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作業着のOL

 完全に遅刻だった。いや、遅刻という表現は間違っている。会社の始業時刻は八時四十分で、今はまだ七時三十分なのだから。でも、愛子の中では、今この時間に電車に揺られているという事が有り得ない事態だった。いつも七時三十分には自分の部署に居るというのに。

 定期の期限が昨日で切れることは、昨日の朝の段階では気付いていた。でも帰りにはすっかり忘れてしまっていたのだ。今朝最寄り駅で自動改札にタッチした途端にブザーが鳴り、ゲートが閉まった。あれほどバツの悪い事はない。後ろに居た大勢の人が、ぞろぞろと別の改札へ散らばってゆく。時折チッと舌打ちする者も居た。

 仕方ないじゃない、わざとじゃないんだから!

 心の中で叫びながらようやく定期を購入し、あわてて飛び乗った電車は、いつもよりもずっと遅い時間で、いつもよりずっと混んでいた。

 電車が駅に到着した。先を争うように降りるサラリーマンやOLと共に、愛子は混雑するホームに吐き出された。むっとする熱気に、早くも背中が汗ばんだ。ラッシュで乱れた髪を撫で付けながら、駅の階段を小走りに降りる。降りながらバッグのポケットに手を突っ込んでむき出しの定期券を引っ張り出した。自動改札のパネルにタッチし、開いたゲートを通過してホッとする。

 早歩きで駅を出ると、人波を追い越しながら大通りをめざす。歩行者用の信号機が点滅し始めた横断歩道を一気に駆け抜けた時点で、ようやく愛子は歩みを弛めた。駅から会社まではバスで停留所三つ、急ぎ足で仲通りを行けば二十分弱の道のりだ。この分なら八時前には着くだろう。

 国道を右手に見ながら、大きな公園の角を左折する。びっしり植わったつつじの生垣の一箇所に、人が通れる隙間が開いているのは、この道を利用する人の大半が知っている。そこから公園内を一気に突っ切ると、かなりの時間短縮になるのだ。愛子は植え込み伝いに歩きながら例の通り道を探した。冬場はすぐに見つけられたが、季節は夏。つつじはいつの間にか花を散らし、濃い緑の葉を増やして秘密の抜け道を隠そうとしている。

 愛子は強引に隙間を通り抜けた。シュッとふくらはぎに枝が擦れる感触がした。嫌な予感に立ち止まって、フレアスカートの裾をちょいと摘まむ。右のふくらはぎを見ると、見事にストッキングが伝線していた。急いでいるときに限って、こんな事があるのだから、本当に嫌になる。

 公園を突っ切り、最近整えられた遊歩道をせかせか歩くと、緑眩しい桜並木の向こうに会社の看板が見えてきた。

『帝都電力』

 東証一部上場の一流企業と人は言う。電力を使わない生活なんて有り得ないから、関東一円に電力事業を展開している帝都電力は、公共性の高い優良企業だ。従業員総数四万人、下請け、協力会社を併せると、いったい何人の人間が働いているのか、入社二年目の愛子には見当もつかない。この就職難の時代に、そんな大企業に入社できた事自体が奇跡に近いと父も母も言うが、愛子は違った。

 入社して一年三ヶ月、今の職場に配属されてもうすぐ一年、思うことはいつも一つだった。

 ――いっそ不合格にしてくれればよかったのに。

 社員通用口のセキュリティロックに自分の社員証をスキャンすると、カチリと音がしてロックが解除された。するりと滑り込んで、右手の階段を一気に三階まで駆け上がる。女子更衣室の扉を開けると、すでに先客が居た。高さ五センチの黒いヒールがきちんと揃えてある。愛子は息を弾ませながら畳敷きの更衣室に上がりこんで、先輩社員に挨拶をした。

 化粧を直しながら振り向いた女性は、驚いたような顔になった。

「上田さん、どうしたの? 今日は随分遅いね」

「はい、ちょっとトラブルで……」

 愛子は言葉少なに言って制服に着替え始めた。いつも早めに出勤するのは、誰にも会いたくない、というのも理由の一つだった。幸い今更衣室に居るのは自分と桜井園子だけだ。桜井なら、二十名ほど居る女子社員の中では、気心が知れているほうなので、他の誰に会うよりましだった。破れたストッキングを脱いで、紺色の作業ズボンに足をとおす。ちらりと横を見ると、桜井と目が合った。

