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第五幕



 5人が乗っていた車は、真っ赤な傘をさしていた少女をはねてしまった。少女は、その少し前に通過した交差点にいたはずだった。そして佳穂の話では、更にその前に通過した交差点でも目撃したとの事だった。


 でも真っ赤な傘をさす女の子は、どうやったのか解らない程の速度で佳穂達の乗る車の先へ回り込み、はねられた。しかも車に乗る5人全員が、よそ見をしていたとはいえ、少女は車道にいたのだ。瞬間移動。いきなり現れたと言っても、間違いはないと思えるような感覚だった。


 でも女の子も、その子が持っていた真っ赤な傘も出てくる事はなかった。その場に残った形跡のようなものといえば、はねた時についたバンパーの凹み。そして急ブレーキをかけた時についたタイヤ跡だけ。飛び散ったと思われる血の跡は、雨で流されて跡形もなくなっていた。


 理香の母親が全員を家に送って行ったあと、小賀恵は雨で濡れた身体を拭こうとタオルを取りに脱衣所へ向かった。そこにある棚には、洗濯して干した後のいい香りのするタオルが収納されている。それを手に取ると、顔や首を拭きながらもキッチンへ向かった。食欲をそそるいい匂い。ジュジューっと油の音と、恵の母親の後ろ姿。


「お母さん」

「あら、恵。お帰りなさい」

「うん、ただいま」

「学校どうだった? 凄い雨が降ってきて心配したけど、遠山さんのお母さんに車で送ってもらったんでしょ? 良かったわね」

「うん……」

「どうしたの? なんか元気ないわね」


 理香の母親に車で学校から家まで送ってもらった事。それは車に乗せてもらう前に、恵は自分の母親にスマホでメッセージを送って知らせていた。帰りが遅くなるだろうと判断して、心配すると思ったからだった。


「もしかして、佳穂ちゃんや栄美ちゃんや理香ちゃん……誰かと喧嘩とかした?」

「ううん、違うよ。喧嘩なんかしてない。だいたい、喧嘩なんてしたら一緒に帰ってこないでしょ。皆も一緒に理香のお母さんに家まで送ってもらったんだから。多分、雨も降っていたし、学校にも長くいたから疲れたのかも」


 恵は、理香の母親の車が女の子をはねた事――それを自分の母親に打ち明けられないでした。心配させるからというのもあったが、そのはねた女の子自体がいったい何処にいってしまったのかも解らなかったからだった。まるで、悪夢のような出来事。本当は、幻だったのかもしれないとも思う。集団幻覚。でも恵は、家まで送ってもらった時、車を降りて車に残ったバンパーの凹みを見ていた。


 人を傷つけた罪悪感と共に、何か気持ちの悪い感覚にも襲われる。ずっとそういう気持ちでいる。


「そう。それじゃ、ちょっと遅くなったけど、直ぐに晩御飯にするから。今日はお父さんも一緒にご飯食べるみたいだから」

「え? 今日はお父さん、早いんだ」

「うん。たまにはね。でも、この雨でしょ。ちょっと帰りが遅くなるみたい」


 恵の母親はそう言って、冷蔵庫を開くと中から魚の入った器を取り出した。キス、アジ、イワシ。


「今日は天ぷらよ。お父さん、魚の天ぷら好きでしょ? だから3種類も用意しちゃった。でもお芋とか、エビ、イカとかもあるから」

「結局魚介類が多いよね」

「そうそう、拓海(たくみ)が帰ってきたら、もっと魚のメニューが増えるかもしれないわね。あまり期待してないけど」

「え? お兄ちゃん、まだ帰ってきていないの? しかも魚のメニューが増えるって、また釣り? こんなに大雨なのに?」

「本当に困ったわよね。私も雨の日にわざわざやめなさいって言ったんだけど、淡水の魚は雨の方が釣れるとかなんとかわけの解らない事を言うのよ。それでカッパ着て昼くらいから出て行っているわ」

「え? でもお兄ちゃん、仕事……」

「今日と明日は、有給とったんですって。ここのところ、働きづくめだったからたまには息抜きもいいと思うけど、でもこんな大雨の日にわざわざ釣りにいかなくてもいいんじゃない。ねえ」

「そうなんだ、お兄ちゃん……釣りに行ってるんだ」

「ちょっと恵。何処に行くの? やることがないんだったら、お茶碗出したり晩御飯の支度を手伝って欲しいんだけど」

「お兄ちゃんって、いつものとこだよね」

「え? もしかして迎えにいくの? 雨が降っているのよ」

「もうビショビショだし、まだお風呂に入ってないから大丈夫」

「もう、風邪ひいてもしらないからね」

「お兄ちゃん連れて、直ぐ戻ってくるから」


 母親が止めるのも聞かず、恵は兄の拓海を迎えに行く為に懐中電灯で辺りを照らすと共に傘をさして家を出た。兄がいつも釣りをしている場所は、家から近い。ここ荒水山の山頂から下へ流れる渓流がある。


「っもう、お兄ちゃん。こんな日にまで、釣りをしなくてもいいじゃない」


 ピシャアアア!!


