第1章:午前一時の招集と、緑色の液体
1
僕の職業を正直に話すと、たいていの人間は「へえ、面白そうだね」と口では言いながら、目は「関わりたくない変人を見つけた」という色に変わる。
僕はゴーストライターだ。
それも、存命の作家の代筆をするような華やかなものではない。僕が書くのは、人生をリタイアする直前の人間がつく「最期の嘘」だ。
人は死ぬ間際、やけに正直になりたがるものだと思われているが、実際は逆だ。墓場まで持っていけない真実を、綺麗な嘘でラッピングして、遺された人々に届けたいという需要は意外と多い。
「不倫相手との思い出を、恩師との美談に書き換えてくれ」
とか、
「ギャンブルで作った借金を、実は慈善団体に寄付していたことにしてほしい」
とか。
僕はそれらを、いかにも高潔なエピソードに仕立て直す。 言葉は真実を映さない。ならばせめて、最後くらいは心地よいフィクションを贈るべきだ。それが僕のささやかな職業倫理だった。
その日、僕が新宿駅の東口で、信号待ちをしながらアルタビジョンを眺めていた時のことだ。 巨大な画面の中では、一人の美女が輝くような白い歯を見せて、最新の美白美容液を宣伝していた。彼女の瞳は自信に満ち溢れ、まるで「世界は私のために回っている」と確信しているようだった。
信号が青に変わる。周囲の人間が一斉に歩き出す中で、僕のポケットでスマートフォンが短く震えた。
『一時。いつもの場所で。緑色のやつを頼んでおいて』
画面に表示された送り主は、エリカ。 その簡潔すぎる文面を見て、僕は思わず空を仰いだ。空は、今にも泣き出しそうな、どんよりとしたソーヴィニヨン・ブランの色をしていた。
2
渋谷駅の南口は、ハチ公前のような華やかさとは無縁だ。どこか寂れた空気が漂い、雨が降り出すと、アスファルトの匂いがより一層、孤独を強調する。
僕は「南風」という名の、看板の文字が半分消えかかったバーの扉を押し開けた。
「いらっしゃい」
カウンターの奥で、マスターが力なく手を挙げた。彼は元・偽札造りという噂があるが、今の彼が造っているのは、飲むと二日酔いどころか三日先まで記憶が怪しくなるようなカクテルだけだ。
「マスター、例の緑色のテキーラを二つ。一つは冷やして、もう一つは常温で」
「あいよ。またあの娘かい?」
「呼び出しはいつも一時ですから」
僕はカウンターの隅の席に腰を下ろした。 この店には時計がない。あるのは、マスターが時折めくる日めくりカレンダーと、客が持ち込むそれぞれの「事情」だけだ。
数分後、雨の匂いをまとってエリカが現れた。 彼女は、複雑な幾何学模様が描かれたブランケットを肩に羽織っていた。イタリアの画家、プリマヴェージの色彩を彷彿とさせるその柄は、夜の渋谷にはあまりにも鮮やかすぎて、浮いている。
「待った?」
「君より語れるワインの知識を整理していたところだ。わかったことは、
美味しいワインの説明はどれも『雨上がりの森』とか『猫のおしっこ』とか、飲み物に対する褒め言葉とは思えないものばかりだってことさ」
「いいわよ、そんなの。どうせ私たちは、酔えない美酒を飲みに来たんだから」
彼女は僕の隣に座ると、差し出された緑色のテキーラを迷わず手に取った。 その液体は、まるで理科の実験室から盗んできた毒薬のような色をしていた。
3
「ねえ、見た? 今日のアルタビジョン」
エリカがグラスを揺らしながら言った。彼女の瞳の奥には、いつも誰も触れられないような深い傷が隠されている。
「ああ、自信満々なお利口さんが笑っていたね」
「あれ、私なのよ。性格以外はね」
彼女は冗談めかして笑うが、その横顔はどこか切ない。 エリカは人気ブロガーだ。彼女のブログ『フィクション・ワールド』は、日常の中に潜む違和感を、毒気たっぷりのユーモアで斬るスタイルで人気を博している。だが、最近の彼女の書き込みには、遊び心以上の「何か」が混じり始めていた。
「昨日の記事、読んだよ。ある代議士が、明日の朝に自分の飼い犬を誘拐されるって書いてあったやつ」
「あれは予言じゃないわ。ただの、書き間違い」
「書き間違いにしては、今朝のニュースでその代議士が泣きながら会見していたけど?」
彼女は答えず、テキーラを一口啜った。 この世はすべてがフィクション。彼女はそう公言している。ブログに書かれたことは真実になり、真実はブログというフィルターを通した瞬間に、実体のない物語へと変わる。
「成瀬、あなたは言葉のプロでしょう? 教えてよ」
彼女は不意に、僕の顔を覗き込んだ。その目はまるで、どこまでも澄んだ、しかし逃げ場のないソーヴィニヨンだった。
「どうして人は、自分が好きだという理由を探そうとすればするほど、切なくなるのかしら」
「それは、理由を探した瞬間に、その感情が純粋なものではなくなるからじゃないかな。分析は解剖と同じだ。解剖された死体は、もう動かないだろう?」
「……やっぱり、あなたにお願いして正解だったわ」
エリカはそう言って、バッグから一冊の古びた手帳を取り出した。 その手帳の表紙には、血のような、あるいは赤ワインのような染みがついていた。
「最後は私のミスなの。だから、あなたに修正してほしい」
「修正? 僕の仕事は、死にゆく人のための嘘を書くことだ。君はまだ、ピンピンしているじゃないか」
「いいえ。私はもう、あのアルタビジョンの中で殺されているのよ」
彼女の言葉が終わるか終わらないかのうちに、店の外で激しいブレーキ音が響いた。 雨の渋谷。午前一時を過ぎた街で、何かが決定的に壊れる音がした。
「今夜は、同じ帰り道にならなそうね」
彼女はテキーラのグラスを飲み干すと、僕の手をそっと握った。 その手は、驚くほど冷たかった。




