第七幕
「おっと、まただ。こいつ、かなり針を呑み込んでやがるな。仕方がないな」
(ぎゃああああああああああああああああああああ!!!!)
ギチギチギチ!! ブチん!!
恵は、今まで感じた事も無いほどの激痛に襲われた。これが夢だというのなら、早く冷めてほしい。願い続けるが、それもなかなか聞き届けられない。気が飛びそうな位の痛みなのに、気を失わず永遠とも思える痛みに精神が崩壊しそうになる。
強引に針と共に顎を引き千切られた所で、悲鳴をあげた。しかしその声は、人のものではない。
「キュキュってないているな。まあ、でもこうなっちまったら観念しろよ。俺の大切な妹の、晩飯になってくれ」
(お、お兄ちゃんは、何を言って……駄目だ、意識が……)
想像を絶する痛み。ここでようやく、意識が飛んだ。これで悪夢から覚める。恵は消えゆく意識の中でそう思った。
しかし次に意識がはっきりした時、恵の眼の前には自分の母親がいた。
「どう? ちゃんと、恵の分も釣りあげたんだぜ」
「いいわね。立派なヤマメね。でも針を外す時に、もうちょっとどうにかならなかったのかしら。かなりグロテスクだわ」
(あががががががががががが……)
「いつもの渓流で釣っているんだけど、あそこの魚は貪欲なのかな。昨日も針を奥まで呑み込んでいる奴がいたし」
「それじゃ、下処理しちゃいましょうか。塩焼きでいいのよね」
「それが一番魚の美味しい食べ方だとかなんとか、前に恵が言っていたしな」
「そうね。それじゃ――」
ズブリ……
包丁の先端が、恵の腹に入った。ヤマメになっている恵は、人の言葉を発する事なんてできない。しかしそれを通り越して、言葉にできない程の苦痛が走った。どうやっても表現できないような痛み。恵の母親は、手慣れた様子でそのまま恵の腹を裂いて、内臓を取り出した。そして水で洗う。
夢なのに、本物のような激痛。これだけ苦しいのに、なぜか夢から目覚める事はない。そして身体の血を抜かれ、腸を引きずり出されているというのに息絶えることも許されなかった。恵の意識は想像を絶する痛みと共に、はっきりと覚醒していく。
「ただいまーー」
「あら、お帰りなさい恵」
ありえない。ありえないことが起きた。激痛に耐えながら、どれくらい時が経ったのだろう。恵は全身に酷い火傷を感じながらも人間の姿をした自分自身を見た。
自分がただいまと言って、帰宅したのだ。そしてヤマメになっている恵に目をやると、ニヤリと笑ったのだ。
「あ、お兄ちゃん。私の為に魚を釣ってきてくれたんだ」
「あー、そうだ。雨の中、早朝に行ってきてやったんだぞ! 感謝しろよ」
「うん、ありがとう! 早速なんだけど、食べていいんだよね」
「いいよな、母さん」
「そう思って、先に焼いておいたのよ。ご飯、もうちょっとで出来上がるから、それまでにちょっとそれ食べて我慢して。でも先に手を洗ってきなさいよ」
「はーーーい」
恵は、これは悪夢だ。悪夢意外のなにものでもないと思った。自分が魚になって、自分に食べられるなんてありえない。そんなこと、あり得る訳がない。
……しかし同時に、理香の母親が車ではねた真っ赤な傘の女の子の事も思い出した。あれもまたあり得ない。幻覚。跳ね飛ばされた死体も真っ赤な傘も、何処を探しても見つからなかった。そして学校で理香が話した真っ赤な傘の少女。同一人物なのかは解らないけれど、この怖い話をしたタイミングで現れるなんてそうとしか思えなかった。
「私、ヤマメの塩焼き……だーーーーいすきーーーーい」
ぎゃあああああああああああああ!!!!
