表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/14

出動

 終業時刻になった。本日の飲み会の会場は駅ビルの屋上にあるビアガーデンだ。現地集合ということで、奥田たちは先にプレハブを出て行った。愛子は自席に座ってパソコンをいじる氷室を見た。彼は今日の飲み会を欠席するのだそうだ。河合が誘ったところ、「急ぎの仕事があるから」と断られたと言っていた。急なことだったから、本当かもしれないし、また、嘘かもしれない。いずれにしても、もう愛子には関係の無いことだ。さっき、彼の事には好奇心を持ったりしないと、本人に約束したばかりだ。

愛子は嘆息すると、着替えるために本館の女子更衣室に向かった。

 本館三階への階段を上がり、女子更衣室のドアに手をかけると、中から笑い声が聞こえた。愛子は一瞬躊躇った。桜井や、以前愛子のことを陰で悪く言っていた営業課の女性たちが居たら嫌だなと思ったのだ。

 ぐずぐずしているうちに、背後からヒールの音がした。もうひとり来てしまったようだ。振り向くと、桜井だった。

「あら、上田さん、お疲れさま」

 相変らず気持ち悪いほどに機嫌が良さそうだ。彼女は愛子を促して、女子更衣室に入って行った。

 二人そろっての登場に、中でくつろいでいた女性三人が一斉に口をつぐんだ。飯田を挟んでの愛子と桜井のトラブルは、女子社員たちの間で知らぬものは居なかったから、きっとビックリしたのだろう。まあ、トラブルと言っても、真相は桜井が一方的に誤解して突っかかっていただけなのだが。

「お疲れさま。あら圭子さん、素敵なアクセサリーね」

 桜井はヒールを脱いで畳敷きの室内に入ると、三人の女性のうちの一人に声をかけた。

 声をかけられた圭子は、曖昧に笑って胸元のネックレスを握り締めた。

「それ、ダイヤでしょう? 圭子さんのは、何カラット?」

 圭子は桜井の問いには答えず曖昧に笑うと、そそくさとバッグを手に取った。他の二人も慌てて身支度すると、逃げるように更衣室を出て行った。

 彼女たちの様子がおかしいのは、自分のせいか、桜井のせいかわからないが、あまり気持ちの良いものではない。チラリと桜井を見ると、彼女は全く気にならない様子で姿見の前に立って髪を整えだした。愛子は彼女の耳元の輝きに目を奪われた。

「あ……。ピアス、開けたんですか?」

 桜井は満面の笑みで振り返った。

「やだ、気付いた?」

 桜井は頬を染めて自分の耳元に手をやった。愛子の記憶では、つい先日まで彼女は耳に穴を開けていなかったと思う。ピアスの宝石はダイヤのように見えるがけっこう大きい。ひょっとしたらキュービックジルコニアかもしれないが、そんな事は訊けない雰囲気だった。

「これ、彼からのプレゼントなの」

 そう言って、桜井はうふふと笑う。

「か、彼氏、出来たんですか?」

 愛子は目を大きく見開いていた。飯田のことで怒鳴られてからまだそれほど日数は経っていない。

 桜井は顔をいっそう赤くして頷いた。

 ああ、だから機嫌がいいんだ……。

 愛子は納得した。なんて単純。でも、そんな桜井は女性から見てもとても可愛い人だと思った。自然と愛子の口元にも笑みが形作られてゆく。桜井は耳元をいじりながら、さらに驚くことを告げた。

「私、もうプロポーズされたのよ」

「ええ?」

 ちょっと、早くないか? それに、耳に穴を開けていない女性に、いきなりピアスをプレゼントするなんて、相手の男性はかなり強引な気もするが?

 思わず出そうになった言葉を、愛子は必死に飲み込んだ。

「彼とはね、パーティーで知り合ったの。外資系の商社に勤めていて、秋にニューヨーク支社に転勤するから、私に一緒に来て欲しいって!」

 桜井は鏡の中の自分自身に向かって、いとも幸福そうに微笑んだ。

「パーティー……?」

 ひょっとして、合コンというやつではないのかと思ったが、口をつぐんでいた。水を差すようなことを、言うもんじゃない。

 運命の出会いだったのよ、と桜井は瞳を潤ませて愛子を見た。

「じゃあ桜井さん、会社辞めちゃうんですか?」

 尋ねる愛子に、桜井は人差し指を立てると艶やかな唇に当てた。

「実は総務課長にはもう退職願を出してあるの。もう少ししたら皆に言おうと思ってるから、それまでは秘密にしておいてね」

 愛子は頷きながら、心の中でホッとしていた。桜井が退職してしまうのは寂しいが、彼女とのわだかまりが無くなったことは、何よりも嬉しい。それに、これはとてもおめでたい話だ。