 彼女はふっと視線を逸らすと、紺色のタイトスカートの埃を払う仕草をした。長いストレートの髪がはらりと胸元に落ちる様子に思わず見とれてしまう。白い制服のブラウスに企業のマーク入りの赤いリボンタイが目立つ。

 ロッカーから事務員用のグレンチェックのベストを取り出して羽織ると、桜井は化粧ポーチの入った小さなブランド物のバックを手に、優雅な仕草で更衣室を出て行った。

 愛子はため息をついていた。同じ事務職として採用されているのに、どうして桜井や他の女子社員と自分は違うのだろう?

 愛子は、ロッカーから自分に支給されている制服を取り出して顔をしかめた。黒いTシャツの上に制服を身に付けて、誰も居ない更衣室の姿見に自身の姿を映してみる。作業ジャンパーに作業ズボン。先ほどの桜井と同じ会社のOLとは到底思えないスタイルだ。愛子は鏡に近付いて、長めの前髪を黒いヘアピンで留めた。

「早く伸びないかな、髪の毛」

 この事業所に配属された当事はショートカットだった髪は、ようやく肩口まで伸びたが、まだまだこれでは納得がいかない。紺の作業ズボンは、ストッキングが破れた今日に限ってはありがたかったが、野暮ったくて裾も長くて、愛子は今の自分の姿が大嫌いだった。上に羽織った紺のジャンパーも、まったく愛子の体には大きすぎた。先ほどの先輩社員、総務課の桜井に頼んでサイズ変更をお願いしているが、一向に品物は届かなかった。

「私も、本社の方に催促したんだけどね、上田さんのサイズは小さすぎて規格外だから時間がかかるんですって。ごめんなさいね」

 いたわるように言われてしまい、それ以来もう催促できなくなってしまった。あれから何ヶ月経ったのか。きっと桜井は忘れてしまっているに違いない。

 せめて中に着るものだけは可愛くしようと、ピンクのTシャツを着ていたら、つい先日、相良副長に叱られた。

「いくら内勤だからって、お客様の目に触れる可能性があるのだから、中のシャツも白、あるいは黒か紺にしなさい。まったく今どきの若い子は、常識が無い……」

 相良の言葉を思い出して、愛子は唇を噛んでいた。 

相良みつ子はこの事業所でただ一人の女性の管理職だ。推定年齢は五十代前半、本来なら女子職員の代表になって職域拡大の先陣を切って男性職員と戦って欲しいと皆思っていたが、最近ではそんな事を言う人も居ないのだと、いつか桜井が言っていた。愛子がTシャツのことで叱られたのを聞いたとき、普段は温厚な桜井が、まるで自分のことのように怒ってくれたのを思い出す。

「相良副長は女性とはいえ、中身は男性より男性らしいというか……。おしゃれとか、私たち女の気持ちとかが、あまりわかっていらっしゃらないのよ」

 そう言って慰めてくれる桜井を、愛子は密かに冷めた目で見ていたのだったが。

 再び鏡の中の自分を見つめる。なんだかんだ言ったって、桜井もほかの女子社員も、こんな制服は着ていない。

こんなダサいカッコしてるのは、相良のオバサンとあたしだけなんだから!

 更衣室の外が賑やかになった。八時を回り、ようやく他の女子職員たちが出勤してきたのだ。

 愛子は大きな手提げ袋に貴重品一式と弁当の包みを突っ込んで、運動靴を履いた。かかとをつぶしたままで、愛子は逃げるように女子更衣室を出た。


 階段を一階まで下り、先ほど入ってきた社員通用口から外に出ると、料金課の飯田と鉢合わせした。

「よう、おチビ。あとで仕事頼みに行くから、工事長のご機嫌取っといてくれよな」

 頭の上から物を言う男性社員に、愛子はつっけんどんに言い返した。

「おチビなんて人、ここには居ないよ」

 飯田は長い前髪をかき上げると、一瞬驚いたような顔になったが、「ははは」と楽しそうに笑った。

「んじゃ、愛ちゃんで良い?」

 背の高い飯田は、わざと前かがみになって愛子の顔を覗き込んだ。くっきり二重の奥から、涼しげな瞳が見つめてくる。顔が接近してちょっとときめくシチュエーションと言えなくもない。

