親と共に正面玄関に出ると、帝都電力のロゴ入りのバンが横付けされた。
「うそ!」愛子は驚いてしまった。
運転席に氷室がおり、助手席から工事長が手を振っていた。
「愛ちゃん、会社の人がお出迎えしてくれるなんて、あんた、可愛がられてるのねぇ」
母親は単純に感激しているが、そんなはずがない。愛子は眉根を寄せた。
お出迎えの理由は、後部座席に乗り込んだ途端にわかった。
「ええ? 自殺未遂?」愛子の母親が絶句した。
佐々木工事長が助手席から身を乗り出すようにしてしゃべり出した。どうやら、桜井園子が会社の上司に本当のことを話したらしい。
「このことは、ごく一部の関係者だけの秘密になっています。まあ、桜井さんも事件を起こしたとはいえ被害者ですからね。騙される方が悪いとはいえ、本人も深く傷つき、また、反省もしていますから、どうか穏便に」
顔をくしゃくしゃにして涙を流していた桜井を思い出して、愛子は気の毒に思った。心の痛みなんて、結局当人にしかわからないのだ。桜井のことも、そして氷室のことも。
「上田さん、本当によくやったね。桜井さんのご両親が、そのうちお礼に伺うと言ってました。所長も明日ご挨拶に伺いますから」
工事長の褒め言葉は、なんだか愛子を居心地悪くさせた。ふと前を見ると、バックミラー越しに運転する氷室と目が合った。桜井に口止めされていたとはいえ、本当のことを言わなかったから、なんとなく気まずい。工事長と母親がやかましくしゃべるそばで、愛子は俯いて小さくなっていた。
久しぶりに自分のベッドで睡眠をとり、すっかり寝坊してしまった。慌てて枕元の目覚ましを見てから思い出した。あと数日は自宅療養だから、会社に行かなくてもいいのだった。すっかり会社人間の体質になっているな、と愛子は苦笑した。
Tシャツとジャージに着替えて階下に降りてゆくと、祖母がキッチンで洗い物をしていた。
「愛ちゃん、おはよう。ごはんできてるわよ」
「おばあちゃん、お母さんは?」
「今日はお父さんと優子と三人で出かけたわよ。優子の受験する大学を見に行くんですって」
「大学って? あたしと同じ、短大じゃないの?」
祖母は「知らない」というように首をかしげた。
妹は高校三年生だ。成績も悪くないから、愛子と同じ女子短大ならば、何の問題もなく入れるだろうに。姉と同じ道を辿るのが嫌なのだろうか? まあ、姉のこんな姿を見れば、彼女の気持ちもわからないでもないが。
「そっか、誰もいないのか……」
入院のせいで、生活のリズムが乱れている。今日は何曜日かな? などと考えながらテレビのスイッチを入れようとすると、来客を告げるチャイムが鳴った。
「こんにちは!」
インターフォンから明るい女性の声がして、愛子はビクンとした。
「さ、桜井さん?」
玄関に桜井園子が立っていた。左手に大きな包みを抱えている。彼女は半袖ブラウスの下から覗いている、包帯ぐるぐる巻きの右手を見せて言った。
「すみません、これ、受け取ってもらえる?」
ぼうっとしていた愛子は、言われてようやく動き出した。彼女の左腕から大きな菓子折りを引き抜くようにして受け取った。
「あの、先日は大変ご迷惑をお掛けしました」
そう言ってぺこりと頭を下げた桜井の背後で、背の高い男性が嫌そうな顔をしている。
「な、なんで? 飯田くん……?」
飯田は顔をしかめて長い前髪をかきあげた。
リビングに通された二人は、ちょっと隙間を開けてソファに座っていた。
「よかったわ、上田さん。思ったよりずっと元気そう」
桜井は品の良い笑みを浮かべて言った。
「桜井さんこそ。大丈夫なんですか? 包帯ぐるぐるで、右手動かないでしょう?」
「ああ、うん。肩からいっちゃってるから。伸ばしたままで二箇所、ボルトで固定してるの。でもね、おかげさまで一週間後から会社に行けるわ。同時にリハビリも始めるの」
「リハビリで元通りになるのよ」と彼女はなんでもなかったように笑った。
複雑骨折でも、そんなに早く社会復帰出来るのかと驚いてしまう。でも良く考えたら、愛子だって手術の翌日には、自分で歩いてトイレに行くように言われてしまったのだから、人間の体ってすごいと思う。
「おチビはいつから復帰?」
それまで黙っていた飯田が口を開いた。