 彼女はもっと彼氏の話を聞いて欲しそうだったが、愛子は「飲み会があるので」と言って先に更衣室を出た。

「結婚か。羨ましいな」

 階段を降りながら、愛子は自分のウェディングドレス姿を思い浮かべた。バージンロードを歩く、白いドレスの小柄な少女。胸元には胡蝶蘭のブーケ、たっぷりのレースで飾られたベールが、ステンドグラスからの陽射しで虹色に輝く。遥か前方にタキシードの男性の後姿がある。一歩一歩近付くと、男性が振り返って……。

 ビイイイイイイイイイイイ!

 けたたましいブザーの音で、愛子の妄想は破られた。基線事故の警報だ。管轄内のどこかで、停電していることを知らせる合図である。事故停電は電力会社にとっての非常事態だ。

 階段を駆け下りると、一階の営業課フロアで一斉に電話が鳴り出していた。現在の時刻は午後6時過ぎ。世間は夕飯時だ。事故点がどこだかわからないが、一般家庭はまだしも、営業中の店舗での停電は死活問題だろう。

 定時を過ぎているため、半数の社員しか残っていないフロアで、全部の電話が鳴り響く。

「電話回線をしぼれ! オートアンサーに切り替えろ!」

 営業課フロアの中央で、営業課長が怒鳴っている。

 愛子は営業課に飛び込んだ。

「いったいどこが止まってるの?」

 あたふたと電話応対する社員の間をぬって、手元にある受付メモを次々に覗き込む。苦情客の住所を確認してゆくと、どうやら停電は駅周辺らしいことがわかった。

 駅周辺は繁華街だ。ファッションビルや大型電気店などが軒を連ねている。

 愛子は大急ぎでプレハブに走って行った。

 工事課の事務所内では、すでに当直の者が現場へ向かう準備に追われていた。氷室が配電系統の業務画面を見ながら指示を出している。

「主任、現場は駅周辺らしいです。何かお手伝いすること、ありますか?」

 氷室は大きく頷くと、河合たちを呼び戻すようにと言って、彼女に係の電話番号簿を手渡した。

 とにかく基線事故は緊急事態だ。一分一秒でも早い原因究明と復旧を求められる。人員が足りないときは呼び出し出来るように、各個人の携帯電話番号を上司が控えてあるのだ。

「河合さん、もう飲んじゃってるかもしれないよ」

 電話を掛けると、河合はいきなり停電について尋ねてきた。

「どうして知ってるの?」

 問い返すと、現在店の照明が消えており、あたりは真っ暗だと彼は言った。

「屋上ビアガーデンから見た限りでは、かなりの軒数が止まってるみたいだけど?」

 彼の言葉に愛子は納得した。河合たちは今停電地帯の駅ビルに居るのだ。彼の電話を通じて消防のサイレンが聞こえてきた。

 無線台に緊急のランプが点いたので、愛子は電話を切って走った。いつものチャンネルではなく、外部からだ。

「帝都K、感アリどうぞ」

『えー、こちら消防です。K駅裏手で火災発生、高圧線から火花出てます』

 隣に氷室の気配がした。彼は険しい顔で無線に聞き入っている。たった今、サイレンを鳴らして当直組が出動して行った。

「主任、河合さんたち駅ビルです。直接現場に行ってもらいますか?」

 氷室は頷くと、彼らの作業着一式を用意するように言って、自分も現場に出る仕度を始めた。

 突然の緊急事態に、帰ったはずの工事長が配電課長と共に戻って来た。何故か相良みつ子女史率いる配電課のメンバーも一緒だった。プレハブ内が一気に騒がしくなった。

「いやあ、驚いた。国道沿いの店で飲んでたら、いきなり停電したから戻ってきたよ」

 工事長は上着を脱ぐと、どこかへ電話を掛け始めた。どうやらこの近辺の送電線を扱う工務事務所に連絡を入れているようだった。

「高圧線が断線ですって? 大変だわ」

 相良みつ子女史が、無線台の隣の氷室の席に向かうと、パソコンに表示されている配電系統の画面を見詰めた。

 これは後から聞いた話だが、高圧線にトラブルがあると、本店直轄の系統制御室で事故点付近の通電を自動的に遮断する仕組みになっているのだ。ただ、その範囲は非常に広いため、一気に数千軒が停電する。その後現場を確認しながら、関係の無い箇所から順に手動操作で送電を再開してゆくことになるのだそうだ。

