氷室の過去
翌日は配電課の相良みつ子が見舞いに来てくれた。電気工事士の資格試験問題集が彼女の手土産だった。まったく相良らしいと思った。彼女が来てすぐに事業所の長である所長と、愛子の部署の責任者の工事長がそろって現れた。愛子は緊張のあまり、頭痛がしてきた。たまたま相良が居たので、その場が白けずに済んだが、偉い人たちの見舞いはもう遠慮したいと思った。
それよりも、一番来て欲しい人物が現れないことが、愛子をひどく落ち込ませた。
何故氷室は来てくれないのだろう?
初日に父に怒られたからといって、それで顔を出すのをやめてしまうなんて、あんまりだと思った。しかも無断欠勤など、氷室らしくないし、社会人としても有り得ないことだと思う。相良の話では、今日も姿を見ていないとのことだった。
いったい彼はどうしてしまったのだろう? 何か事情があるにせよ、父親のことや自分が迷惑を掛けたことを謝りたいと、ずっと思っているのに。
悶々と考え込んでいたとき、軽いノックがしてベッドのカーテンがふわりと揺れた。
そちらに注目していると、カーテンからほっそりした女性が顔を覗かせた。
「あの、こんにちは」
愛子は女性の顔を凝視したまま固まった。
「こ、こんにちは」
慌てて挨拶を返す。
女性は笑みを浮かべて一歩、二歩と近付いてきた。ふわりと香水が薫った。二十代後半くらいの美人。居酒屋。夕方の駐車場。タクシーに乗り込む二人。イメージがピタリと目の前の女性に重なった。
――氷室さんの彼女だ。
「ここは、どこの病院でしたっけ……?」
愛子はドキドキする胸を押さえて妙な質問をしてしまった。
女性は、肩までの髪を揺らして小首を傾げたが、すぐに答えてくれた。
「S大学附属病院ですよ」
軽トラックで追いかけたときのことが、ありありと甦って来た。S大病院といえば、この女性と氷室が向かった行き先だ。その病院に、今自分が入院しているとは。
何か用事があるのだろうか。女性は愛子を見下ろしてそのまま佇んでいる。
「あの……あたしに、何か?」
愛子はおずおずと声をかけた。女性は口を閉じたり開いたりしていたが、ようやく声を出した。
「あの、氷室くんから聞いたものだから、気になって様子を……」
「え……?」
いったいどういうことだろう? 見舞いにも来てくれないのに、どうして氷室はそんな話をしたのか。しかも、自分の彼女に職場の女の子の話をするなんて。
――ドジな女の子が居てさ、困っちゃうよ。
まさかと思うが、そんな風に話のネタにしていたのか?
何だか気分が滅入ってきた。それと同時に、不愉快な気持ちが湧いてくる。彼からどんな話を聞いているのか知らないが、とりあえず初対面なのだ。礼儀というものがあるだろう。
「あの、いったい、どちらさまですか?」
愛子は自分の口調に驚いてしまった。今のは、物凄く棘のある言い方だった。
女性はハッとしたように名乗った。
「あ、申し遅れました。私は皆川葉月といいます」
数分後、愛子は何故か車椅子に乗せられて、病院内を移動していた。皆川葉月は愛子の車椅子を押しながら、「内科病棟に行きます」と言った。
愛子は背後の彼女を意識した。
彼女は「会っていただきたい人がいるんです」と言い、借りてきた車椅子に半ば強引に愛子を乗せて、連れ出したのだ。身動きがとれないだけに愛子は何だか不安になってきた。
二人は渡り廊下を渡り、奥のエレベータに乗った。三階で降りると内科病棟と表示が出ていた。消毒薬の臭いの廊下を進みながら、皆川葉月がようやく言葉を発した。
「ここには主人が入院しているの」
「え?」
愛子は肩越しに振り向こうとして、胸を押さえた。痛みで思うように体が動かせない。首だけで振り向いたが、白っぽいサマーニットが見えただけだった。皆川葉月はそれきり何も言わずに車椅子を押して廊下を進んだ。
いくつも病室を通り過ぎて、一番つきあたりの個室の前で止まった。
愛子は個室の名札を見た。そこには薄くなった文字で、愛子の知らない男性の名前が書かれている。
『皆川勝弘』
いったい彼女はどういうつもりで連れてきたのだろうか?