が、しかし! 身長百五十センチの愛子と百八十センチを超える飯田では、まるで大人が子供に話しかけるような仕草だった。いつの間にか飯田の顔に見とれていたことに気付き、愛子はうろたえつつ言い放った。

「同期だからって、馴れ馴れしくしないでください!」

 同期と言っても、飯田は愛子より三つも年上だった。短大卒の愛子より三つ上。四大卒でもストレートならその差は二歳のはずなのだ。多分一浪しているのだろう。今どきは珍しい事じゃない。

「いいじゃん、別に馴れ馴れしくしても。同じ作業服仲間ということで……」

「好きで着てるんじゃないわよ!」

 言うなり、愛子は飯田にくるりと背を向けて歩き出した。

「おチビィ、ズボンの裾、めくった方がいいぞ」

 飯田の声を完全に黙殺し、愛子は建物の裏へ向かって憤然と歩いて行った。

 女子更衣室のある本館の裏手に、広い駐車場がある。そこには帝都電力のロゴ入りのトラックや高所作業車、電源車などが何十台も停まっている。作業車の周囲には、愛子と同じ紺色の作業着に身を包んだ男性社員たちが忙しそうに行き来していた。みな若いおにいちゃんばかりだ。男性社員に混ざって、相良みつ子女史の小太りの背中が見えた。相良は愛子と同じ紺の上下の作業着姿だった。しかも、彼女は短い足に皮の半長靴を履いて、ご丁寧にヘルメットまで被っている。恐ろしく似合わない。みっともない事この上ないのに、相良はあのスタイルがお気に入りらしいのだ。まったく、彼女の神経にはついてゆけない。自分の作業着姿も嫌いだったが、相良の姿はもっと嫌いだった。

 彼女は車輌点検の様子を監視しているようだった。車輌点検は、朝のミーティングも兼ねているので、本来なら愛子も参加すべきなのだが、今さらのこのこ出て行って、相良のお説教を喰らいたくはない。

 愛子は見つからないように駐車車輌の間を縫って歩いた。

 駐車場の一画に、プレハブの事務所がある。そこが愛子の部署、工事課だった。雨の日は本館へ行くのに傘を差さなければならない。そんな離れ小島のような部署に、女性社員は愛子一人きりだった。同じ作業着の相良女史は、配電課というところに所属している。愛子たち工事課が現場第一線ならば、配電課は設計や設備管理を担当する管理部門だった。仕事的には密な関係だが、まったく別のグループなのだ。配電課のある場所も、本館の二階なので、このプレハブとは離れている。それなのに、相良はしょっちゅう愛子たち工事課の仕事に口を挟みに来た。若い男の子としゃべりたいから寄ってくるのだ、などという噂があったが、真相は定かでない。

 相良は口うるさいので、彼女と同じ職場になるくらいなら、たとえ離れ小島でも一人のほうがましかもしれない。なんて、かなり虚しい気もするけれど……。

 一年前、新入社員研修が終了してこの事業所に配属になった時は、期待で胸いっぱいだった。数ヶ月間の研修期間は、OLには欠かせない電話応対や接客、電気料金のシステムの勉強やパソコンの訓練を受けた。帝都電力の所有する原子力発電所にも見学に行った。地下に埋設されている電力ケーブルを管理する、地下共同溝の管理施設にも研修に行った。もちろん、東京の一等地にある本社ビルにも足を踏み入れた。そこでは帝都電力の女子職員の制服――白いブラウスに赤いリボンタイ、グレンチェックのベストに紺のタイトスカートのお姉さまたちが忙しく働いていた。

 みな踵の高いヒールをカツカツ言わせながら、近代的なオフィスビルの中を颯爽と歩き回っていた。

「ああ、これがOLなのね」

 愛子はタイトスカートの自分を想像してうっとりした。思えば、この時がすでにOL生活の頂点だったのだ。愛子はキュッと唇を噛んだ。頂点がすぎれば、後は遅かれ早かれ落ちてゆくのみ……。しかも急勾配だった。

 研修が終われば、憧れのOLスタイルの自分がそこに居る! そう信じて疑わなかった。そんな自分が可哀相すぎる。まさか、OLの自分が、作業ズボンに野暮ったいジャンパーを着込む事になるなんて。

 総務課長から配属辞令を受けたときの事がありありと甦る。そのとき愛子は何を言われたのかわからずにぽかんと口を開けていた。

「上田愛子さん、配属は工事課」

「へ?」

 元々事務職として採用された愛子だ。そういう女子社員の配属先は、たいてい接客を伴う営業課か、広報、もしくは電力料金を扱う料金課だと相場が決まっていたからだ。工事課と言えば、電柱に登って作業する現場作業員の居る部署だ。ここに配属されるのは「帝都学園」という、帝都電力の技術者を養成する工業高校の出身者が殆どだった。ちなみに帝都学園は全寮制の男子校だ。

 なんで、普通の短大卒のあたしが……?

