屋上パニック
翌朝いつもの時間に出勤すると、プレハブには工事課メンバーの殆どが居た。夜通し作業をして、結局泊まってしまったのだろう。工事長と配電課長がソファでいびきをかいており、周囲の床に奥田と河合が作業着のまま転がって寝ていた。その他のメンバーもほとんどが自席に突っ伏していた。
愛子はなるべく静かにフロアを歩きながら氷室の姿を探したが、彼だけ見当たらなかった。朝一番で、謝るつもりだったのに。昨夜、半分意地になってしまい、上司である彼の言う事を聞かなかったのは、部下として非常にまずかったと反省したのだ。
「おはよ」
北さんが小声で声をかけてくれたので、愛子は挨拶を返すと氷室の居所を尋ねた。
「ああ、さっき病院に行くとか言って、出て行った」
「病院? 主任、どこか具合が悪いんでしょうか?」
彼女の問いかけに、北さんは「知らね」と言ったくせに、「でも具合が悪いわけじゃねぇよ」と付け加えた。なんか知っているみたいだったが、それ以上は聞けなかった。
時計の針が八時を回り、寝ていた人々が起きだした。いつものように、プレハブ内がざわつき始めると、代わり映えのしない日常が動き出した。
昨夜の事故の影響で、作業員の大半が駅前の現場に駆り出される中、始業時刻を三十分以上過ぎても氷室は帰ってこなかった。
「上田さん、私は配電課長と一緒にY工務事務所の送電課に行ってきます。中のこと、お願いしますね」
愛子に声をかけると、佐々木工事長は作業用ジャンパーを羽織って、プレハブを出て行った。
皆が泊り込んだため、事務所内はかなり散らかっていた。愛子は無線のヘッドセットマイクを首にかけて、ゴミくずや空き缶を片付け始めた。
「上田さん、申し訳ないね。お先に失礼するよ」
そう声をかけて、昨夜の当直組である二班のメンバーがぞろぞろと帰って行った。他のメンバーは徹夜明けでもそのまま通常勤務だが、当直組はシフト通りに明け休みだ。こういう事態のときは、当直組のほうが得なのだな、と愛子は思った。
彼らが出て行き、愛子はポツンとひとり、プレハブに取り残されていた。作業員の肩書きが付いたからって、急に仕事内容を変更してくれるわけじゃないとわかっていたが、やっぱり何か矛盾を感じた。
ひとりになると、昨夜の飯田の言葉が頭の中に甦って来た。
――氷室は、前に部下を一人再起不能にしてる。
そんなはずはない、と思う。彼は今まで一度だってムチャな指示は……。そう考えて、愛子はハッとした。両肩に乗せられた、大きな手のひらの感触。認定をもらったばかりの愛子に、一度も運転したことのないトラックを預けた氷室のことが脳裏をよぎった。
――どうしてだか行く先々で事故があるんだよ。呪われてるのかな。
金龍禅院の本堂で、そう言って俯いた氷室の言葉が頭の中でぐるぐるする。まるっきり偶然ということもあるが、事故には必ず原因があるのだ。自分の考えに、愛子はふるふると頭を振った。
「私は彼の部下なんだから。信頼しなくては」
愛子は給湯室で店屋物のどんぶりを洗うと、所定の場所に置きに行った。プレハブを出てすぐの物入れの上に積み重ねていると、視界の隅にチラリと何かがよぎった。
本館の屋上に誰かが居た。
よく飯田がサボりながらタバコを吸っている場所だが、飯田ではない。
八月の青空をバックに、髪の長い人物が屋上の手すりから身を乗り出している。
「え? 桜井……さん?」
愛子はぼんやりと屋上の桜井園子を見ていた。彼女は懸垂の要領で、自分のアゴの高さの柵から肩の辺りまでを覗かせていた。
いったい何をやっているのだろう?
黙って見ていると、黒いものが落ちてきた。
「なに?」
コツンと音をたてて、アスファルトに転がったものは、桜井のヒールだった。愛子は突然寒気に襲われた。再び屋上を見上げたとき、愛子は走り出していた。
「桜井さん! やめて!」
喚きながら、愛子は本館脇にある非常階段を一段抜かしで駆け上がった。
なんで? なんで桜井はあんな危ないことをしているのだ?