痛い痛い痛い痛い!! まるで大火傷をしているような痛みに耐えながらも、その上からの激痛!! 尻尾の方から徐々に喰われる。身体が引き裂かれてすり潰される。
今まであった事も無いような激痛の中で、私は私自身に食べられた。それは地獄としか言いようがなかった。このなの、現実的じゃない。夢なら早く覚めて欲しい――
加東栄美は遠山理香の母親、遠山遥に学校から車で送ってもらい帰宅した。小賀恵の次に家に送ってもらったが、その間に栄美は親友の栄美や佳穂とろくな会話もしなかった。いや、できなかったと言った方がいいかもしれない。
恵の自宅が学校から一番距離があるという事で、彼女から送っていったがその途中、栄美達はある少女を別々の交差点で二度も見た。理香が学校で話した怖い話に登場した真っ赤な傘をさす少女、それだと確信する何かがあった。顔を見た訳ではないけれど、同一人物なのだと栄美だけでなく車に乗っていた恵や理香か佳穂もそう思った。
そして恵の家がある荒水山、そこへ登って行こうとしたその時、理香の母親は真っ赤な傘をさす少女を車ではねた。完全に事故。わき見運転には違いなかったが、はねるつもりなんて微塵もなかった。
理香の母、遠山遥とその娘である理香は慌てて車を降りるとはねた少女を探した。しかしバンパーの凹みと、タイヤの跡が残るだけで少女も少女がさしていた真っ赤な傘も何処を探しても見当たらなかった。
車が家につくと、理香の母親に家まで送ってもらった礼を言い頭を下げる。そして理香と佳穂に「また明日、学校でね」と言って手を振るとそのまま大雨から逃げるように自宅のあるマンションへと入った。
エントランス――栄美は鍵を取り出すと、インターホンがある集合キーの所で差し込んだ。オートロックの硝子扉が自動で開く。栄美は中へと入った。
通路を歩いて、エレベーターへと向かう。他に人はいない。けれど栄美は唐突に何か、誰かの気配のようなものを感じた。足を止める。
(私の他にも、誰か住人がいる?)
キョロキョロと辺りを見回す。だれもいない。栄美は再び、エレベーターの方へと歩き出した。エレベーターは、上から降りてきているけれどまだ栄美のいる1階へは到着していない。少し待っている間、なんとなく栄美はあしもとが気になった。
目を向けると、水溜まりができていた。
外は、大雨。雷だってゴロゴロと鳴っている。他の住人がこのエレベーターの前で待っている間に、傘から雨水がこの場所へ滴り落ちたのかもしれない。もしくは、自分と同じように傘を持っておらず、しかも送ってくれる人もいなくてビショビショに濡れて帰ってきた。そしてエレベーターを待っている間に、ここに雨水が落ちた。
そんな事を考えていると、エレベーターが来た。ドアが開く時、ガコンと一瞬つっかえた。栄美はびっくりして少し後ずさったが、ドアは問題なく開いた。
「な、何かが引っ掛かっていたのかしら……」
ドアにもドアレールにも何も引っ掛かっていない。悪寒。栄美は、エレベーターに乗り込んだ。11階のボタンを押すと、ドアが閉まった。
ブウウウウウウウンン……
エレベーターが上がっていく。栄美は何気にスマホを取り出した。恵、理香、佳穂の誰かからメッセージが届いていないか確認する為だった。なぜそんな事を急にしようと思ったのか。
エレベーターに乗る瞬間に寒気のようなものを感じた。それが理由だった。急に不安に襲われた為、誰かと無性にコンタクトをとりたくなったのだ。
2階、3階、4階、5階、6階――どんどん上がっていく途中、スマホを見ていた栄美はなんとなくドアの方に目をやった。刹那、信じられないものが目に飛び込んだ。
丁度、6階を通過する時、ドア窓の外に少女の姿が見えたのだ。しかもマンション内にいるというのに、赤い傘をさしている少女。通過する一瞬というのもあったが、傘は深くさしていて顔は見えない。
「きゃあああ!!」
栄美は、悲鳴をあげた。
教室で雨宿りをしていた時に、理香が話した怖い話に出てくる少女。そしてついさっき、理香の母親の車で恵を自宅まで送って行く途中にはねてしまった少女。すぐさま、車ではねてしまった少女を探したけれど見つからない。栄美は、あの直後に集団幻覚にも陥ったのではないかと考えて、無理やり自分を納得させていた。
なのに、栄美のいるこのマンションにあの真っ赤な傘をさした少女がいる。
7階をエレベーターが通過する瞬間、どうやって移動しているのかは解らないが少女は、7階へと移動していた。栄美は恐ろしくなって、ドアから離れようとして壁に張り付いた。でも目を窓から背ける事はできない。
8階。やはり窓の外に、少女の姿が見えた。
9階。同じく、少女がいる。最初、6階にいるのを見た時よりも、栄美の乗っているエレベーターに近付いてきている。
10階――少女は、もうエレベーターのドアの真ん前までやってきていた。このまま11階に到着したら、彼女は中へと入ってくる!!