 駐車場に出て河合たちの作業着や工具一式を作業車に積んでいると、氷室が走ってきた。

「あ、主任積み込み終わりです。もう車出せますよ。私は無線に居ますね」

 愛子は氷室に車のキーを手渡すと、プレハブに戻ろうとした。

「待って!」

 鋭い口調で呼び止められた。振り返ると、駐車場の照明の下、氷室が一歩、二歩近付いてきた。

「氷室……主任?」

 彼は一瞬思い詰めたような顔をしたが、愛子の肩に手を乗せると言った。

「無線は、相良さんにお願いしました」

「へ?」

 首をかしげる愛子に、氷室はたった今渡したばかりの車のキーを戻すと言った。

「上田さんも出動です。この作業車は普通免許で運転できます。すぐに着替えて現場に行ってください。河合たち、一杯飲んでしまってるから、現場で車輌を動かす人間が必要なんです」

 愛子は息を飲んだ。いくら普通免許で運転できるといっても、目の前にある車輌は自宅の1500ccや軽トラックと違って車高も高いし車幅も大きい。しかも辺りは真っ暗だし、現場は人も車も多い繁華街だ。停電してるということは、ひょっとしたら信号機も機能していないかもしれない。そんな状況で、現場に着く前に事故ってしまったらどうするのだ?

「しゅ、主任は?」

「俺は大型のバケット車で先に出る。キミはもう単独運転できるんだ。自信を持ってやってください」

「で、でも……」

 愛子は頭の中が真っ白になってしまった。初出動がこんなに急にやってくるなんて。

 どうしよう、どうしよう!

うろたえる愛子の視界が、青い作業着一色になった。

 え……? 何?

 両肩に置かれた温かな手のひらの感触に、心臓が大きく打った。ゆっくり顔を上げると、驚くほど間近に氷室の日に焼けた顔がある。

「大丈夫だから」

 愛子の両肩をぎゅっとつかむように引き寄せて、氷室が力強く言った。

「大丈夫だから。キミは立派な工事課の一員だ。俺が一から指導したんだ。なんだって出来るって」

 氷室が愛子の目を真っ直ぐに見下ろして言う。愛子の心拍数が一気に跳ね上がった。切れ長の瞳と整った鼻筋、少しヒゲの伸び始めた頬の辺りから形の良い唇へ目線がさまよう。

 彼の口元から目が離せなくなって、愛子はさらに混乱した。

 ――あたしのバカ! 何考えているの?

 彼の声を間近で聞いて、脳みそが勝手にロマンチックな錯覚を起こしそうになる。何とか自分を落ち着けようと、懸命に深呼吸を試みたが、実際には池の鯉みたいに口をパクパクさせただけだった。

氷室は何を勘違いしたのか、いっそう強く愛子の肩をゆすぶって、「大丈夫だから自信を持て」と繰り返し、さらに顔を近づけると愛子の瞳を覗き込んできた。愛子はギュッと目を閉じた。こんな状態で、大丈夫なはずがない。

 運転のことだけでも精一杯なのに。どうしてこんな時に、こんなことするの? さんざん泣いて、懸命に自分の気持ちに折り合いをつけようと努力したのに。

 こんな風に真っ直ぐに見つめないで欲しい。ひょっとして彼は、自信のなさそうな部下を励ましているつもりで居るのだろうか? 