皆川葉月が白いドアを開けた。
「あ……」
中を覗いた愛子は、小さく声を上げた。
病室の中に氷室が居た。紺のスーツを着てベッドの近くのパイプ椅子に座っている。無断欠勤していると聞いていたが、まるで会社に行くような恰好だった。
振り向いた彼も、愛子を見て固まっていた。
氷室の目が動き、愛子を通り越して背後に注がれた。絞り出すような声。
「葉月……どうして?」
「上田さんの病室に行けないみたいだから、連れてきて差し上げたのよ」
皆川葉月のやわらかな声が、愛子の頭の上から降ってきた。
「しゅ、主任。あの……」
氷室が椅子から立ち上がった。愛子の背後から、彼女がふっと離れてゆく気配がした。
「葉月、いったいどういうつもりだ?」
氷室の問いかけには答えず、カチャとドアが開く音がして、皆川葉月の声がした。
「氷室くん、いつまでもここに逃げ込んでいないで、きちんと目の前の彼女を見なさい」
そして、愛子に向かって、言葉を添えた。
「主人のことは気にしないで。彼、しゃべりませんから」
愛子の背後でパタンとドアが閉まった。
立ち尽くす氷室の背後から、ブラインド越しに午後の陽射しが差し込んでいる。柔らかな光は、病室内を何もかも白く照らした。その中で、窓辺に飾られた真っ赤なバラだけが、強烈な色彩を放つ。
「あの……」
愛子は声をかけた。彼女の頭上をスルーしていた氷室の視線が愛子をとらえた。
氷室のそばに移動しようと思い、車椅子の車輪を握った途端にまた激痛が走った。
「うっく……」
痛む胸を押さえて車椅子の中で前かがみになると、氷室が飛んできて、愛子のそばに跪いた。
「上田さん、大丈夫?」
心配そうに覗き込む彼に、愛子は懸命に頷いて見せた。
「やっぱり、お父さんが殴ったせいですか?」
「え?」氷室が首をかしげた。
「私の病室に来なかったのは、そういうこと……ですよね?」
愛子は氷室を見ながら問いかけた。愛子の父に殴られた彼の目許は、腫れは引いていたが、黒ずんでいる。
「ごめんなさい。私のせいなのに、お父さん、ひどい事しちゃって……。本当に、ごめんなさい」
ぺこりと頭を下げて、愛子は心の中でため息をついた。
いったい自分は何回この人に謝るのだろうか。
顔を上げると、氷室の切なげな眼差しと出あった。彼は愛子を見下ろすと、つらそうな表情になった。
「悪いのは、俺のほうだ。キミのお父さんに殴られて、怒鳴られた。『何でうちの娘が鉄塔に登らなくちゃいけなかったのか』と。俺、何も言えなかった。会社の方針だとか言って、事務員であるキミを作業員にしたのは俺だ。作業員になったら、当然リスクが増す。そのことを、キミとキミのご両親にきちんと説明しなければいけなかったのに」
「でも、今回のはあたしが勝手に!」
大きな声を出すと、胸に響く。愛子は顔をしかめて言葉を切った。氷室はいたわるように愛子の背中をさすった。少し痛みがやわらぐ。
「作業中であろうとなかろうと、そのうちキミも感電事故にあうかもしれないのに。なのに俺は。感電して、鉄塔の上で。だから……」
愛子はハッとして彼のほうを見た。 氷室の声が震えている。見るとその顔は血の気が無い。何だか様子がおかしかった。
「主任、あたしは感電してませんよ。主任?」
氷室は愛子の顔をじっと見て、口を開いた。声がかすれている。
「違うんだ。……ごめん、いや、そうだよね。すぐに会いに行けばよかったんだよ。こんなところでぐずぐずしてて。ごめん……ほんとうに、ごめん……」
彼は声を震わせて、下を向いた。愛子はドキリとした。
氷室さん、泣いてる?
「主任、なんか……ちょっと、あたしが言うのもヘンですけど、大丈夫ですか?」
氷室は深呼吸のように大きく息を吸うと、頷いた。
「……でも、よかった。こうしてしゃべれるんだから。本当に、よかった」
氷室は下を向いたまま両手で愛子の手を握った。大きくて温かな手のひらを通して、なんとなく彼の思いが伝わってくる気がした。疎まれていたわけじゃなかった。それがわかっただけで、ホッとする。
愛子は氷室から病室内へと視線を移した。
頭を窓の方にしてベッドに横たわった男性は、鼻に酸素のチューブが装着されている。 男性は眠っているようで、微動だにしない。静かな病室内に枕元の機械から、ピッピッと電子音だけが規則正しく聞こえてくる。
この男性が皆川葉月の夫だということは、彼女と氷室は本当にただの友達なのだろう。だが、何故氷室はここに?
