第5話:忘れられていなかったもの
しゃがみこんだまま、僕はしばらく動けなかった。
手のひらのすぐそばで、すずらんはただ静かに咲いていた。
小さな白い花弁が、わずかな風に揺れている。
その揺れが、まるで胸の奥の何かと連動しているようだった。
「……お母さん」
声にしてみると、驚くほど自然に口からこぼれた。
大人になってから、一度も口にしなかったその言葉。
けれどこの場所でなら、言ってもいい気がした。
そのとき、後ろから柔らかな足音がした。
振り返ると、ひとりの女性が立っていた。
70代後半くらいだろうか。
白髪を後ろで束ね、エプロンのようなものを身につけていた。
どこかで見たような顔だった。
「……修一?」
名前を呼ばれ、驚いて立ち上がる。
「えっと、あの……」
「私よ、加奈子。お母さんの妹。小さい頃、よく私に叱られてたでしょ」
加奈子――
言われてみれば、確かに。
小さな頃、祖母の家で一緒に遊んでくれたお姉さんのような存在だった。
けれど、その記憶も、長い年月の中で色あせていた。
「この土地、ずっと気になっててね。ときどき様子を見に来るのよ。
今日も草抜きに来たら……あなたがいて、びっくりしちゃった」
加奈子さんはにこにこしながら、持っていたビニール袋を下ろした。
「すずらん、咲いてたでしょ? あれ、ね……あなたのお母さんが植えたのよ」
僕は息をのんだ。
「でも、こんなに何十年も……」
「ええ、咲くの。すずらんってね、ほんの少し根が残っていれば、また春に咲くのよ。
あの人、庭のあちこちに植えてたから。私ね、それ見るたびに思ってたの。
“あの子、いつか戻ってくるかしら”って」
そう言って、加奈子さんは少しだけ目を細めた。
そのまなざしが、どこか母に似ていた。
「あなた、お母さんに似てきたわね。目元とか、声の出し方とか」
言葉にならず、僕は黙ってうなずいた。
花が咲いていた理由。
あの香りに心が動いた理由。
ぜんぶが、線になってつながっていく気がした。
「私、駅の近くで小さな花屋をやってるのよ。
母の店ほどじゃないけど、少しでも思い出が残ればと思って。
……よかったら、今度遊びにいらっしゃいな。お茶でも飲んでさ」
「あの花屋……」
言いかけて、やめた。
昨日、駅前で出会った“年配の女性”。
加奈子さんと、確かに似ていた。
でも、あのとき感じた空気は、もっと違う何かだった。
もしかすると――
いや、きっと。
あれは「母が最後にくれた贈り物」だったのだろう。
再会ではなく、見送りでもなく、ただ“そばにいる”ということを、
花という形で伝えに来てくれたのだ。
「……ありがとう」
誰にともなく、そう言った。
母にも、加奈子さんにも、すずらんにも。
小さな白い花は、風に揺れながら、音のない鈴を鳴らしていた。