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骨折り損の・・・

 ――死んでなかった。

 物凄く胸が痛む。胸が痛むと言っても、心が傷ついたとか、そういうのじゃなくて、とにかくその部分が痛い。

 夢うつつで目を開けると、真っ白い天井をバックに、母親の顔があった。心配そうな母に向かって微笑んだつもりだったが、愛子はそのまま深い水の底に落ちていった。


 夢を見ては目を開け、また目を閉じて夢を見た。たいてい誰もおらず、白い天井を見てまた眠りにつく。ときどき母親が居て、愛子に気付いて声をかけてくることもあったが、母は椅子に座ったまま居眠りしていることもあった。

 どのくらい繰り返したのかわからないが、女性の声で愛子はハッキリと覚醒した。

「上田さん、診察しますよ」

 口の中がかさかさに渇いていた。白衣の女性を目にして、ようやく状況が飲み込めた。どうやら自分は入院しているらしい。腕に点滴がつながっている。

「……今日は、何日ですか?」

「八月十二日です」

 看護師はベッドの角度を起こしながら言った。

 愛子の脳が活動し始めた。桜井と共に鉄塔に上った。それから何だかものすごく長い時間が経過したように思っていたが、あれは昨日の午前中のことだったのか。

 ベッドの周りに引かれたカーテンが揺れて医者が入ってきた。

「上田さん、前、失礼しますね」

 そう言って、看護師が愛子のパジャマの前を全開にした。ハッとして首を動かした途端に激痛が走った。

「うっ!」

 そろりと下を向くと、上半身が包帯でぐるぐる巻きだった。これではぺちゃんこの胸がますます平らになってしまうじゃないか。

 医者は腹の辺りのガーゼをめくって言った。

「肋骨、左右一本ずつ骨折してるから。安静だよ。それから、内臓が傷ついたので切開して止血しましたからね。傷痕は五センチくらいかな」

「ええ?」

 愛子は思わず大きな声を出して、再び激痛に見舞われた。

 傷口を消毒し、点滴を付け替えて、医者と看護師は居なくなった。愛子は天井を睨んだまま呟いた。

「あばら骨、折れたの? お腹も切ったの? なにそれ……」

 一時間ほどして母親と祖母が見舞いに来た。

「あんた、大変な目にあったのねぇ」母親は涙ぐんだ。

 昨日はどうやら間一髪で落下せずに済んだが、そのまま病院に運ばれて今に至ったらしい。

「会社から電話が来て、愛子が大怪我したって聞いたときには、お母さん目の前が真っ暗になったわ。それにしても、あんたいつからそんな仕事するようになったの?」

 何故鉄塔に登っていたのかと訊かれ、愛子は言葉を濁した。桜井との約束で、自殺の件は誰にも言わないことになっている。

「ねえ、愛子は事務員じゃなかったの?」

 家族は仕事中の事故だと思っているみたいだった。それならそれで、別にかまわない。作業員という肩書きをもらっている以上、あながち嘘でもない。

 心配かけたことを謝ると、二人の表情が曇った。

「実は昨夜、お父さんがあんたの上司をえらい剣幕で怒鳴りつけて、おまけに殴っちゃったから……」

 ええ!

 話を聞いて愛子は真っ青になった。

 なんだかんだと世話を焼き、母たちは夕方まで居てようやく帰った。家族が来てくれるのはありがたいが、出来ればもっと静かに寝かせておいて欲しいものだと思った。

 ようやく静かになったので、少し眠ろうと思い、愛子は痛む胸を庇いながらベッドの中で横向きになろうとした。

「いっ……たぁい……」

 どこに力を入れても痛い。布団の中で呻いていると、開け放したままのドアからやかましい声が聞こえてきた。

「おい、ここだぞ」

「奥田、うるせぇよ。静かにしろっ!」

 騒音ともとれる足音を響かせて、工事課の同僚がどやどやと入ってきた。


 腹と胸が痛いというのに、五人の同僚たちは散々愛子を笑わせた。まるで拷問だ。特に奥田は、同室の入院患者も巻き込んで、お笑いのネタを披露しては、相変らず非常識なお子様ぶりを発揮していた。

「しかし、びっくりしたよ。無線とったら、いきなり『助けて~』だもんな」

 笑いがおさまると、河合が愛子を真似して甲高い声を出した。勝手にスイッチが入ってしまったのだと弁解したが、あれがなければ今頃は死んでいたかもしれない。河合と愛子の無線を、氷室が事務所内の無線台で聞いたのだ。彼は不審に思い、プレハブを出たところで屋上の愛子たちを発見したのだという。

「本館の鉄塔に桜井さんがぶら下がっててさ、その陰から愛子さんの足が飛び出てて、俺は一瞬どうなってるのかわかんなかったよ」

 あのとき助けに来てくれた奥田が、身振り手振りを交えて面白おかしくしゃべった。

 彼らの情報によると、桜井は右腕数ヶ所に複雑骨折を負っていて、明日手術を受けるのだそうだ。あの細腕一本で鉄筋にひっかかっていたのだから、仕方がなかろう。彼女を支えたせいで、愛子だってひどい有様だ。