愛子はベッドに横たわる男性を良く見ようと首を伸ばした。ずきんと胸が痛む。
「皆川さんの、ご主人……眠っていらっしゃるんですか?」
胸の痛みに顔をしかめながらも問いかけると、氷室が身を硬くした。彼は愛子の手を離すと大きく息を吐いた。
「皆川は俺の後輩だ。もう四年になる。ずっと眠っている」
それって……? 愛子はごくりと唾を呑んだ。
「先日から容態が悪化して、出来る限りこちらに来るようにしてたんだ」
皆川勝弘氏は植物状態だった。彼の生きている証は、生命維持装置の電子音と、ブーンというモーターの音だけだ。
何故、皆川の妻は、愛子をここへ連れてきたのだろうか。氷室に会わせるためだけじゃない、そんな気がする。彼女が会わせたかったのは、氷室ではなく、たぶん、目の前の男性患者なのだと思った。
昼下がりの病室に、沈黙が降りてきた。
愛子は恐る恐るその沈黙を破った。
「皆川さんは、どうしてこんなふうに?」
氷室はじっと後輩の顔を見ていたが、やがて無表情になって言った。
「きちんと話すよ。今、ここで。……皆川も聞いているから」
彼は愛子に顔を向けた。瞳が潤んでいるのは気のせいだろうか。植物状態の後輩と、氷室の間に、いったい何があったのだろう。
氷室はパイプ椅子を引き寄せて愛子のそばに座った。やわらかな陽射しの差し込む病室は、再び時が止まったように静けさに包まれた。
「皆川がこうなったのは、俺のせいなんだ」
氷室は遠い目をして語り始めた。
その事故は、電流を流しながらの活線作業中に起こった。
発雷警報が出ており、大粒の雨が叩きつけるように降っていた。氷室は班の責任者である班長の立場から、作業の中止を判断し、今まさに高圧線上で作業中の作業員たちに指示を出したところだった。
「そのままの状態で、防護管を被せて一時車輌内に避難しろ。雨が小降りになったら工事を再開する」
すると鉄塔に登っている後輩から無線が入った。
「氷室さん、やっちゃいましょうよ。俺、早く終わらせたいんですよね」
「また皆川か。無理するな。雷も鳴ってるし、雨で滑り易いから、危険だぞ」
「平気ですって。嫁さんと待ち合わせだから、遅れるとどやされるんだよな」
「おいおい、そんなことぐらい何だよ。班長の俺よりかみさんのほうが怖いのか?」
冗談交じりで作業の中止を催促したが、彼はなかなか降りてこなかった。業を煮やした氷室は自ら高所作業車のバケットに乗り込んで、皆川の元へ近付くために鉄塔に乗り移った。
と、その時だった。
落雷と共に、閃光が目を焼いた。体に衝撃が走り、右腕を痛みが襲った。
浮遊感と同時に、腰の辺りに負荷がかかる。
「な、なんだ?」
ほんの一瞬の出来事で、気がつけば腰の安全帯ロープでもって、鉄塔にぶら下がっていた。遥かな下界から、作業員たちの悲鳴が上がる。
不安定な状態で、腰に固定した命綱の安全帯ロープを頼りに、宙吊りから体勢を立て直そうともがいた。何故だろう? 右腕が動かない。それでも左手一本でようやく安定した体勢になった。
「氷室さん! 氷室さん! 早く!」
激しい雨音に混ざって、下から作業員たちが怒鳴っている。彼らは自分よりも上を指差していた。
嫌な予感に振り仰ぐと、頭のすぐ横に青い作業着がぶら下がっていた。
「皆川?」
初めて目にした感電事故だった。焦げたような異臭が漂う。腰のロープと、ナス管と呼ばれるザイルに似たフックにつながるワイヤーだけで、皆川は鉄塔にぶら下がっていた。
どうやって助け出したのか、まったく覚えていない。ぐったりとした皆川を抱いて地上に降り立ったとき、自分も感電していたことに初めて気付いた。電流が皆川の足を介して、右肩から入って右の小指に抜けたらしく、右腕全体が真っ黒になり、小指の先が吹っ飛んで無くなっていた。
皆川はすぐに救急車で運ばれたが、重体だった。医者は、命があったのが奇跡だと言った。感電による熱傷は、見た目より体内のほうが損傷しているのだという。不幸が重なった事故だった。落雷に気を取られた彼は、うっかり手にしていた工具でむき出しの線に触れてしまったのだ。もう作業を中断する予定だったし、雨で手元が滑ると言って、絶縁仕様の手袋を外してしまっていたのも感電の原因だった。一命を取り留めたものの、それ以来、彼はずっと昏睡状態が続いているのだという。