「出来るね?」

 促されるままにガクガク頷くと、彼は満足した様子で大型車の方へ走って行った。

 車に乗り込む氷室を見送って、愛子は大きく息を吐いた。頬が熱くて、鼓動が有り得ないほどに大きく鳴っている。

 彼女はプレハブの建物に背を向けると、作業着に着替えるために本館にダッシュした。


 ヘルメットを被って出動しようとする愛子を、工事長が呼び止めた。

「上田さん、氷室くんは任せて大丈夫だって言ってたけど、本当に平気かい?」

 そっか……。本当に信頼されてるんだ、あたし。

 愛子は頷くとプレハブを出て駐車場に向かった。

「作業員としての初仕事、頑張らなくっちゃ」

 帝都電力前の道路を、パトカーが行き過ぎた。基線事故の原因は三台玉突きの交通事故で、その最後尾の大型クレーン車が、横転した際に電柱をなぎ倒したらしい。事故車から火が出たとも聞いているが、死者が出たかどうかは不明だ。現場はよっぽど線路際なのだろうか、現在電車も止まっているとの情報が入っていた。

「おチビ!」

 車に乗り込む寸前で、今度は飯田に呼ばれた。彼は駐車場に面した本館の非常階段から叫んでいた。

「一人で出るのか? 氷室、居ないのかよ」

「そうよ」

 早く出なければならないのにと、少々焦りながらぶっきらぼうに答えた。

 飯田は階段を駆け下りながら言った。

「一緒に行ってやるよ。オレがついてってやるから」

「ええ?」

 愛子は瞳を見開いて彼を見た。運転は自分でやるとしても、助手席に飯田が居てくれたらどんなに心強いか。いつものことだが、どうして飯田はこんなにタイミングよく声をかけてくれるのだろう。

「一人でなんて、ムチャするな。オレが……」

 駆けてくる飯田を見てハッとした。

 また、彼に頼るのか? さっき氷室に見つめられたことを思い返す。

 ――大丈夫だから。

 氷室は任せてくれたのに、また自分は飯田に頼ろうとしている。氷室の信頼を得たというのに、一人でやれなくてどうするのだ?

 本館の階段にもう一つの人影が現れた。

「飯田さん、課長が営業課の電話応援に行けって言ってますよ」

 若い男性の声は、料金課の新入社員らしい。飯田は足を止めて振り返りざまに怒鳴った。

「うるせェ! おまえこそさっさと行け!」

 飯田が新入社員を叱り飛ばしている間に、愛子は運転席に乗り込んでエンジンをかけていた。ここで飯田に頼ったら、氷室の信頼を裏切るような気がした。

 エンジン音に飯田が振り向いた。

 愛子はウィンドウを下げると、飯田に向かって手を振った。

「飯田くん、ありがとう。でも、一人で行くよ。氷室さんに言われたとおり、きっちりと自分の仕事、自分でやるから」

 愛子はゆっくりと作業車を発進させた。

「愛子!」

 飯田が走ってきて運転席のドアを叩く。

「飯田くん、行ってくるね」

 彼に笑顔を向けて、ドアをロックし、窓を閉めた。

『おチビ』ではなく、『愛子』と呼んだ飯田の声に、何だか励まされた気がした。


 駅周辺はひどい渋滞だった。愛子は緊急時に鳴らすサイレンのスイッチを入れた。一般車が開けてくれた隙間をぬって進むのは、物凄く神経を使った。現場周辺はやはり信号も点灯しておらず、警察官が出て人や車を誘導している。

 事故現場を封鎖するために、通行車両を迂回させている警官に、愛子は大声で言った。

「帝都電力です、事故現場に入れてください」

 警官は、女性の声に驚いたようだったが、親切に誘導してくれた。

「ああ、電力さんね。この先五十メートルが現場ですよ。気をつけて」

 サイレンを鳴らして駆けつけると、待ってましたと言うように河合たちが手を振って走ってきた。彼らは運転席の愛子と、誰も乗っていない助手席を交互に見て目を丸くした。

「あ、愛子さん、単独で?」

「この混雑の中、よく事故らなかったな」

 ああ、やっぱり一人で頑張ってよかった。心からそう思った。


 事故現場はひどい有様だった。踏切のすぐ横で事故があったらしい。ケガ人はすでに救急車で運ばれたようだが、つぶれた二台の乗用車と横転したクレーン車が見事に電柱を折っていた。クレーン車が横転した際に、線路の上を通っている電線を引っ掛けたようで、二本あるうちの一本が断線して線路内にぶら下がっていた。事故車の火災はとりあえず鎮火している様子だったが、辺りはまだ騒然としており、くすぶった煙とゴムの焼けたような臭いとが立ちこめている。消防と警察が交通事故のほうの処理をする傍らで、帝都電力の青い作業着を着た男たちが線路内で作業を始めていた。