「あ、ああ、あたしも一週間後から」
ソファに並ぶ二人を交互に見ていたせいだろう。桜井が頬を赤らめながら言った。
「あ、今日は無理矢理飯田くんに連れてきてもらったの。私、上田さんの家知らなかったから、彼に尋ねたのよ。そしたら親切に連れてきてくれて……」
「オレのアパートの前で、タクシー運転手とケンカしてやがったじゃねぇか」
飯田が嫌そうに言う。
「あ、あれは、あの運転手が悪いのよ。おつりをちゃんと渡してくれないから。だって、あたしはこのとおり右腕が使えないのよ。それをあのオヤジったら……」
「何もみぞに落ちた十円玉まで拾わせなくても……」
「だって、もったいないじゃない。あたしはお金が無いのよ。三百万も騙し取られて」
「あ、あの~」
ともすると、夫婦漫才のような飯田と桜井に毒気を抜かれ、愛子はおずおずと声をかける。とにかく桜井が元気なことだけは、よーくわかった。
「桜井さん、そういえば退職願は?」
職場復帰と聞いて、気になっていたことを尋ねると、彼女は大きく頷いて言った。
「あれ、まだ処理されていなかったから、課長に捨ててもらったの。うちの課長、いつも仕事が遅くてイライラしたけど、今回だけは助かった」
桜井はケロリとしている。そんな彼女を見て、飯田がたしなめた。
「おいおい、自分の上司に対してそれはないだろう。職場復帰したら、きちんと謝れよな。メーワクかけてんだから」
「わかってるわよぉ。飯田くんに言われなくても、そのくらい」
飯田に向かってぷうと膨れる桜井を見て、愛子はホッとした。どうやら結婚詐欺事件のショックが薄れるのも時間の問題のようだ。
「休みの間退屈だから、また来るね」
そう言って、桜井は飯田に引きずられながら帰って行った。
愛子は少々疲れた笑顔で見送った。勝手に来て、勝手にしゃべっている桜井に、完全に圧倒された。さっきだって、飯田が「帰らないと置いていくぞ」と脅さなければ、あと三時間ぐらい、詐欺師の彼氏のグチをしゃべり続けていたに違いない。
それでも、桜井と飯田の顔を見たせいか、早く会社に行きたくなってきた。
「会社なんて大嫌いだったのに、不思議だね」
テレビの前でお茶を飲んでいる祖母に言うと、笑って返された。
「学校だって会社だって、人間関係が円満ならば、これ以上の幸せはないのよ。愛ちゃん」
*
退院後、一週間の自宅療養ののち、愛子は職場復帰した。
せっかく単独運転の認定をとったのに、大型免許取得も先延ばしだ。しばらくは今までどおりの扱いになってしまう。少々不満ではあるが、仕方がない。
始業のチャイムが鳴ると、愛子はヘッドセットマイクを装着した。
「上田さん、役職者会議、行ってきますね」
愛子に声をかけて、工事長がプレハブの事務所を出て行った。
シンとなった事務室内には愛子と氷室が取り残された。退院後、氷室は何度か見舞いに来てくれたが、必ず職場のメンバーと一緒だったので、あれ以来個人的に話をするチャンスは無かった。
つらい過去を打ち明けてくれて、愛子を本気で心配してくれた氷室。自分の勘違いかもしれないけれど、もしかしたら彼に対する思いを諦めるのはまだ早いのかもしれない、とそんなふうに思えてきた。
ぼんやりしていると無線が入った。スイッチを押して応答する。
「帝都一、感あり、どうぞ」
感度良好だ。久しぶりの無線は緊張する。
『出向準備完了です、どうぞ』
「了解です。気をつけて作業願います。帝都K以上」
スイッチを切ろうとすると、北さんのだみ声が聞こえてきた。
『こちら帝都一、ねえちゃん、今度柱登るときは、安全帯ロープとヘルメットを装着しろよな! 帝都一、以上』
「ちょっと、これ、無線だよ!」
愛子の抗議を無視して、豪快な笑い声と共に無線が切れた。
ククッと笑い声が聞こえて、振り向くと氷室が顔を真っ赤にしていた。
「主任、ひどいよ。笑いすぎです!」
怒る愛子のそばに歩いてくると、氷室はこの上もなく優しい目で彼女を見下ろして言った。
「職場復帰、おめでとう」
「あ、ありがとございます」
急にそんなことを言われるとは思わなかったので、愛子はうろたえた。
氷室は愛子の手をとって席から立ち上がるように促した。