「皆川は、当時結婚したばかりだった。幸せそうな二人を見るのが俺は好きだった。二人とも俺の大切な友達だったんだ」
そう言って、氷室はベッドに眠る後輩を見てから目を伏せた。
愛子は氷室の右手を見やった。この小指には、そんな悲しい過去が隠されていたのか。
でも……。
今の話は、どう考えても事故だ。目の前で後輩が悲惨なことになって、ショックを受けたのはわかる。でも、それが直接氷室の責任だとは思えない。
愛子が思ったことを口にすると、氷室は弱々しくかぶりを振った。
「責任者らしく、もっと強引に作業中止を命令すればよかったのに。だから、俺の責任だ」
苦しげに言う氷室を見て、愛子は初めて彼と会ったときのことを思い出した。発雷中の表示や、活線作業のことをひどく気にしていたっけ。
「あの事故の後、初めて皆川の病室に入ったとき、俺は震えが止まらなかった。ほんの数時間前まで軽口を叩いて笑ってたやつが、真っ黒こげで……」
氷室はベッドの皆川氏を見やった。男性は頬がこけていて、顔色が黒ずんでいる。
氷室は愛子に切なげな目を向けた。
「あの日、鉄塔の上でぐったりしたキミを見て、急に皆川のときのことが頭から離れなくなった。もしも病室に入ったときに、キミが彼のように目覚めなかったらと……」
氷室は言葉を切って俯いた。彼は思い詰めた様子で自身の膝の辺りを見ながら、ぼそぼそと囁くように言った。
「……キミの病室へ入る勇気がなかったんだ。ごめん」
愛子はどうしたらよいのかわからずにぼんやりと氷室を見ていた。自分の無茶な行動が、彼を傷つけてしまった。彼のトラウマを呼び起こしたのだ。だから氷室は取り乱して会社へ行けなかったのかもしれない。
いつだったか、飯田が言った。
――氷室は、前に部下を一人再起不能にしてる、と。
でも、そうじゃなかった。皆川だけでなく、その事故で氷室の心も再起不能になっていたのだろう。今でも彼は心を痛めている。それでも、また作業員を束ねる仕事につかなければならなくなってしまった彼を、愛子は気の毒に思った。
なんとか彼を元気づけることができればいいのに……。そう思ったら、体が勝手に動いていた。
「主任、見て。あたしは、大丈夫ですよ」
そう言って、愛子は車椅子から立ち上がった。彼と皆川氏の間に割り込んで、ぴょんぴょんと飛んで見せる。折れたあばらに響こうが、腹部が引きつれようが、気にしちゃいられない。
氷室さんのためだもの。
氷室がポカンと口を開けている。
「ね、主任。あたしは、鉄塔からぶらさがっても、こうやってピンピンしてるから」
「う、上田さん……?」
呆気にとられたままの氷室に、愛子は出来る限りの笑顔を見せた。
「あたしは、皆川さんとは違うから。ね? だから、今までどおりの主任に戻ってください」
氷室の目が大きく見開かれた。
「あたしが職場復帰したら、また部下としてびしびしお願いします」
こめかみに汗が流れた気がした。でも、大丈夫。……たぶん、大丈夫。
「上田さん、静かにしないと」
氷室の表情が、悲しげじゃなくなった。もうひと頑張り。
「うん、ご心配なく。すぐに退院しますよ。そしたら大型免許とって、電気工事士とって、忙しいですよ」
「上田さん」
あ、氷室さんってば、眉間にシワが……。あれは悲しい顔じゃないよね。
「鉄塔だって、また登ります。大丈夫。一回痛い目に遭ってますから。慣れってやつですよ。高い所、案外気持ちよかったし」
「上田さんっ」
そうそう、この顔。いつも奥田くんたちを叱り飛ばすこわ~い主任。
「だからまた、部下としてよろしくお願いします。あたしには、主任が必要なんです。お願い、どうか元気だして」
「愛子!」
ふわりと抱き上げられて、愛子は息を詰めた。間近に氷室の怒ったような顔がある。人生で二度目のお姫さま抱っこというやつだった。前回は、二日酔いの頭を抱えて座禅をやり、ゲロゲロになったときだ。みんなの注目の中、お寺の境内を氷室に抱きかかえられて車まで運ばれた。あのときは予想に反して怒られることは無かったが……。
やばい。今度こそ、叱られる?