足がつりそうになったが、愛子は鉄の階段を必死に上り続けて、屋上への扉を押し開けた。
「桜井さん!」
屋上の柵によじのぼろうとしていた桜井が振り返った。その拍子に柵から手が離れ、彼女は屋上のコンクリートに尻餅をついた。
「桜井さん、ヒールが落ちてきたよ。何してる……」
「来ないでよ!」
言いかけた愛子は、彼女の声にビクンと体を震わせた。
桜井は素早い動作で起き上がると、キョロキョロとせわしなく辺りを見回した。明らかに挙動不審だ。
「あっちへ行ってよ!」
悲鳴に近い声で叫ぶ彼女の顔は、涙で濡れていて、真っ赤だった。
「まさか、飛び降りようとしてたんですか?」
ううっ……と呻って、彼女は後ずさりを始めた。愛子は頭の中が真っ白になってしまった。
「……なんで?」
うまく言葉が出てこなくて、ようやく発した一言に、桜井が反応した。
「と、飛び降りようと……し、したんだけど、柵が……柵が高くて、登れないの」
へ? 愛子はポカンと開いた自分の口に慌てて手をやった。桜井はぼろぼろと涙をこぼしながら嗚咽を漏らす。
「何度もやったのに。何度も……。だけど、う、腕の力がないから、の、登れない。登れないのよお!」
愛子はハアと大きく息を吐いた。何だかよくわからないが、彼女の腕が貧弱でよかった。
「桜井さん、とにかく下に降りようよ。ね?」
愛子が数歩踏み出したとき、事態が急転した。
「いやあああああ!」
桜井は瞳を大きく見開いて、今度は屋上の中央にある鉄塔に向かって走り出した。
「桜井さん!」
あっという間だった。
桜井はもう片方のヒールを脱ぎ捨てると、鉄塔に取り付いてするすると上り始めた。
「うそ」
愛子は彼女のヒールを拾って、鉄塔を見上げた。無線のための電波塔は、天辺まで十メートルくらいはあるだろう。さっきの口ぶりでは、彼女は屋上から飛び降りるつもりだったらしい。
「まさか、あの天辺からここに飛ぶつもりじゃ?」
桜井は半分ほど上ったところで止まっていた。愛子は混乱する頭で懸命に考えた。
とにかく誰かを呼ばないと!
屋上から下を覗くが、誰も見当たらない。ウロウロしていると、桜井のヒステリックな声が降ってきた。
「動かないで! 動いたらここから飛び降りるわよ!」
ええ! ちょっと!
愛子は叫びだしそうな口を自身の両手で覆った。ビル風に煽られて、桜井のタイトスカートの裾と長い髪が大きく揺れた。
「やめてください、桜井さん! なんでそんなことするの?」
気が付けば、愛子もべそをかいていた。
「きゃあ!」
桜井は鉄塔の中ほどにしがみついたまま、後ろを振り向こうとして悲鳴を上げた。ぐらりとかしいだ体を必死にたて直し、彼女は再び登り始めた。
このままじゃ、まずい!
