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第2話:母の花瓶

部屋に戻って、テーブルの上にすずらんを置いた。


小さな白い花は、どこか申し訳なさそうに、そっとうつむいていた。

透明なコップに水を入れ、茎の根元を少しだけ切って挿す。

不器用な僕にも、それくらいはできた。


部屋の中に、ほのかな香りがひろがっていく。


それは、かつて確かに知っていた匂いだった。

何十年も忘れていたのに、どこか身体の奥が覚えていた。

その香りに包まれていると、頭の奥にある古い引き出しが、ゆっくりと開いていくような気がした。




母の声を、ふと思い出す。


「すずらんはね、音のない鈴なのよ」

「音のない……鈴?」


「そう。だから静かな人のそばで咲くのが好きなの。うるさいところじゃ、花の声が聞こえなくなっちゃうから」


「花が……しゃべるの?」


「うん。ちゃんと、心で聞けばね」


まだ五歳か六歳だった頃の記憶だ。

僕は小さなイスにちょこんと座り、母の膝の上に置かれた絵本をじっと見ていた。

横には、すずらんの花を挿したガラスの一輪挿し。

夕方の光が差し込んで、母の髪と花が一緒に金色に染まっていた。


それが、僕の中にある「静けさ」の原風景だ。

すずらんの音のない鈴のような日々。

心に触れる声のように、そっと僕を包んでいたもの。




だけど、その花も、あの部屋も、ある日を境に突然、途切れてしまった。


「東京に行くぞ」


父の短い言葉がすべてを変えた。

母がいなくなったあと、僕は花を見ることも、香りを嗅ぐこともやめた。

弱くなるのが怖かったのだと思う。

心の奥で、泣いてしまう自分を必死に閉じ込めていた。


いつの間にか、僕は「花に興味のない男」になった。

忙しさや数字や、取引先の顔色ばかりを気にして、誰かの誕生日に花を贈ることも、思いつきもしなかった。




けれど今、テーブルの上に咲いた小さな白い花を見ていると、

あのとき聞きそびれた「花の声」が、確かにどこかから響いてくるような気がした。


「今なら、聞こえるんでしょ?」


すずらんが、そう言っているように思えた。


音のない鈴の声。

それは、忘れていた“やさしさ”を思い出す音なのかもしれない。


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