 放心状態の愛子に、総務課の桜井が紺色の上下を手渡して言った。

「これが工事課の制服よ。明日からこれを着用してくださいね」

 嫌だ嫌だと思いつつ、時は流れ去り……。

 ――そして一年が経った。


 惨めな思いを振り払うように、愛子はプレハブのドアを開けた。酸っぱいような、独特の臭いが鼻をつく。

「ああ、やっぱり」

 フロアの片隅にある応接セットのソファには、漫画雑誌と空になったスナック菓子の袋が放り出してあった。テーブルの上には店屋物のどんぶりがうず高く積み上げられ、ペットボトルのコーラが半分入ったままひっくり返っている。思わず眉根を寄せた愛子に、中年の男性が声を掛けてきた。

「愛ちゃん、おっはよ」

 愛子の上司である堤主任が、赤ら顔に人の好さそうな笑みを浮かべて近付いてくる。愛子は机を回り込みながら、堤の進路から外れるように移動した。

「主任、この間お願いした事、宿直の人に言っといてくれていないんですか?」

 応接セットを指さす愛子に、堤の顔から笑顔が消えた。代わって叱られた子供のような表情が浮かぶ。

「ごめんね、すっかり忘れてたよ。今度、今度は言うから。全体会議のとき。ね! 自分たちの食べた後片付けも出来ないなんて、社会人たる者、ねえ。うん、言う言う」

 愛子は大きく息を吐いた。もう何度も言っているのに、一向に改善されないのだから、今回も口だけだろう。彼女は黙って応接セットの周囲を片付け始めた。

 工事課の人間は宿直がある。総勢三十五名の現場作業員が七班に分かれて休日祭日関係なく昼も夜もここに常駐している。本人たちの自覚の問題だといつも愛子は思うのだが、若い男の子たちは特に公私混同が甚だしい。夜間作業が無かった時など退屈するのはわかるが、職場の一画をまるで自分たちの部屋のように思っているのだ。漫画本を散らかし、飲み食いしたのも片付けず、時には携帯ゲーム機が放りだしてあることもあったが、上司である堤は寛大なのか面倒臭いのか、まったく注意しなかった。堤より上の職責に当たる佐々木工事長に、個人名を挙げて報告するのは簡単だが、みな愛子より先に入社した先輩だし、第一、直属上司の堤が見て見ぬふりをしている以上、愛子にはもう何もする事は出来ない。放っておけば、きっと上司も堪りかねてどうにかするに違いないと思い、最初の頃は気付かぬふりをして散らかったものをそのままにしていた。しかし、慣れとは恐ろしいもので、鼻につくような酸っぱい残飯の臭いにも誰も何も言わないのだ。そしてこの職場の人間は、時間になると皆現場作業へ赴く為にこのプレハブの建物を出てゆく。がらんとした事務所に残るのは愛子と堤と工事長の三人だけだった。

 どうしていつも私が!

 最近では「もうこれは自分の仕事」と割り切って、早めに出勤して始業時間前に片付けるのが愛子の日課になっているのだった。

 応接セットの床にこぼれたラーメンの汁を拭き取っている愛子を、佐々木工事長が大きな声で呼んだ。佐々木は工事課で一番偉い。

「おーい、上田さん、お茶くれ」

「はーい、ただいまお持ちします」

 愛子は立ち上がると、フロアの隅から新幹線の車内販売のようなワゴンを引っ張って来た。二段あるワゴンの天板には、工事課全員のマイカップ三十八個がずらりと並んでいる。愛子はその中から佐々木工事長専用の湯飲みを手に取った。寿司屋の粗品のような湯飲みは、佐々木の体型と同じでごつくて大きい。