「きゃあああああっ!!」


 ゴロゴロゴロゴロ……


 近くで落雷したと恵は思った。しかもここは、黒水市の中でも高い場所に位置する。雷が落ちる可能性は、学校や他の場所よりも高い。


 雷鳴に驚き蹲っていた恵は、ようやく立ち上がり木が生い茂る方へと歩いた。自宅から500メートルもない距離。そこに兄がよく釣りをする渓流があるのだ。


 ザーーーーーー!!


 雨は一向に止む気配はなかった。恵は、一瞬車ではねた真っ赤な傘をさす女の子の事を思い出した。確実に車に激突したのに、そのあと女の子も真っ赤な傘も何処にも見当たらなかったこと。車に乗っていた5人が、まるで悪夢でも見ていたかのような体験をしたこと。


 でも悪夢なら、忘れてしまった方がいい。恵は、もう既にそう思い込むことにしていた。懐中電灯で辺りを照らす。激しい雨に加えて、闇が広がっている。恵は、兄を迎えに家を出た事を後悔し始めていた。何か別の事を考えたり、別の事に集中すればあの悪夢を忘れることができると思っていたから。だから何も考えずにこんなに夜になってきている上に、雨も凄いのに外へ出てしまった。


 でも恵の兄は、とても明るい性格をしていた。だからこそ恵は、今心の奥底にある恐怖を消し飛ばす為に兄にいち早く会いたかったのだ。昔からそうだったのだ。何か怖い事や不安な出来事が起きても、兄が「大丈夫」だと言って笑い飛ばしてくれる。


 グチュウ……


「ひっ!」


 変な悲鳴が出た。足を泥濘にとられたからだった。まるで亡者に足を掴まれたかのよう……けれど懐中電灯で足元を照らすと亡者なんていない。大雨のせいで、地面が緩んでいる。それだけだった。


 ザーーーーーー……


 木々の合間を通り、兄がいつも釣りをしている場所にまでやってくる。雨は強く、その音なのか川の流れる音なのかも判別がつかない。恵は、懐中電灯で辺りを照らしながら釣りをしている兄を探した。


 一瞬、闇の中に真っ赤な傘が見えた気がした。緊張で息が止まる。しかしそれは直ぐに錯覚だと気づき、川の上流の方に灯りを見つけた。


「お兄ちゃん……」


 兄がいると思った恵は、川の上流を目指した。灯りは、大きなスタンド式の懐中電灯だった。そしてレインコートを身に纏い、こんなにも雨が降っているというのに怯む事もなく釣りを続ける男の姿。


「お兄ちゃん!!」


 恵の声に、男は振り向いて驚いた表情を見せた。


「なんだ、恵か!! どうした? こんな所まで来て!!」

「それはこっちのセリフだよ。こんなに大雨なのに、釣りをしているだなんて」

「はは、解っていないな。雨の方が、魚が釣れるんだよ。海と違ってな」


 兄の近くには、水が入ったバケツがった。その中に動くものが見える。恵はそれを覗き見た。


「たった2匹しか釣れてないじゃん! 雨降っているのに」

「雨が降りすぎているんだよな。これじゃ、流石に魚も岩の下とかへ避難しているかもな」

「お母さん、晩御飯の支度して待っているよ」

「はあーー、せめて4匹……釣りたかったけどな……」

「なんで4匹?」

「そりゃ、家族4人だからだろ。1人1匹」

「え? 別にお兄ちゃんが魚を釣り上げなくてもお母さん、魚の天ぷらを沢山用意してくれているよ」

「はあ!? おい、マジかよ。釣りに行くって言ったのに、魚を買ってきたのか。これは、マジで俺に対する挑発だよな。まったく、母さんは」


 土砂降りの暗い木々の生い茂る中、大笑いする兄弟。恵は、やはり兄なら自分の落ち込んでいる気持ちを明るくしてくれると確信した。今なら、あの話を聞いてもらえるかもしれない。車ではねた真っ赤な傘をさす少女の話。