 愛子は河合たちに付いて、折れた電柱のそばへ行こうとした。

「上田さん」

 消防の人と話をしていた氷室が駆け寄ってきた。

「主任、私、ちゃんと一人で来れました」

 愛子は嬉しくてちょっと大きな声で言った。褒めてもらえることを期待していると、氷室は険しい顔をした。

「配電系統が混乱しているから、二次災害の恐れがあります。危険だから、上田さんは車のところで待機してください」

「え? 私も何かお手伝いさせてください」

 せっかく来たのに、これじゃあ何の役にも立たないじゃないか。

「電気工事士の資格、持ってないでしょう? それに、女の子があぶな……」

 言いかける氷室を遮って、愛子は訴えた。

「私だって工事課の一員です。さっき主任がそう言ったじゃないですか!」

「そ、それは……」

「資格が無くたって……、女の子だって、雑用ぐらいは出来ます」

 氷室は黙ってしまった。彼は鷹の眼差しでじっと愛子を見下ろしていたが、奥田に呼ばれて彼女から顔を背けた。愛子は逃れるように踵を返すと、作業を始めた河合の元へ走って行った。

 氷室さんのバカ! 言ってること、おかしいよ。こんなときばっかり、女の子だからとかって、どういうことなの?

 宙ぶらりんの自分が嫌だったし、それをどうしていいかわからない様子の氷室にも腹が立った。


 最優先作業で線路内の電線を回収、張替えすると、間もなく止まっていた電車が運転を再開した。撤去したケーブルを巻き取っていると、河合が声をかけてきた。

「愛子さんご苦労さま。主任がお呼びだよ」

 顔を上げると閉まりかけた踏切の反対側から氷室がじっとこちらを見ていた。通過する列車の隙間から見えた顔は、怒っているように感じた。彼の指示を無視してずっと河合たち一班と行動を共にしていたのがいけなかったのだろう。愛子は巻き取った長いケーブルを肩に担いだ。思っていた以上に重くて足がよろけた。踏切が開くと、愛子は歯を食いしばって氷室の方に歩いて行った。廃材用のトラックは彼の背後の路肩に止めてある。

 トラックを目差してすれ違いざまに会釈だけすると、担いだケーブルをむんずとつかまれて転びそうになった。

「上田さん、復旧の目処がたちましたから、もう帰社してください。そして、そのまま家に帰ること。わかった?」

 愛子は氷室を睨み上げた。確かに電車は動き始めたけれども、折れた電柱はそのままだし、電柱に張られていた電線の架け替えもまだ終わっていない。商店街の一部も停電したままで、なにより、作業員は誰一人帰されてはいない。

「どうして? あたしだけ帰れなんて。まだみんな働いているのに、一人だけ帰るなんて。 あたしは……」

 すると氷室は廃材用のトラックをチラリと見やった。つられて見ると、トラックの後ろに帝都電力のロゴ入りの軽自動車がとまっており、運転席に飯田の横顔が見えた。

「飯田くん、なんで?」

 どうして料金課の飯田がここに居るのだろう? 目を瞬かせて氷室を見上げると、彼は無表情に言った。

「工事長の命令です。管理職でない婦女子の深夜労働は、服務規程に定められていません」

 そんなのって、あんまりだと思った。「作業員として頑張って」と言っておきながら、結局女だからという理由で帰されるなんて。

「でも、なんで飯田くんが?」

 ショックを受けながらも懸命に声を出す。氷室は相変らずの無表情で言った。

「彼には、俺が頼んだ。キミを迎えに来て欲しいと、俺が頼んだんだ」

 ――俺が頼んだんだ。

「でも、どうして? 相良さんは居なかったんですか? 工事長は?」

 誰でもいいのに、どうしてよりによって飯田になんかに頼むんだろう?

 氷室は彼女の肩からケーブルを取り上げるとそれを無造作に自分の足元に放った。幾重にも重なる輪のような黒い線をじっと見ている愛子に、氷室は大きめの声で「ご苦労さまでした」と言った。彼の声に反応して、近くで作業していた数人が同じように「ご苦労さまでした」と声をかけてきた。周囲から挨拶されてしまい、帰るしかなくなってしまった。皆に頭を下げると、愛子は氷室の脇を小走りで駆け抜けた。悔し涙が込み上げる。

 やっぱり自分は認められてはいなかった。その事実にショックと共に不安がつのる。業務上の車輌認定に受かって、氷室に言われた仕事をしたけれど、それだけのことだ。結局、皆と同じようには見てもらえないのだ。この先大型免許を取って、電気工事士の資格まで取れたとしても、また同じような扱いを受けるのではないだろうか。