 桜井の自殺未遂については、誰にも言わないと約束してしまったので、会社の人間には本当のことを言うわけにいかない。愛子は仕方なく嘘をついた。屋上で勝手に昇降訓練をしていて、たまたま桜井も挑戦することになった。そして二人で登ったのだ、という苦しい言い訳を考えた。

 皆が信じたかどうかはわからないが、本当のことを言えないのだから仕方がない。

 愛子は何気ないふりをして、一番気になることを尋ねた。

「あの、氷室主任は?」

「え、ああ、たぶん後から顔、出すんじゃないかな」

 答えた野口の背後で、奥田と河合がなにやら目配せしたのがとても気になった。

 腹部を手術したので、明日いっぱい絶飲食だ。それなのに、同僚たちは愛子の枕元に美味そうなお菓子や果物を大量に置いていってくれた。愛子は涙目で高級スイーツの箱に目をやった。笑わせたり、泣かせたり、本当に親切な人たちだと思った。

 彼らが帰ってしまうと、愛子はトイレにいきたくなった。ナースコールをすると、現れた看護師は空になった点滴を外して冷たく言った。

「もう歩いて平気だから、ひとりで行ってください」

「は、はあ……」

 先生は安静って言ったじゃないか! 心の中で文句を言いながら、懸命に身を起こす。

「痛った~い」

 力を入れた途端に、胸が痛んだ。あまりの激痛に耐えかねて、ベッドの上でのた打ち回っていると、誰かが手を貸してくれた。

「すみません」と愛想笑いで見上げると、よく知っている顔だった。

「よお、おチビ。具合はどうよ?」

 いつもどおりの飯田の笑顔にホッとする。

 彼は愛子を支えながらトイレまで連れて行ってくれた。さらに飯田は女子トイレの前で、終わるのも待っててくれた。

「ありがとう、助かった」

 なんとも情けないが、来てくれたのが飯田でよかったと思った。

 飯田はオレンジのリボンが付いた可愛らしいフラワーアレンジメントを愛子の枕元に置いた。

「わあ、かわいい」

 黄色とオレンジのミニひまわりと、真っ白のカスミ草がふんだんに使われている。彼はやはり工事課のメンバーと違ってセンスがいいな、と愛子はにっこりした。

 さっきまで河合たちが来ていたのだと言うと、飯田は「知ってる」と言った。

「さっき来たんだけど、ずいぶん賑やかだったから後にした」

 二回も足を運ばせてしまったことが、何だか申し訳ない気がした。

「氷室も……やつらと一緒に来た?」

 愛子はかぶりを振った。

「今日は来てないよ。昨日来てくれたらしいんだけど、うちのお父さんが主任のこと殴ってしまったらしくて……」

 愛子は泣きたくなってきた。動けるものなら、今すぐにでも謝りに行きたいのに。

「主任は悪くないのよ」

 愛子の言葉に、飯田はふんと鼻を鳴らした。

「でもさ、アイツ、時間中に居なかったそうじゃないか。監督不行届きってやつだろ」

 それはそうだが。でも、愛子が会社に居ながら自殺現場に巻き込まれるなんて、誰に予想できたというのか。

 飯田がどこか面白そうな顔で言った。

「なんか、今日の役職者会議はすごいことになってたみてぇだよ。うちの課長が面白がってしゃべってた」

「なんて?」にわかに不安になる。

「総務課長と工事長が吊るし上げられてたってさ。特に工事長が悲惨だったらしいよ。奥田のことや、お前の座禅のことも蒸し返されて……。なんたって、氷室がどっか行っちまったらしいから、工事長ひとりで……」

「ええ?」

 愛子の声に、飯田は「しまった」という顔をしたが、結局彼らしくない捨てゼリフで締めくくった。

「へっ、無責任な男だよ、あいつは」

 愛子は飯田の整った顔をまじまじと見た。

「ねえ、飯田くん。主任、何かあったの? どこかへ行ったって、どういうこと?」

 飯田はパイプ椅子に深く掛けなおすと、言いたくなかったんだけど、と前置きした。

「氷室、今日、会社に来てねぇんだ。無断欠勤だってさ」

 え……? 無断って、どういうこと?

 飯田は自分の前髪をうっとうしそうに掻き乱した。

「飯田くん?」

 彼は愛子の目を見ないようにして言った。

「昨日の夜、俺、この近くで氷室を見たんだ」

 昨夜……? 

 昨夜氷室が来てくれたことは母親から聞いている。そして父が殴ったのだ。でも、飯田が氷室を見たならば、昨夜も飯田は病院に来てくれたということだ。愛子はそのことにかなり動揺したが、とりあえず顔に出さないようにして先を促した。

「氷室、ひとりじゃなかったんだ。あの女性と一緒に病院に来てた」

 愛子は目を見開いた。あの女性とは、つまり居酒屋で見た彼女だ。会社に来て、氷室に泣きながら抱きついた女性。

「部下の見舞いなのに……。しかも女連れで見舞いに来て、次の日無断欠勤って、なんだよ! なんか俺、そういうの……許せない」

 飯田は吐き捨てるように言うと、カバンをつかんで静かに病室を出て行った。


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