第4話:土の匂いのする記憶
花屋からの帰り道、ふとした拍子に足が止まった。
信号待ちの横断歩道。目の前を通りすぎた小さな子どもが、手に持っていた花を落とした。
母親がすぐに気づいて拾い上げ、軽く笑いながら言った。
「ほら、ちゃんと持ってないと、お花が泣いちゃうよ」
それは、ずいぶん前にどこかで聞いたような言葉だった。
──泣いちゃうよ。
その言い回し、声の調子、やさしい語尾。
頭の奥で、小さな「記憶の箱」が開く音がした。
思い出したのは、幼いころに住んでいた町のことだった。
母がまだ元気で、花屋のようにたくさんの花があった。
そして玄関先にはいつも季節の花が並んでいた。
その町の名前は、長いこと思い出せずにいた。
でも、今なら言える。
**「土井野」**という、小さな町だった。
もう何十年も行っていない。
駅の名前すら記憶の中であいまいになっていたが、
すずらんの香りを嗅いだときから、なぜかその場所の空気だけは、肌が覚えていた。
土の匂いと、雨上がりの石畳。
祖母の家の、ひんやりとした廊下。
裏庭にあった井戸のふち。
そして、母の声。
「……行ってみようか」
つぶやいてみると、不思議と心がすうっと軽くなった。
誰に会うわけでも、何をするでもない。
ただ、その場所に立ってみたいと思った。
すずらんを手に持って、あの町の空気を、もう一度だけ吸ってみたかった。
──
週末、僕は古い地図を頼りに、土井野駅に降り立った。
電車は1時間に1本。駅舎は昔と変わらず木造で、少し傾いて見えた。
降り立った瞬間、目の前に広がる風景が、胸をつかんだ。
あの頃より木々は少なくなり、家も建て替えられていた。
けれど、空の広さだけは変わっていなかった。
ここにはまだ、“母のいた時間”が、どこかに残っている気がした。
歩きながら、記憶をたどる。
坂道をひとつ越えて、小学校のわき道を抜けると、
かつて住んでいた家のあったあたりにたどりついた。
そこには、もう家はなかった。
更地になっていて、草が伸び放題になっていた。
でも、なぜだろう。立ち尽くしたその場所には、確かに“懐かしい空気”があった。
ゆっくりとしゃがんで、地面に手を伸ばす。
指先が土に触れた瞬間、胸の奥がかすかに熱くなった。
そのとき、視界のすみに白いものが揺れた。
風に吹かれて、小さな花が咲いていた。
それは、すずらんだった。
誰かが植えたわけでもない。
人の手が入っていないその草むらに、ただ、ひっそりと咲いていた。
まるで、「待ってたよ」と言わんばかりに。
思わず手を伸ばし、そっと触れた。
冷たく、やさしい花びら。
不意に、頬を涙が伝った。
何の前触れもなく、声もなく、ただ静かに――
僕の中で、何かが音を立ててほどけていった。