 愛子はその他のカップをいつものようにグループ分けした。お茶グループ、紅茶グループ、コーヒーグループ。コーヒーはさらに砂糖有りと無しに分けなければならない。恒例の、朝のお茶汲み。これが仕事かと問われれば、答えに詰まるのだが、恒例になっているし、頼まれると断れないから仕方がない。

 いらいらしながら陶器をカチャ付かせていると、媚びるように堤主任が擦り寄ってきた。

「愛ちゃん、今日は遅かったね。お休みかと思ったよ」

 彼は決して悪い上司ではない。しかし、年齢のわりには威厳が無いのだ。

「すみません。私だって遅れることぐらいあります。遅刻したわけではありませんから、問題ないですよね」

「もちろん! ただ、無線がさ、僕一人じゃ困っちゃうからね。ポカ休だけは勘弁してよね」

 愛子はぺこりと一礼すると、大急ぎでワゴンを押して給湯室へ行った。


 愛子の仕事は無線指令だ。こう言うとかっこいいが、いつ入るかわからない無線を待って、一日中無線台に座っているのは、退屈な上に苦痛だった。なんといっても困るのはトイレだ。その点堤主任は気さくでよかった。自分の父親とたいして年が変わらないせいもあるし、堤の「好いおじさん」的な笑顔が、そういう事を言い易いのだ。

 このK事業所は、関東でも一番古い事業所で、設備も都内の各事業所とは比べ物にならないくらい古い。今どきは携帯やパソコンが普及しているから、仕事を無線で連絡し合っている事業所は数えるくらいしか無い。もうあと何年かすると、愛子の仕事は無くなるだろうと、陰で女子社員の先輩たちが言っているのを聞いたときには悲しくもあり、またどこか嬉しくもあった。無線指令の仕事がなくなれば、ひょっとして別の部署に異動できるかもしれないからだ。どこの係りがいいなんて、贅沢な事は言わない。ここでなければいい。あの女子社員本来の制服を着ることが出来る場所であれば、どこでもいい。

 無線台に座ってぼけっとしていると、早速一番のランプが点滅した。ランプの下のボタンを押してマイクで素早く応答する。

「帝都一、感あり、どうぞ」

『Aブロックに出向します、どうぞ』

 ザーザーと雨のような雑音が入って聞き取りづらいが、もうすっかり慣れた。

「帝都一、気をつけて作業願います」

『帝都一、了解です』

「願います、帝都K、以上」

 このやり取りを帝都七まで、六班ぶんを繰り返す。ひと班は必ず宿直に当たっているから、朝になると帰宅してしまう。なので、日中は常時六班が活動していることになる。この無線のやり取りは、毎朝の儀式のようなものだ。緊急事態など滅多に無いから、無線の受信具合を点検する程度の役にしか立たない。

「願います、帝都K、以上」

 全ての応答が終了すると、駐車場には作業車が殆ど見えなくなった。愛子はほっと一息ついて窓から室内へと視線を戻した。

「あの、すみません、佐々木工事長はいらっしゃいますか?」

 声を掛けられて振り向くと、出入り口にスーツ姿の若い男性が立っていた。

 この飯場のようなプレハブに来る人間は、下請け会社の作業員か、本館から仕事を頼みに来る社員ぐらいしか居ない。いずれにしても、スーツを着ているような人間は滅多に足を踏み入れる事はないのだ。男性は工事課のフロアをぐるりと見渡した。切れ長の目が鋭い。彼はふと愛子の背後で点滅するランプに目を留めた。

「きみ、無線担当でしょう? 発雷中のランプが点いたら、すぐに現場の作業員に知らせるべきだよ」

「あ……でも、このランプは毎日点灯しているから、別に……」

 彼女はどきりとした。男の言い方は、何だか責めているようだし、妙に業務にも詳しい。若いけれど、ひょっとして、協力会社のお偉いさんだろうか?

