4.
「それにしても、今後どうなさるおつもりなの、リリアナお嬢様? やはりあの結婚話は白紙に戻ったってことで……」 「ええ。もう終わったことです。あの人のために作った品だと思っていましたけど……結局、私たちの作った技術をまったく理解していなかった。ならば今さら差し出す必要もありません」
ミラベルが「それでいいと思いますよ」と気丈な声をかける。彼女の表情からは、リリアナを大切に思う職人たちの心情がありありと伝わってくる。
リリアナは穏やかな笑みを浮かべた。工房こそ、自分を本当に必要としてくれる場所なのだ――そんな確信が胸に芽生えてくる。
「それにしても……バカにしやがって! この工房とお嬢様の技術をなんだと思ってるんだ、あの男は!」
「まあまあ、ガルスさん。怒りはわかるけど落ち着いて。私もまだ完全に頭を切り替えられてるわけじゃないから」
大声で憤慨するガルスをなだめながら、リリアナは微かに苦笑する。夜会の出来事を思い出すたび、彼の態度が頭にちらついて心がざわつくのは事実だった。
ただ、不思議と怒りよりも“空しさ”が先に立つ。あれだけ丹精込めて準備した贈り物に見向きもしないどころか、堂々と投げ捨てるような真似をされたのだ。悲しくて当然だろう。
クレアが戻ってきて、ハーブの香りが漂う温かい飲み物を彼女の手元へそっと差し出す。リリアナはカップを両手で包み、感謝の気持ちを込めて口元に近づける。
「ありがとう、クレア。落ち着くわ……」 「あなたはもっと自分のことを大事にしていいの。工房の皆さんも、リリアナの味方なんだから」
深くうなずいて飲み物をひと口すすると、心身が少しだけ軽くなるような気がした。
そうだ、父が築いたこの工房がある。彼女を理解してくれる仲間もいる。ここならば、どれだけ研究に没頭しても“重い”なんて言われずに済む。
そして明日からは、贈り物として準備していた剣や回復薬をどう扱うか、本格的に考えなければならない。すでに多くの打診が来ている以上、無視するわけにもいかないだろう。
「じゃあ、みんな。今夜はもう遅いから、一旦休みましょう。私も頭を整理して、明日また話し合いたい。今後の展開をどうするか……ね」 「わかりました、お嬢様。お休みなさい。何かあればすぐ呼んでください」
その言葉を合図に、職人たちはそれぞれの持ち場へ戻る。ミラベルは「後片付けしてから休みますから、先に休んでください」と目を細めて微笑んだ。ガルスもぶっきらぼうに「休めよ」と言って、工具を収納棚へ片付け始める。
クレアはリリアナを自室へと促し、二人並んで廊下を歩いた。
「ねえ、リリアナ。これからどうするの? 本当に貴族たちからのオファーが山のように来るだろうし、軍部とも話し合いが必要なんじゃない?」 「そうね……父がいれば、直接相談したいところだけど、今は王都の別邸にいてすぐには戻れないはず。とりあえず明日は工房の仲間としっかり話し合って、落とし所を探るわ」
アルトワーズ伯は、この国に数少ない“魔術工房”を立ち上げた功労者として、現在は多忙を極めている。王都や地方を往来して、魔術研究や工房の運営を指揮しているが、リリアナが結婚を控えていたこともあって、一時的に仕事のスケジュールを組み直していた。
だが婚約破棄になった今、父がどう反応するかはまだわからない。それでもリリアナは、自分の道を自分で決める覚悟が必要だと感じていた。
「クリスピンとの話はもう決着がついたし……あの夜会のおかげで、私たちの工房が一気に注目を浴びたとも言えるわ。これを好機と捉えるか、脅威と捉えるか……それは私たち次第ね」 「そうね。リリアナならきっと、技術を活かしてみんなを幸せにする道を探せると思うわ」
クレアの言葉は力強い励ましになり、リリアナの心に小さな灯火を点した。
二人は工房の奥にある私室へと入る。リリアナはしばらくベッドの縁に腰かけ、今日のことを反芻していた。――あの夜会での屈辱や悲しみ。それでも、自分を大切に想ってくれる仲間や友人、父の存在。
今この瞬間も、クリスピンを許せない気持ちは少なからずあるが、それを糧に前を向かなければならないと強く思う。
「いい? リリアナ。しっかり休むのよ。明日から忙しくなるんだから」 「ええ。ありがとう、クレア。あなたがいてくれて、本当に助かるわ」
クレアが部屋を出ると、リリアナは一人きりになった空間で溜め息を吐く。手に残った回復薬の瓶――これこそ、数か月間の研究成果そのもの。
金色の液体が微かな煌めきを放ち、まるでリリアナに語りかけるようだった。
「もしかしたら、私がこれを作った意味は、クリスピンを支えるためじゃなかったのかもしれない。いつか世界をもっと広い形で支えるために、私が必要だったものなのかも……」
そうつぶやくと、彼女はそっと瓶をしまい、静かに目を閉じる。
外はまだ夜の深い闇に包まれていたが、リリアナの心には、明日に向けた決意の光がともっていた。自分の作ったものを、どう活かしていくか。誰に手渡すのが最善なのか。慎重に判断しなければならないが、今はもう迷わない。
貴族たちの打算や軍事的な思惑に踊らされるのではなく、父が築いた工房と技術を守りながら、必要とする人たちに届ける。それこそがリリアナ・アルトワーズの新たな目標になろうとしていた。
夜会から逃げ出してきたあの瞬間を思い返すたびに、胸の奥はまだざわつき続ける。だけど、今はもう泣いていられない。
リリアナは枕元の灯りを消し、ただ静かに瞳を閉じた。黒い闇が訪れる代わりに、頭の中ではさまざまな設計図や新しい研究の可能性が渦を巻く。悲しみや怒りを紛らわせるようにして浮かんでくるのは、彼女が愛してやまない“ものづくり”に対する情熱だった。
「ここから……私の道を切り開くわ」
誰にも聞こえない、だけれど強い意志を含んだ声が静かな工房の夜に溶け込む。賑やかだった夜会とは対照的に、月明かりだけがしんと落ちる工房の空気は、リリアナに安らかな安堵を与えてくれる。
彼女の頬に、わずかな涙の跡が残っていたが、それはもう絶望を流すためのものではなく、次の一歩を踏み出すための決意のしるしだった。
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