 結局、工事課に女性はいらないのかもしれない……。

 誰にも見られないように作業服の袖口で目元を拭いながら、軽自動車の助手席に乗り込むと、飯田は無言で車を発進させた。今しがたのやりとりを思い返してぼんやりしていた愛子は、赤信号で止まったときようやく思考が動き出した。

「あの、飯田くん。……わざわざありがとう」

「ああ」

 愛子の言葉に、飯田は不機嫌そうに返事をする。いつもと違う様子に改めて運転席を見ると、彼は眉間にシワを寄せていた。関係のない業務を言いつけられて、きっと迷惑しているのだろう。

「ごめんね。こんな時間に……」

 車内のデジタル時計は午後十時二十五分と表示されていた。青信号になり車を走らせながら、飯田はため息と共に言った。

「お前はカンケーねぇよ。気に入らないのは氷室だ」

 愛子はヘルメットを取ると、額に貼り付いた前髪をひっぱった。自分の自己満足の為に居残ったばっかりに、また氷室に気を使われ、飯田にまで迷惑をかけてしまった事に気付く。

「あたしが……あたしが氷室さんの言うこと聞かなかったから。彼の命令を無視したの。だってあたしは……」

 俯く愛子の頭を、飯田はいつものように軽くポンポンと叩いた。

「違うって。俺はもっと別のことで言ってるの」

「別のこと?」

 飯田は、愛子が軽トラックで高速に乗った件を持ち出した。

「氷室が夕方俺のところに来てさ……。俺絶対叱られるって思って身構えたら、頭下げられたんだ」

 は? 愛子は意味がわからず首をかしげた。

「お前のこと、かばってくれてありがとうって。なんかムカついちまった」

 あいつから礼を言われる筋合いは無い、と飯田は吐き捨てるように言ってそっぽを向いた。愛子は混乱する頭で彼の言葉を聞いていた。飯田はさらに憮然とした顔で続ける。

「今回のお迎えだって……氷室、妙な言い方しやがって」

「妙な言い方?」

「ああ、『上田さんのことは、キミのほうがいいんだ』とか言ってさ。あいつ完全に勘違いしてるし。『バカじゃねぇの?』って怒鳴ってやろうかと思ったぜ。めちゃめちゃプライド傷ついた」

 なんで飯田のプライドが出てくるのかわからないが、彼はそれきり口をつぐんでしまった。

 愛子は黙って自分の膝に目を落とした。これが、「好きだ」と告白したことに対しての答えだと思った。やっぱり迷惑だったのだ。だって、彼は愛子を飯田に押し付けたのだから。

 沈黙のまま、車は深夜の国道を走り、間もなく帝都電力の駐車場に着いた。

「飯田くん、どうもありがとう」

 ぺこりと頭を下げる愛子に、飯田はいつものへらへらした顔に戻って言った。

「あいつの、敵に塩を贈るような態度は不服だけど、気持ちはわからないこともない」

 どういうことだろう?

 キョトンとしていると、早く工事長に挨拶して着がえて来るように急かされた。

「氷室の命令だ。業務車でお前を自宅まで送ってから直帰するように頼まれてる。ここで待ってるから」

 いつもの笑顔で言われて、愛子は急に力が抜けるような感覚に襲われた。今日はとても長い一日だった。あと数時間したら、また会社に来なければならないのだと思うと、もう何かを考えるのは面倒臭い。愛子は飯田の言葉に素直に従うことにした。