愛子は手の中のヒールを放り出すと、桜井の逆側から鉄塔に登り始めた。最近工事課で工具を運んだり、男性に混じって筋トレをしたりしていたので、鉄塔に登ることなど全く苦ではなかった。幅十センチほどの鉄骨に足をかけながらするすると登り、愛子は鉄塔の骨組みの間から、真正面にしがみついて震えている桜井に声をかけた。
「桜井さん」
正面から声をかけられて、桜井はギョッとしたように目を剥いた。
「下からしゃべってると、桜井さん落ちそうだったから、あたしが来たよ」
「な、なんなのよ、あんた。大きなお世話なのよ!」
桜井は真っ赤な顔で怒鳴ると、再びゆっくりと登り始めた。愛子も逆側から登る。真夏の空の下、手のひらが汗ばんできた。
全体の三分の二くらい上ったところで、桜井が動きを止めた。彼女の顔に汗が吹き出ている。鉄塔は上に行くにしたがって細くなってゆくので、対面する二人の距離がぐっと近くなっていた。
「ちょっと。な、なんであんたまで、登ってるの、よ」
桜井が鉄骨の間から息をきらして怒鳴った。
「だって、桜井さんが降りてこないから。それに、あたしは作業員ですよ。いずれこういう仕事をするんですから、こんなのは、訓練ですよ」
愛子はそう言って笑顔を向けたが、睨まれてしまった。
「ほんと、あなたってどうしてそうやっていつもいい子ぶってるのよ。ムカツク」
桜井は慎重にもう一段上った。愛子も上る。上りながら尋ねた。
「ねえ、桜井さん。とりあえずこの辺で休憩しましょうよ。手が震えてますよ」
「う、うるさい!」
鉄骨をつかむ桜井の指先は、力が入りすぎて白くなっている。
「こうやって、お腹で支えて、手のひらの汗、拭くといいですよ」
愛子は鉄塔の内側に頭を突っ込んで、横に渡した幅十センチの鉄骨に腹で寄りかかった。汗ばんだ手を片方ずつ離して尻の辺りにこすりつけた。
桜井も真正面から同じように身を乗り出してきた。二人の頭がもう少しで触れそうな距離だった。桜井は肩で息をしながら言った。
「あたし、もう生きていられないのよ」
愛子は下を見ないようにして、尋ねた。
「どういうことですか?」
はあはあと荒い息を吐きながら、桜井園子は言った。
「あたし、騙されたのよ」
「え?」
首をかしげる愛子に、桜井は大粒の涙を流して、悲鳴のような声を出した。
「彼、商社マンなんかじゃなかったの!」
吹き過ぎる風が桜井の髪を弄ると、耳元で大粒の宝石が煌めいた。こうして青空の下で見ると、それはダイヤではないとすぐにわかった。つい先日、結婚するってあんなに喜んでいたのに、どういうことだろう?
黙っている愛子に、桜井は震える声で言った。
「ニューヨークで一緒に住むために、向こうで色々準備しなくちゃならないって。あたしのために、家のキッチンやバスルームなんかをリフォームしたいんだけど、お金が足りないって言われて」
彼女の言葉に愛子は眉根を寄せた。
「まだ親にも正式に紹介していなかったから、あたし、自分の貯金から三百万を彼の口座に振り込んだの」
「さ、三百……」
絶句する愛子に、桜井は涙目で言った。
「だって、結婚するつもりだったから、だから……」
桜井園子は鉄骨にしがみついたまま、ぽつりぽつりと話し出した。
振り込んだ途端に、彼氏と連絡が取れなくなったのだと言う。さすがに心配になり、彼の会社に電話をしたら、そんな人物は居ないと言われたのだった。
「どうしようもなくなって、親に話したらひどく叱られて……。パパが詐欺だって言うの。でも、あたしは彼を信じたかった。そうしたら、さっき会社に警察から電話が……」
愛子は桜井に見えない位置でため息をついた。桜井の彼氏は結婚詐欺師だったのだ。
「あたし、総務課長に先週退職願を出しちゃったの。なのに……こんなのって、あんまりよ」
「桜井さん……」
愛子はどうしたものかと懸命に考えていた。自殺したい心境はよくわかる。でも、そんなに簡単に死んではいけない。
「桜井さん、よく考えて。あたしたち、まだ二十代だよ。これから恋だって、いっぱいするかもしれないじゃない」
「気休めは、やめてよ! あたしなんて、飯田くんに振られて、今度こそって……。なのに、結婚詐欺! 次の恋なんか、もう考えられない!」
桜井は鉄筋にしがみついたままわんわん泣いている。お手上げ状態だった。愛子の口から諦め気分でついホンネが出てしまった。
「でも、桜井さん。飛び降りって、悲惨らしいですよ。ぐちゃぐちゃで。ここで飛んだら、間違いなく飯田くんに死体見られますよ」
ちらりと目を上げると、桜井はハッとした様子だった。愛子の頭の中に考えが閃いた。
もしかしたら、飯田の名前で釣れるかも!
