第3話:もう一度、あの店へ
朝方の光は、やわらかく机の上に射し込んでいた。
昨日、花屋でもらったすずらんは、ひと晩を越えてなお、静かにそこに咲いていた。
少しだけ首を垂れながら、どこか慈しむように、部屋の空気を見守っている。
僕は湯を沸かし、インスタントのコーヒーを淹れた。
その香りとすずらんの香りが、ほんの少しだけ交わる。
不思議な朝だった。
カップを持って窓辺に立ち、外を見下ろす。
見慣れた風景。
けれど、昨日と同じ景色が、少し違って見えた。
花のせいだろうか。
それとも、何かが動き始めたせいだろうか。
ふと、あの花屋のことを思い出した。
──あの女性は、誰だったんだろう。
なぜ、すずらんを「お代は結構です」と言って差し出してくれたのだろう。
ただの親切だろうか。
それとも、何か僕のことを知っていたのだろうか。
考えても答えは出なかった。
けれど、なぜか、もう一度行かなくてはならない気がした。
昨日は、何かを受け取っただけだった。
今日は、何かを返さなくてはいけない。
そんな気がしてならなかった。
駅前までの道を歩く。
ゆっくりと、でも迷いのない足取り。
気づけば、通り過ぎる木々の枝先に咲いた花や、道端の小さな芽吹きが自然と目に入っていた。
「どうして今まで気づかなかったんだろうな」
誰にともなく、そんな言葉が口をついて出る。
ずっと忙しかったから?
心に余裕がなかったから?
それとも、見たくなかったからだろうか。
心の奥の、長いこと閉め切っていた部屋の窓が、少しずつ開いていくようだった。
やがて、あの花屋が見えてきた。
しかし、そこに立っていたのは――昨日とは違う、若い女性だった。
茶色の髪をひとつに束ねたその女性は、僕を見ると軽く会釈をした。
「いらっしゃいませ。今日はどんなお花をお探しですか?」
僕は、少し戸惑いながら尋ねた。
「あの、昨日ここにいた方は……年配の、穏やかな女性でしたが」
彼女は目を見開き、少し首を傾げた。
「えっ? 昨日は私しかいませんでしたよ。朝からずっと、ひとりでお店にいたので……」
心の中に、そよ風のようなざわめきが走った。
じゃあ、あの女性は――誰だったのだろう?
言いようのない静けさが、僕の中を通り抜けていった。
でも、不思議と怖くはなかった。
むしろ、何かとてもやさしいものに包まれたような感覚だけが、残っていた。
「……すずらんは、ありますか?」
僕はそう訊ねた。
若い店員は笑顔でうなずくと、店の奥から、またあの白い花を持ってきてくれた。
昨日よりも、少しだけ背の高い、すずらんだった。