最終話:花の声が聞こえるようになった日
春が、もうすぐ終わろうとしていた。
すずらんの花は枯れ、庭の紫陽花がほんのりと色づきはじめている。
四月の風は少しひんやりとしていて、でもどこか、やさしい匂いがした。
テーブルの上には、小さなガラス瓶。
中には、すずらんではなく、名も知らぬ野の花が一輪。
今の僕は、花の名前を覚えることにこだわらなくなった。
ただ、咲いている姿を見るだけで、それで十分だった。
加奈子さんの花屋には、あれから何度か足を運んだ。
「たまには手伝いなさい」と言われて、言われるがままに水やりをしたり、花を包んだりしている。
「昔から不器用なのは変わってないわねぇ」と笑われるけれど、それすら心地よい。
花に囲まれて過ごす時間の中で、不思議なことが起きた。
たとえば、通勤途中に咲くパンジーの色が前より鮮やかに見えるようになったり、
知らない子どもが「きれいだね」と指差した花に、自然と笑みが浮かんだり。
そして何より、自分の中にあったはずの「静かな部分」に、ようやく気づけた気がした。
昔の僕は、それを“弱さ”だと思っていた。
心を揺らすものからは距離をとり、泣くことや立ち止まることを恥じていた。
けれど今は違う。
すずらんの花のように、静かで、音のない強さがあることを知ったからだ。
それは母が、何も言わずに教えてくれていたことだった。
──
風が吹いた。
庭先に咲いた草花が、ゆっくりと揺れる。
その音のない揺れを見ていたら、不意に、胸の奥が温かくなった。
そうだ。
僕が、花を美しいと思えるようになったのは、
年を取ったからじゃない。
ようやく、自分の中にある「静かな声」に耳を澄ませることができたからだ。
それは誰かの声かもしれないし、
記憶の中に置き去りにしてきたものたちの囁きかもしれない。
花は、ずっと咲いていた。
僕が、それに気づかなかっただけだった。
──
そっと立ち上がり、今日も一輪、花を挿す。
音はないけれど、確かに聞こえる。
「ありがとう」と「おかえり」が、やわらかく重なるようにして――
すずらんの鈴が、そっと鳴った気がした。
⸻
【終】