 愛子は自分の背後を振り返った。

【発雷中】の表示が点滅しているボードは、管轄内の雷雲の動きを察知して知らせる装置だが、ここ数日はいつも点滅している。「装置が古い上に、夏場は積乱雲が発達しやすいからなのだ」と、堤はたいして気にも留めない。愛子も最近は風景の一部のように見過ごしている。

 彼は、今度は奥の壁に貼ってある本日の作業予定表を指さした。

「活線作業、入っている班があるじゃないか。落雷したら危険だ。早く無線、入れろよ!」

 愛子ははじかれたように動き出すと、活線作業に出向中の三班を呼んだ。

「帝都三、感ありましたら、どうぞ」

 しばらくして、反応があった。

「えー、県南部で発雷中につき、気をつけて作業願います。どうぞ」

 こんな指示、出したことが無いので、何と言ってよいかわからない。受けた方も一瞬戸惑ったような反応を見せた。

『……帝都K、それだけ、ですか?』

 声の主は、いつもソファを散らかす若手のうちの一人らしい。間抜けな反応だ。愛子は開き直って再び繰り返した。

「発雷中につき、気をつけて手持ち続行願います。帝都K、以上」

『………』了解の言葉もなく、無線のむこうが沈黙したままだ。彼らも愛子同様、無線のやりとりは儀式のような感覚でしかない。込み入った事態が発生すると、いつも班の責任者である班長から、堤主任宛に携帯で連絡がくるのだ。それがここ、K事業所の工事課のやり方なのだ。

 マイクに向かったまま固まっていると、背後でスーツの男性が冷たく言った。

「必要事項を伝えたら、さっさと切れ」

 愛子は冷や汗をかきながらスイッチを切った。恐る恐る振り返ると、男性と目が合った。彼は鋭い目つきで何か言いたそうに愛子を見たが、ふっと視線を横に逸らした。

「あの……あなたは、いったい……?」

 言いかけて、愛子の目は男性の右手に釘付けになった。

 ……小指が、無い?

 固まっていると、堤主任がにこにこ顔で声をかけてきた。

「ああ、氷室くん。早いじゃないか」

堤はスーツの男性を応接セットに手招きした。

「あ、いけない!」

 愛子は慌てて席を立ち、応接セットに走った。作業員たちが散らかした漫画雑誌がまだそのままになっている。来客をこんな汚いところに座らせる訳にはいかない。

 あたふたする愛子に、堤は「まあまあ」と呑気に声をかけた。

「愛ちゃん、いいんだよ。今、取り繕ったって、いずれわかっちゃうんだから。それよりお茶を淹れてくれないかな」

「はい、主任」

 愛子は数冊の雑誌を抱えて逃げるように給湯室へ走った。多分、今自分は物凄く動揺していると思う。

 電気の消えている給湯室に飛び込んだ途端にどんと何かにぶつかった。

「あ!」

 抱えていた漫画雑誌が愛子の手から落ちた。よろめいて一歩下がったところに、作業着姿の飯田が振り向いた。彼は落ちた雑誌を拾いながら言った。

「いてぇな、おチビ。下ばっか見てんじゃねぇよ」

 彼の背中にぶつかったのだとようやく気付いた時には、飯田が壁にあるスイッチを押していた。蛍光灯が点灯して狭い給湯室内が明るくなった。一瞬目が眩む。

「なんでここに飯田くんが居るのよ!」

「仕事頼みに行くって、さっき言っただろ。吸ってたタバコ捨てるんで、流しの水使ってただけだ」

 憮然とした表情の飯田を、愛子はまじまじと見上げた。見慣れた彼の顔にホッとする。

 今しがた目にしたスーツ姿の男性が、愛子の頭の中を占領していた。スーツ姿なのに、明らかにセールスマンではない男性は、眼光鋭い猛禽類のようだった。

 ――怖い!

 いったい、彼は何者だろう? あの言い方、目つき、怖い! 怖すぎる!

「おい、おチビ? なんか、顔が変だぞ?」

 目の前で大きな手をひらひらされて、愛子は我に返った。

「そうよ。お茶を淹れるのよ。急がないと」

 そう言って飯田の腹の辺りを押しやった。よろけた飯田が舌打ちする。愛子は彼に構わず、震える手で湯飲みをつかんで、取り落としそうになった。とにかく、落ち着かなくてはと、大きく深呼吸をしてみる。