「そうだよ。それよりも、今、この状態を下から飯田くんに見られたら、けっこう恥ずかしいですよ」
「な、何言ってるのよ! か、関係ないわ! どうせあたしは死ぬんだから!」
彼女の目線が泳ぎ始めた。どうにかなるかもしれない、という思いが確信に変わる。
「桜井さん、スカートだから、丸見えだし」
桜井の顔が真っ赤になった。
真夏の温い風が、彼女のスカートを揺らし、愛子の額の汗を掠めて吹きすぎた。桜井は思案するようにしばらく沈黙していたが、やがて、ちらと愛子の顔を見て、口を尖らせた。
「わ、わかったわよ。……下りるわよ」
愛子は無表情を装って頷いたが、内心は安堵で涙が出そうだった。桜井は悔しそうな顔で言った。
「飛び降り自殺はやめるわ。だから、このことは……」
愛子は大きく頷くと言った。
「わかってますよ。このことは誰にも言いません。約束します」
誰かに言ったら許さないわよ、と念を押す桜井に、愛子は神妙な面持ちで何度も頷いた。
「じゃあ桜井さん、ゆっくり下りましょうか」
「わ、わかってるわよ!」
そう言って一歩下りた途端に、桜井の体がぐらりと揺れた。
「あ!」
スローモーションのように、ストッキングの足が鉄骨を踏み外すのがくっきりと目に焼きつく。
「桜井さん!」
愛子は鉄塔の隙間に上体を突っ込んで、桜井の右腕をつかんだ。
「い、痛い!」
桜井が鉄筋に片腕だけでひっかかって悲鳴を上げた。
「お、重いよ」
愛子は前のめりになって必死に彼女の腕をつかんでいた。腹部に鉄筋の角が食い込む。あばらの辺りに激痛が走ったが、今手を離せば桜井は落下する。
「痛い、痛い、あ、足が掛からない!」
桜井は頼れるよすがを求めて手足をばたつかせた。
「桜井さん、落ち着いて。もう一方の腕、どこかに……早く、つかまって」
声を出すたびにあばらが軋む。
「いやあああ! 出来ない。出来ないよお!」
桜井は完全に真横を向いてぶら下がっている。
「手がダメなら、右足。どこかに足をかけて」
愛子の胸のあたりでパキンと音がした。と、そのとき――
『帝都K、こちら帝都一、感アリどうぞ』
首に掛けたヘッドセットマイクから河合の声が流れ出た。胸ポケットの無線のスイッチが入ったのだ。
「あ、誰か、助けて! たすけて~!」
『帝都K? 上田さん? どうしま……』
胸の辺りで再びパキンと音がして、プツンと無線が切れた。
愛子は蒼白になった。助かると思ったのに。
落胆と共に、桜井の体がぐっと重くなった気がして、愛子は歯を食いしばって声をかけた。
「桜井さん、桜井さん!」反応が無い。
うそ!
桜井が失神している。彼女の全体重が愛子の上半身にかかった。あばらに当たった鉄骨がさらに食い込む。口の中に血の味が広がった。
……もう、ダメ!
「上田さん!」
ばたばたと足音がして、氷室が屋上に姿を見せた。
「しゅ、主任!」
彼の後から数人の工事課メンバーが駆けつけて来るのが見えた。
「いったい何がどうなってんだよお!」
奥田が喚きながらあっという間に鉄塔を上ってくると、ぐったりした桜井の体を抱えた。急に腕が軽くなって、愛子はくらっと眩暈がした。
頭を下に、そのままずるずると自分の体が鉄塔の内側にずりおちてゆくのがわかったが、どうすることも出来ない。首に掛けたヘッドセットマイクがひと足お先に落下していった。それは内側の骨組みに当たって、カンと乾いた音を立てた。
どこかで氷室が呼んでいる声が聞こえた。
懸命に目を開けて彼の姿を探すが、見当たらない。代わりに、眼下には桜井を抱えて下りてゆく奥田がぼやけて見えた。
「……桜井さん、よかった」
呟いた刹那――体がふわりと浮いた。