「来て」と言われ、プレハブの外へと導かれた。ドアを開けると、眩しい陽射しが差し込んだ。途端に駐車場から歓声が上がる。
「な、なに?」愛子は目を瞬かせた。
駐車場の真ん中に、高所作業車が一台出ている。アームを伸ばしたバケットの上から奥田と河合が手を振っていた。
「おーい!」
愛子の背後で氷室が手を振ると、バケットからはらりと白い布が落下した。
「あ!」
それは大きな垂れ幕だった。
【上田愛子さん、職場復帰おめでとう! 工事課一同】
朱色の文字で、書かれたそれを見て、愛子はぽかんと口を開けた。
バケットの上から河合の声がする。
「ほら、やっぱり引いちゃったじゃないか。 奥田、お前のせいだぞ。だからこんな学芸会みてぇなこと、やめようって言ったじゃないか!」
「だって~。河合さんだって、ノリノリだったじゃないっすか?」
言い返した奥田のヘルメットを、河合がげんこつで殴りつけた。パカン! と、気持ちのよい音が響いた。
あっけに取られている愛子に、となりで氷室が囁いた。
「まあ、あんな幼稚なことしてるけど、あれがやつらの……いや、俺も含めた工事課一同の気持ちだから。何か、ひとこと言ってやって」
氷室の言葉を聞きながら、揺れる朱色の文字を目で追っているうちに、思わず目頭が熱くなった。
「みんな……、どうもありがとう」
深く一礼した途端に、涙がはたりとこぼれて足元のアスファルトを濡らした。顔を上げ、涙を拭いて、愛子は思う。
――あたしの居場所は、ここだ。
感激して涙ぐんでいると、悪ノリした奥田が、奇声を発しながら紙吹雪をばら撒きはじめた。
「あの、馬鹿。やりすぎだ!」
氷室が舌打ちして怒鳴りながら走って行った。その様子がおかしくて、愛子は自然に泣き顔から笑顔になっていた。
「おいおい、すげぇな。まるで親分がシャバに帰って来たみたいなノリだな」
いつもの書類を持って、飯田がやってきた。彼は書類の他に、総務課と書かれたダンボールを持っている。
愛子は彼に尋ねた。
「何? その荷物」
「ああ、これ? おチビにって、桜井から頼まれた。ジャストサイズの作業服だってさ」
「え、あたしの? 桜井さん、サイズ変更のこと、忘れてなかったんだ」
ダンボールを受け取ろうとして、愛子は胸を押さえた。飯田が舌打ちする。
「ちっ、どいつもこいつも故障中で困るな。桜井なんか、人の顔見るたびに用事押し付けて。文句言えば包帯の右腕ちらつかせてさ。あんなにイイ性格だとは知らなかった。アイツは水戸黄門か。こっちはスケさんじゃねぇっつーの」
クス……と愛子は笑ってしまった。なんだかんだ言いながらも、飯田の表情は楽しそうだ。元々おせっかいな男だから、使われるくらいでちょうどいいのかもしれない。
「園子お嬢さまに、『下僕』って呼ばれないだけ、まだマシじゃない?」
いつもの調子で軽口を叩くと、彼は愛子の頭にポンと手をのせて言った。
「おチビのくせに、言うねぇ。それにしても、すっかりお前も工事課に溶け込んだな」
「え?」
見上げると、頭にのった彼の手が愛子の髪をくしゃっとひと撫でして離れていった。
「もうオレがかまってやらなくても、ひとりでいじけたりしないよな?」
「なにそれ、どういう意味?」
よくわからなくてつっかかるように言うと、「ははは」と笑って誤魔化されてしまった。
賑わう駐車場に爽やかな風が吹き抜けた。気がつけば入道雲は見当たらず、空はどこまでも高くて秋の色に変わろうとしている。
愛子は青空の下に佇み、現場作業へ出向してゆく作業車を見送った。
「さ、上田さん、飯田くん。仕事しましょう!」
戻ってきた氷室が、日に焼けた顔で二人にはっぱをかける。
「ハイ、主任!」
「へーい、わかりました」
作業着姿の三人は、そろってプレハブに消えた。(了)
長い物語におつきあいくださいました方、どうもありがとうございました。
これで完結です。いかがでしたでしょうか?
素人ゆえに、文章も多々読みにくいところがあったかと思います。大変失礼いたしました。
よかった、だめだった、など、何でもよいので感想をいただけるとありがたいです。もしも好評であれば、飯田のいる料金課を舞台にした話を公開したいと思ってます。
*なお、この話はフィクションです。登場する人物、企業・システムなどは架空のものです。