「おい、何かあったのか?」

 飯田が何かを察したように問いかけた。愛子はちらと飯田を見て、小声で言った。

「なんか、怖い人が居て……」

「怖い人?」

 愛子はもう一度大きく息を吐くと、飯田に向き直って小指を立てた。

「小指が……無いの。目つきも鋭いし、絶対堅気じゃないっていうか……」

 飯田が首をかしげている。そりゃそうだ。こんな言い方では、きっと飯田でなくても誰一人として愛子の言いたい事は理解できないに違いない。

「と、とにかく嫌な感じなんだってば!」

 飯田は給湯室から顔を出して廊下の先のフロアを見やった。

「堤主任、居ないのか?」

「居るよ。その怖い人と話してる。主任のお客みたいなのよ。だからあたしがこうしてお茶を淹れに……」

 なーんだ、と笑って飯田は手に持っていた書類をひらひらさせた。

「あのさあ、仕事なんだけど……」

「今忙しいの! そうだ、飯田くん悪いけど無線台に座っててくれないかな」

「ええ? なんで俺が?」飯田は不満げに鼻を鳴らした。

「無線空けとくわけにいかないから。飯田くん、今すぐ、大至急行って、座ってて」

 ぶつぶつ文句を言いながら給湯室を出てゆく飯田の背中に向かって怒鳴る。

「無線受けたらスイッチ押して『こちら帝都K、感あり、どうぞ』って言うんだよ。Kはここ、K事業所のことだからね」

「わーったよ!」

 不機嫌な怒鳴り声が返ってきた。気にする事もない。飯田とはいつもこんな調子なのだ。飯田とだけは、と言ったほうがいいかもしれない。少々人見知りのある愛子は、未だに職場の人たちと馴染んでいるとは言えなかった。もともと男性職場の工事課で、一般事務の女性職員が出来るような仕事は殆ど無い。男女雇用機会均等法の施行を受け、近年になってようやく女性を配置するようになったのだと、労働組合の委員長が言っていた。要するに、仕方無しに女性を入れました、という態度が見え見えの、封建的な職場なのだから、愛子が馴染めないのも無理ないのだ。特に年配の男性社員たちは、愛子の事を完全にお茶汲みだと思っているし、そういう発言も日常茶飯事だった。

「ねーちゃん、お茶くれ!」「ねーちゃん、もう帰っていいよ」「ねーちゃんには無理だな」

 事あるごとに歯に衣着せぬ物言いをされる。セクハラとか、そういった次元の問題ではなく、工事課の仕事は本当に愛子には無理な、技術的なことなのだからどうしようもない。それでも、言われるたびに疎外感を感じて、悲しいし悔しかった。何度辞めてしまおうと思ったことか。

 嫌味で言っているのではないだけに、黙るしかない。元来この職場に嫌なヤツは居ないのだ。一年間一緒に仕事をしてきてようやくわかった。彼らだって、愛子のような何も知らない新入社員の女の子が配属されてきて、どう接してよいのか戸惑っているのだ。実際、何人かに言われたこともあるし、仕事以外のときはみなとても優しい。

 それでも時々どうしても納得いかずに悶々としていると、決まって声を掛けてくれるのは飯田だった。彼は仕事の関係で、毎日朝と夕方に必ずこのプレハブにやってくる。最初は馴染めず、彼に声を掛けられただけでビクビクした。しかし飯田は馴れ馴れしくて、いつも愛子を「おチビ」と呼んではからかった。背が低いのは、昔からいつも悩みのタネであり、コンプレックスにもなっていたので、愛子の中で飯田はいつの間にか「いけ好かない奴」になっていった。そんな奴には気を使うこともないし、好かれようとも思わない。そう思ったときから、彼に対してだけは高校時代の友人としゃべるように、素の自分を出せるようになった。

 職場も別だし、同期という特別な気安さもあり、愛子にとって彼は会社の人間の中で唯一飾らずに会話できる人物だった。

 お茶を淹れて職場に戻ると応接セットに工事長の佐々木、主任の堤、そして謎の男性の三人が座って話をしていた。

「……どうぞ」

 テーブルに湯飲みを置く手がプルプル震えた。スーツの男性をちらちらと盗み見る。真っ黒に日焼けした顔は、良く見れば端正と言えなくもないが、そのつり上がり気味の目があまりにも鋭くて恐い。体格はがっちりしていて、近くで見るといっそう堅気のセールスマンには見えなかった。

 やはり、関連会社の人なのだろうか。

 男性はお茶を出した愛子に会釈すると、右手を湯飲み茶碗に伸ばした。愛子の目が釘付けになる。やっぱり見間違いではなかった。黒っぽくなった小指の先が消失している。

誰なの? 何なの? まさか……?