「はあーーー、まあいいや。時間もあれだし、そろそろじゃあ家に帰るかな。折角の有給休暇が大雨でさんざんだ」

「うん、帰ろよ」

「おし、帰るか! って、そうだ。そういや、向こうにも糸を垂らしているんだった。恵、向こうのあの大きな岩の所に釣り竿があるから、それ引き揚げてきてくれ。俺は、帰る支度をするから」

「うん、解った」


 足を滑らさないように、兄が言った場所へ向かう。大きな岩。そこには、確かに釣り竿があった。糸は川に垂れていて、ピンと張っている。恵は振りかえって、帰る準備をしている兄に向かって叫んだ。


「お兄ちゃん!!」

「なんだーーー? 何かかかっていたか?」

「解らないけど、糸が張ってる!!」

「じゃあ、なんかかかってんな。やったな! 恵、それ引いてみろ!!」

「うん!!」


 恵は釣り竿を手に取り、糸を引いた。すると大きな魚が針にかかっていた。雨の降る中、魚は必死に針から逃れようとピチピチとはねる。


「お兄ちゃん!!」

「おう、今バケツ持って行くから! 魚を針から外す位はできるだろ?」

「え? できないよ!」

「そうか? 簡単だけどな。まあいいや。ちょっと待ってろ!」


 兄は釣り道具を片付けると、バケツを手に持ち妹の方へ行こうとした。その間も恵が釣り上げた魚は、大きく跳ねる。恵は折角釣れた魚を逃してならないと思い、自分の方へ引き上げた。足元で物凄い勢いで激しくはねる魚。糸が絡まる。


 キュキュ……


 魚が鳴いた。そして変な風に針がかかっているからか、魚の口元から生々しく赤い血が流れ出た。それを見て恵は兄をまた呼んだ。しかし兄は、慌てて恵の方へと向かおうとしたからか、手を滑らせてバケツを転がした。中に入っていた2匹の魚が地面に落ちて飛び跳ねる。兄は慌てて魚を手掴みしようとしている。


「お兄ちゃん!! 早く来てよ!!」

「ちょっと待って!! 焦らすなって、今行くから!!」


 恵が引き揚げた大きな魚の口から、更に血が出血していた。それを見た恵は、痛々しく思って顔を背けた。でも耳には、魚が苦しんで飛び跳ねる音が聞こえる。恵は再び魚の方に目をやると、思い切って両手で飛び跳ねる魚の身体を押さえつけると、右手で針を外そうと試みた。しかし針は、深く奥へかかっていて外すのは難しい。てこずっていると、更に魚の口から血が流れ出る。


 恵は、目を疑った。魚からこんなにも赤い血が出るなんて思ってもいなかった。糸を引っ張るたびに、苦しそうにキュキュっと苦しそうに泣き叫ぶ魚。恵は思い切って指を魚の口へ突っ込んで針を引き抜こうとした。次の瞬間、ベリベリと嫌な音が聞こえる。魚の体内を針が傷つける音。恵は、思った。どうせ食べる事になるんだし、さっさと楽にしてあげたい。


 思い切って糸を引きヌ抜く。すると針が抜けた。そしてその拍子に、魚の顎も千切れて変な形に曲がった。閉じることのない、魚の眼。じっと顔を見てくる。その眼を見て恵は、まるで魚が自分に対してよくもやってくれたなと呪っているかのように感じた。

 

 怖くなって手を外すと、魚の顎は変な形に外れて、プラプラとしている。その傷が致命傷になったのか、もうはねる事もなくじっと恵を見つめていた。


 ――――よくも……よくも……呪ってやる……


 恵は怖くなってしまった。気づいた時、魚から後ずさりしていた。肩を触られ悲鳴をあげる。


「きゃああ!!」

「おい、どうした恵。ってあー、あー、あー。この魚、えらいことになっているなー」

「わ、私……私そんなつもりじゃ……」

「解っている解ってる。針を変に奥まで吞み込んでいたんだろ? たまにあるんだよなー」


 兄は、顎の外れた魚を手で掴むと、バケツに投げ込んだ。その中には、泳いでいる2匹の魚。そして今入れた顎の外れた魚は、そのままひっくり返って水面にぷかりと浮いた。目は恵を見ている。


「お、お兄ちゃん!」

「え? なんだ?」

「その魚、私のことを見てる……」

「え? あーー見てるな。でも気のせいさ。たまたまそっち向いただけだよ。それにもし意図的にお前を見ていたとしても、私を釣り上げたんだから美味しく食べてねって言っているのさ」


 兄はそう言って大笑いした。でもなぜか恵は、兄と一緒に笑えなかった。





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