第1話:すずらんの記憶
春の風が、うすく雲を裂いていく午後だった。
僕は駅前の横断歩道を渡る途中で、ふと足を止めた。
歩道の角に、小さな花屋ができていた。前はなかった店だ。
ビニールに包まれた季節の花が、控えめに並べられている。派手な装飾も看板もない。だけど不思議と、心がひかれた。
風に乗って流れてきた、かすかな香り。
何かに似ていた。
たとえば昔、遠足の朝に母がこっそりリュックに入れてくれたハンカチの香り。
あるいは、もう忘れたと思っていた部屋の陽だまりの匂い。
その匂いに吸い寄せられるようにして、僕は花屋の前に立った。
そこに、すずらんがあった。
白く小さなベルのような花が、静かに揺れている。
見ているだけで、なぜか喉の奥がつまる。
――この花、知っている。
そう思った。
けれど、どこでだったか、誰とだったか、はっきりとは思い出せない。
「すずらん、お好きですか?」
ふいに声をかけられた。
店先にいた、年配の女性だった。
控えめで、でもよく通る声。眼差しは、どこか懐かしい光を帯びていた。
「あ……いや、ただ、なんとなく」
僕はそう答えたが、すずらんから目を離せなかった。
なぜか、花の奥に幼い自分が立っている気がした。
あの頃、まだ母がいた頃。
夜になると、こっそり膝にのって絵本を読んでもらった日々。
――そうだ、母は花が好きだった。
僕が眠るころ、窓辺に飾られていた小さな花瓶。
その中に、いつも咲いていたのが……すずらんだった。
記憶の隙間から、色と香りがにじみ出すように広がっていく。
それは、ひどくやさしく、そして少しだけ痛かった。
「……母が、昔、よく飾っていたんです。すずらん」
声にしてみて、ようやく確信に変わった。
女性は微笑んで、花を一房、ラッピングしてくれた。
「お代は結構です。……思い出に、似合いますから」
名前も聞かずに、その花を受け取った。
――その日から、僕の中で、花がゆっくりと咲き始めた。