第三篇 世界の虚構
この世界に、時間という概念は存在しない。
存在すると信じられているそれは、真理ではなく、認識の誤りである。
創造と破壊と観測が在った。
だが、「流れ」は在らぬ。
創造は、無から有を生じさせる。
破壊は、有を無へと返す。
そして観測は、その狭間に生じる一点を在るものとして捉える。
人は、この一点を「現在」と呼ぶ。
だがそれは、本来名付けられるべきものではない。
なぜなら――未来も、過去も、存在しないからである。
未来とは、創造されていない有である。
過去とは、すでに破壊された有である。
どちらも、観測できない。観測できぬものは、この世界において存在しない。
故に、未来も過去も虚構であり、ただ観測された一点のみが在る。
それを人は、誤って「時間の流れ」と呼んだ。
創造は、世界を連続させなかった。
破壊は、世界を切断しなかった。
観測だけが、無数の確定した一点を連ねて見た。
それが、あたかも流れているかのように。この錯覚こそが、時間である。
人は言う。「過去へ行く」「未来へ行く」と。
だがそれは、存在し得ぬ。
なぜなら、存在しないものへは、行けないからだ。
過去へ行くとは、破壊されたものへ触れること。
未来へ行くとは、創造されていないものを観測すること。
どちらも、この世界の理から外れている。
人が過去に行ったと語る時、それは『過去へ行ったという現在』を観測しているに過ぎない。
人が未来に行ったと語る時、それは『未来に来たという現在』を観測しているに過ぎない。
世界は、一ページずつ存在しているのではない。
だが、人は、世界をページとしてしか理解できない。
一ページ目から十ページ目へ飛ぶことは、物語の外側からでなければ不可能である。
物語の中の存在が、自らのページを捲ることは、できない。それと同じだ。
世界の内側に在る者は、すでに確定した一点しか観測できない。
「過去に行った」という物語も、「未来に来た」という物語も、すべて観測された現在の一形態である。
創造は、無数の可能性を用意する。
破壊は、不要となった可能性を消す。
観察は、その瞬間に選ばれた一つを世界として固定する。
これが、世界の生成である。
流れはない。時間はない。
ただ、観測された確定だけが在る。
この理を理解した者は、時間に縛られぬ。
だが、時間を信じる者は、自らを物語の頁に閉じ込める。
そして――その錯覚の中で生まれた存在こそが、後に人類と呼ばれる。
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