表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/7

第1話:すずらんの記憶

春の風が、うすく雲を裂いていく午後だった。


僕は駅前の横断歩道を渡る途中で、ふと足を止めた。

歩道の角に、小さな花屋ができていた。前はなかった店だ。

ビニールに包まれた季節の花が、控えめに並べられている。派手な装飾も看板もない。だけど不思議と、心がひかれた。


風に乗って流れてきた、かすかな香り。

何かに似ていた。

たとえば昔、遠足の朝に母がこっそりリュックに入れてくれたハンカチの香り。

あるいは、もう忘れたと思っていた部屋の陽だまりの匂い。


その匂いに吸い寄せられるようにして、僕は花屋の前に立った。


そこに、すずらんがあった。


白く小さなベルのような花が、静かに揺れている。

見ているだけで、なぜか喉の奥がつまる。


――この花、知っている。


そう思った。

けれど、どこでだったか、誰とだったか、はっきりとは思い出せない。


「すずらん、お好きですか?」


ふいに声をかけられた。

店先にいた、年配の女性だった。

控えめで、でもよく通る声。眼差しは、どこか懐かしい光を帯びていた。


「あ……いや、ただ、なんとなく」


僕はそう答えたが、すずらんから目を離せなかった。

なぜか、花の奥に幼い自分が立っている気がした。

あの頃、まだ母がいた頃。

夜になると、こっそり膝にのって絵本を読んでもらった日々。


――そうだ、母は花が好きだった。

僕が眠るころ、窓辺に飾られていた小さな花瓶。

その中に、いつも咲いていたのが……すずらんだった。


記憶の隙間から、色と香りがにじみ出すように広がっていく。

それは、ひどくやさしく、そして少しだけ痛かった。


「……母が、昔、よく飾っていたんです。すずらん」


声にしてみて、ようやく確信に変わった。


女性は微笑んで、花を一房、ラッピングしてくれた。

「お代は結構です。……思い出に、似合いますから」


名前も聞かずに、その花を受け取った。


――その日から、僕の中で、花がゆっくりと咲き始めた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