栄美は恐怖で身体を震わせ、歯もガチガチと音を鳴らしてしまっていた。両親や友達、恵や理香や佳穂に何度も助けてと心の中で叫んだ。
――――11階!!!!
ゴオオオオオ!!
「きゃああああああ!!!!」
ドアが開く。確実に入ってくる!! 栄美はもう恐怖に耐えられなかった。少女が近づいてきていると気づいてしまった。次は確実に彼女がエレベーターに乗り込んでくる。そうなれば、真っ赤な傘で見えなかった彼女の顔を見てしまう。
だけど栄美は、少女の素顔を絶対に見てはいけない気がした。本能なのか直感なのかは解らない。でも顔を見たら、その時点で何かとてつもない恐ろしい事に呑み込まれる気がしたのだ。
栄美は悲鳴をあげて、両手で顔を覆ってその場に蹲ってしまった。自分が小刻みに揺れている事だけ、感じる。
…………
……
「……ねえ……そこにいるの?」
うっかりと声に出してしまって、栄美は後悔した。アレに声をかけてもいけない。無視するべき。何もないと思い込むべき。それしかこの状況を回避する事はできないと思った。
…………
暫くそのまま、蹲ったままじっとしている。動けない……でもやがて栄美の頭の中で、ある事が浮かんだ。このままエレベーターにいたとして、再びエレベーターが動きだしたらドアは閉まる。そしたら自分は、このまま何処か行ってはいけない場所に連れていかれるのではないか。
「ひっ……」
勝手な想像だった。でもさっきのあり得ないことを考えると、常識では考えられない事が起きているのだから、このままエレベーターが再び動き出して何処か恐ろしい場所へ連れていかれるという可能性も否定はできないのだ。
栄美は自分の顔を覆っている両手をゆっくりとさげて、少しずつ瞑っていた眼を開けた。
「…………誰もいない……」
開いたエレベーターのドアの前には、誰もいなかった。真っ赤な傘の少女の姿はない。
栄美はその場でゆっくりと立ち上がった。自分の足がガクガクと震えている。ゆっくりとドアの方へ、前に足を出したその時だった。
…………っ
首筋に冷たいものを感じた。悪寒にも似たその感覚から、栄美ははっきりと解った。
――――自分の背後に誰かいる!!
もしもあの真っ赤な傘をさす少女が後ろにいた場合、理香も気になっていたその子の顔を見ることができる。でも決して見てはならないと、栄美自身の本能が告げていた。振り返ってはならない。
首筋に感じていた寒気が肩へと降りてくるのが解った。このままここにいたら、自分の肩を鷲掴みされる。そう思った栄美は、後ろを振り向く事無くエレベーターを出ようとした。ドアが唐突に閉まろうとする。
「いやあああ!! 駄目!!」
ドガっ!!
栄美は手に持っていた学校カバンをドアに向けて突き出し、挟んだ。それをきっかけに手をかけて、無理やりとも思えるやり方でドアを開いて外へ出た。でも後ろは振り返らない。怖いという気持ちから、自分自身が作りだした空想の産物かもしれない。でも栄美は、賭けに出る気はなかった。
そのまま一直線に、早足で自分の家に向かう。1108号室。
自宅のドアの前まで来ると、そのまま鍵を出した。ドアの方を向くと、先程まで栄美の背後だった場所は、側面になっていた。視界の隅に、何か影のようなものがあるような気がする。エレベーターがある方向。でも栄美は、気づかないふりをして一切目を向けなかった。それが身を守る方法。
震える手を封じるようにして、家の鍵を取り出す。そして鍵穴に入れると、回して中へと入った。内側から鍵をして、栄美はそのまま玄関で腰から砕けるようにして座り込んでしまった。
エレベーターの6階辺りから、何かがつけてきていた。
いや、あの時……
理香の母親が車ではねた時。違う、その前に交差点で目にしていた。アレはもっと前から栄美達をつけてきていた。
……暫く栄美は、玄関に座り込んでいたが、ようやく立ち上がると靴を脱いでリビングの方へと移動した。そして窓の外を見る。雨は更に激しさを増して降り続けていて、遠くの方で雷も鳴った。
栄美は、今この家には自分しかいないこと事に気づいた。