「おい、着いたぞ」

 体を揺すられてハッと目が醒めた。車に乗った途端に寝てしまったらしい。

「あれ? 飯田くん、何であたしんち知ってるの?」

 助手席側には見慣れた我が家がある。

「一応、この辺りまで管轄内だし。それに前にタクシーで送ってやったじゃん」

 欠伸を噛み殺している愛子に、飯田はふて腐れたような声で言った。

 そうだった。どうも飯田には今後も頭が上がりそうにないほどの借りがあるなと気付く。

「そ、そうだね。いつも……ごめん。この埋め合わせは必ずするからさ」

 本当はもっと感謝しなきゃいけないのかもしれないが、体力も気力も限界である。助手席のシートベルトを外してドアに手をかける愛子に、飯田が少し大きめの声で言った。

「お前さあ、もう頑張るのやめろよ。氷室とか工事長とか、それから相良のおばさんにも、いいように利用されてるじゃん」

「え?」

 飯田の言葉がきちんと頭に入ってこなくて、愛子はドアから手を放すとゆっくり振り返った。

「利用されてる? あたしが?」

 飯田は頷いた。彼の言うには、会社は男女雇用の均一化で女性作業員の実績を作りたいらしい。現時点で愛子を含めて会社全体で十三名の平の女子作業員が居るのだそうだ。

「へえ、そうなんだ。飯田くん、良く知ってるね」

 単純に飯田の知識に感心していると、彼は愛子の肩をつかんで言った。

「でも、お前以外は全員工業科や専門の学校を卒業して入社した人だって話だ」

 わからない。飯田が何を言いたいのか、例え頭がぼうっとしていなくても、わからない。

 愛子はつかまれた肩先を気にしながら尋ねた。

「あたしだけ、普通の女子社員だってこと?」

 それがいけないことなのだろうか?

「お前が……お前が氷室のために頑張ってるのはわかる。けど、専門知識が無い奴が手出しできる職場じゃないだろう? 今日だって、そうだったんじゃねぇの?」

 肩をつかむ飯田の手に力が込められ、愛子は一気に眠気が醒めた。ひょっとして、飯田はどこからか見ていたのだろうか?

「な、なんでそんなこと、言うの?」

 まるで心の奥を覗かれたようで、落ち着かない気分だ。

 飯田は愛子の肩から手を離すと、エンジンを切って窓を開けた。愛子はチラリと灯りの消えた自宅を振り返った。あと数十分で日付が変わろうという時刻に、自宅前で男性と二人で何をやっているのだろう? それも(一応)密室で。

 彼は愛子の仕草に気付いたようだった。

「ごめん、こんな時間にお宅の前で。だけど、どうしても言わなきゃいけない気がして」

 さっきから、いったい何なのだ? 

「飯田くんの言いたいこと、よくわからないんだけど?」

 疲れているところに訳のわからないことを言われ、少々不愉快な気持ちだった。

「あたしが作業員の仕事に携わるのが、いけないことなの?」

「お前、早く言えば実験台なんだよ」

「は?」

「一般の女子職員にどこまでやらせるか、そういった意味で、会社はお前を基準にしようとしてる」

 そんな話は、氷室から聞いた気がする。皆が注目しているとかなんとか。専用シャワーの話をしたときだったように思う。

「女性の職域拡大のためだからって話なら、聞いてるよ。後に続いてくれる女性の後輩が出来たらいいなって思うよ。それがなに?」

 飯田は一瞬黙って愛子の顔を見ると、言いにくそうに口を開いた。

「俺の前で建前みたいなこと言うなよ。おチビはさぁ、工事課の仕事がしたいんじゃないだろ? 氷室に認められたい、そばに居たいって、それだけのために頑張ってるんでしょう?」

 図星を指され、愛子は大きく息を飲んだ。

「工事課の仕事は本当に危険と隣り合わせだ。いつ感電死亡事故にあうか、墜落事故にあうか。そんな中で、仕事に対する熱意があればまだしも、お前、動機が不純なんだよ」

 まったく返す言葉が無かった。俯く愛子に、飯田は少し柔らかい声で言った。

「氷室に対する気持ちがいけないわけじゃない。だけど、他の十二人の女性たちとじゃ、あきらかに違うんだよ。仕事に取り組む姿勢とか、そういうの。いろんな事わかってて取り組むのと、そうでない奴との差っていうのかな」

「あたしが、いいかげんだと?」

「そうじゃないよ。だけど、やっぱり俺はお前が心配だ」

 何だか彼の声が震えているような気がして、愛子はゆっくりと顔を向けた。飯田はフロントガラスを見詰めたまま胸ポケットからタバコを取り出した。彼の横顔には何の表情も浮かんでいない。そのことに、何故だかホッとしてしまう。

「友達として、忠告してくれてるんだよね?」

「……まあな」

 飯田の優しさに感謝しつつ、再び車を降りようとドアに手をかけたとき、飯田が口を開いた。

「氷室は、前に部下を一人再起不能にしてる。あいつは加減を知らないから、ムチャな指示出すらしいという噂を聞いた。だから余計、お前のことが心配なんだ」

 愛子は自宅前に佇んで、帝都電力の軽自動車を見送った。角を曲がってテールランプが見えなくなったのに、その場から動くことが出来なかった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