上目遣いで見つめていると、押し殺したような低い声で言った。
「頼むから、もうムチャはやめてくれ」
怒った氷室の顔が歪んで、泣きそうになっている。目を合わせて愛子はうろたえた。
うそ! 見つめ合う顔が近い。体温が上昇して、心拍数が跳ね上がった。自分自身の鼓動がやけに大きく聞こえてきて、愛子は思わず嘘をついた。
「しゅ、主任、傷が痛いよ」
ふっと彼の表情がゆるんだ。
「……ごめん」
氷室は愛子をそっと車椅子に乗せると、皆川氏の眠るベッドに近付いた。枕元まで行くと、彼は後輩の顔を見ながら言った。
「じゃあな、皆川。……また来るから」
氷室に車椅子を押してもらい、病室を出ると、すぐの廊下に皆川葉月が居た。
「今度こそ、吹っ切れた?」皆川葉月は優しい声で言った。
「ああ、たぶん……」氷室が低い声で返す。
彼女は目頭を押さえながら、静かに言った。
「この間は、つい取り乱しちゃって、会社まで押しかけてしまったけれど、何とか持ち直したの。だから、こちらはもう大丈夫よ」
愛子は黙って二人のやりとりを聞いていた。
先日この病院に皆川葉月と共に氷室が来た理由は、皆川氏の容態が急変したために違いない。きっと飯田が見た日も、愛子の見舞いの後に寄ったのだろう。不幸な事故で眠ったままの後輩。目を閉じて横たわるその姿を見て、四年もの間自分を責めてきた氷室。
「私も、氷室くんの優しさに甘えているところがあった。でももう寄りかかったりしない」
そう言って、皆川の妻は微笑んだ。
「とても頑張り屋の女の子が居るって、あなた話してくれたでしょう? そのとき私、ホッとしたのよ。楽しく仕事をしているんだって思ったから」
彼女の言葉に、氷室は慌てたように咳払いをした。皆川葉月はクスッと笑うと、愛子に向き直った。
「氷室くんを、よろしくお願いしますね。もうそろそろ、この人、幸せになってもいい頃だから」
愛子は意味がわからずに首をかしげた。
「余計なこと、言うな」
憮然とする氷室の声を無視して、皆川葉月が朗らかに言った。
「言っときますけど、私と皆川が不幸せだなんて、勝手に決めないでよ。皆川の顔を見て、気持ちを引き締めるならばそれでいい。だけど、私の大事な夫の顔を見て、また自分を責めるようなら、もうここには来ないでちょうだい」
さあ、行った行った! と、皆川葉月は廊下の向こうを指差して、さっさと病室に引っ込んでしまった。
愛子と氷室は、個室の前の廊下で顔を見合わせた。
「私、あのひとに連れてこられたんですよ? なのに……どうして?」
思わず呟くと、氷室がプッと吹き出した。
「主任……?」
怪訝そうな顔で見上げた愛子の頭を、温かな手のひらがくしゃっと撫でた。
氷室は愛子を病室まで送ってくると、軽々と抱き上げてそっとベッドに寝かせてくれた。
彼女の体に毛布を掛けて、氷室は静かな声で尋ねた。
「ひとつ、聞いてもいいかな。桜井さんとあそこに登ってたのは、本当にキミが話したとおりの理由なの?」
愛子はドキリとした。本当のことを話せば、桜井との約束を破ることになる。どうしたらいいものかと口をつぐんでいると、氷室が言った。
「考えたんだけど、この間の事故のとき、上田さんだけ先に帰らせたでしょう? だからかなって」
「え?」意味がわからず、愛子は氷室の顔を見上げた。彼はじっと愛子の目を見ながら言った。
「あのとき、女性だからという理由で帰らせたから。女性でも柱に登れるぞっていう、その、会社の方針に対する……いや、俺へのメッセージかな、とか思ってさ」
「違います!」愛子はかぶりを振った。
とんでもない! 女性の職域拡大云々などという、そんなたいそうな志など、かけらもないのだから。愛子は即座に否定したが、氷室は釈然とせぬ顔つきだった。
それ以上は追及されなかったが、去り際に彼は愛子の鼻先に指を突きつけて言った。
「とにかく、もうムチャはしないで、早く元気になること。いいね?」
いつもの氷室らしい顔つきに戻っていたので、ホッとした。愛子は大きく頷くと、病室を出てゆく彼の背中を見送った。