 愛子は三人にお茶を配り終えると一礼して自分の持ち場の無線台に歩いて行った。途中、空のゴミ箱を蹴飛ばしてしまい、閑散とした事務所内に派手な音が響いた。

 横長の室内を足早に歩いて、応接セットと真逆の窓際にある無線台に着いた途端に笑われた。

「なに動揺してんだよ。笑わせるなって」

 椅子に座ったままくるりと振り向いた飯田は涙目だった。そんなに笑う事もないだろうに。

「ゴ、ゴミ箱蹴ったぐらいで、女子高生みたく笑わないでよ!」

 愛子は言い捨てて、無線台の前から飯田を押し退けた。キャスターの付いた椅子に座ったまま、くるくる回りながら床を一メートルほど滑って、彼はようやく笑うのを止めた。そして、ずるずると椅子ごと舞い戻ってくるなり言った。

「氷室京介」

「え……!」

「……んなわけないじゃん! 氷室……なんだっけ? さっき自己紹介していたんだけどな、あの人」

 忘れちまった、と頭を掻く飯田を、愛子は知らぬ間に物凄い目つきで睨んでいた。自分をからかっている彼の言葉に思わず反応してしまった事が腹立たしい。しかも、謎の男性に関する情報を聞き逃すなんて!

 まったく、なんて役立たずなの!

 そう思ったとき、飯田の口から思いもよらぬ言葉が出た。

「でもまあ、すぐにわかるでしょ。だって、あの人、もうすぐここにお世話になるって言ってたし……」

「うええ?」

 奇妙な声が出てしまい、愛子は自分の口元を両手で覆った。

「もうすぐって……、まさか、社員なの?」

 飯田は愛子の問いには答える気がないようだった。彼は仕事の書類を無線台に載せると「頼むよ」と言ってニヤリと笑った。彼の態度に、またからかわれたのだろうか? と思ったが、訊き返そうとしたときには、彼は素早く事務所から出て行ってしまった。


 謎の男性は数十分後に帰った。湯飲みを片付けながら、愛子は堤主任に声をかけた。

「あの、さっきの方は?」

 堤は何故か寂しげに微笑むと言った。

「今日、辞令が出るから黙ってることないな」

「え?」

 堤の言葉がよくわからず、首をかしげると彼は言った。

「僕、転勤するんだ。あさってからさっきの氷室くんが後任で来るから。愛ちゃん、本当に世話になったね」

 愛子は放心したように立ち尽くした。堤は決して有能な上司ではなかったが、人間的にはとても良い人だった。セクハラまがいのスキンシップには閉口したけれども、彼は愛子にとってお父さんのような存在だった。この無人島みたいな職場で、せっかく慣れ親しんだ数少ない人物なのに、その堤が居なくなる? そして後任が、あの眼光鋭い若鷹のような男性だなんて。 

 どうしよう!

 しかも、あの小指の辿った運命を考えるにつけ、余計に恐ろしさが増してくる。帝都電力の社員である以上、まさかヤのつくサイドビジネスに手を染めている事はないと思うけれど、世の中には本当にいろんな人が居るのだから。

「堤主任……私、あさってからどうすればいいのでしょうか?」

 情けない顔になってしまっていたのだろう。笑いながら頭を撫でる堤の手のひらが、やけに優しく労るようだった。


 その日の夕方、事業所の所長から堤に、正式に転勤の辞令が下された。終業時刻になると、工事課のプレハブではささやかな送別会が行われる事になった。フロアの片隅にある例の応接セットに、つまみとビールが用意され、工事課の面々がそれぞれ自席の椅子を持ち寄って堤を囲む。普段はほとんど飲み会に参加しない愛子も、今日ばかりは堤の隣に座ってグラスを傾けることになった。

「堤主任、おめでとうございます。本店の工務部ですってね。これはまさにご栄転だ」

 工事課の班長たちがとっかえひっかえ堤にお祝いを言い、彼のグラスにビールを注いだ。堤は酒焼けの赤ら顔をさらに赤くして、注がれたビールを飲み干した。

「本店じゃ、宿直が無いから給料下がっちまうよ。住宅ローン、見直ししないといけねェな。ははは」

 堤は冗談を飛ばして楽しそうに笑う。愛子は逆に悲しくなってきた。何だか父親が自分を置いて出て行ってしまうようで、鼻の奥がツンとした。



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