17.
本日13時10分、14時10分の2話更新です!
夜の帳が降りた国境の村は、か細いランタンの明かりだけが頼りだった。リリアナが設置した防護魔術具がいくつかの拠点を結ぶように配置され、緊張感が漂う中、騎士団は交代制で警備を続ける。
そして深夜、遠くの山から響いた不気味な咆哮が、すべての始まりを告げた。土を踏み鳴らすような振動が近づいてきたかと思うと、闇の中から大型の魔獣が姿を現す。その体躯は馬をはるかに超えた大きさで、分厚い毛皮の間からぎらりと光る牙が覗いていた。
「来たか……っ!」
レイナルドがすぐに騎士たちに指示を出し、周辺に配置した兵士や村の若者たちも防御態勢を取る。リリアナは工房の仲間たちとともに、設置済みの防護魔術具を起動させるべく配置場所を走り回る。
「起動シグナルを送るから、皆さんは魔獣の注意を逸らしてください! こちらは防御壁を最大限に展開します!」
リリアナの呼びかけに応えるように、数人の兵士とレイナルドが前に躍り出る。暗闇に包まれた村の中央で、複数の小型魔術装置が淡い光を放ちはじめ、半透明のドーム状の防御壁が覆いを作る。
魔獣はその光を警戒するように咆哮を上げ、周囲に血のような臭いを漂わせながら、前足で地面を掻いた。まるで、この見慣れぬ障壁を攻撃すべきかどうか観察しているかのようだった。
「チャンスだ……今のうちに村人は避難を!」
ガルスが防衛線の裏側で指示を出すと、怯えた住民たちが護符を握りしめながら後退していく。魔獣の動きが止まっている短い間に、できるだけ多くの人を遠ざけたいのだ。
しかし、そのとき不意に甲高い金属音が響く。何と、クリスピンが手勢を率いて、前線の防御壁よりさらに外側へと突っ込んでしまったのだ。
「お、おいクリスピン様! そんなところに出たら……!」
騎士の一人が制止を呼びかけるが、クリスピンは聞く耳を持たない。ひと手柄を立てようと、勢いよく剣を抜き、魔獣の前に躍り出る。
「お前らが守り一辺倒なら、俺が斬ってやる! いけえっ!」
刃を振りかざす彼の姿に、魔獣が血走った瞳を向ける。次の瞬間、信じられない速度で突進してきた魔獣が大地をえぐるように前脚を振り下ろし、クリスピンが雇った兵士たちが悲鳴を上げて散り散りになる。
「なっ……!」
闇夜の中で、魔獣の巨大な影がひたすら圧倒的だった。クリスピンは何とか一撃をかわしたが、その勢いで剣を取り落とし、尻餅をつく。彼の従者もほとんどが逃げ腰だ。
その様子を見たレイナルドは歯噛みしながら叫ぶ。
「全員、前へ進むな! 防御壁から出るのは危険すぎる!」
だが、あまりにクリスピンが魔獣に接近しすぎてしまい、もはや防御壁の内側に戻るのも容易ではない。するとリリアナは短剣型の魔術具を握りしめ、「私が行きます!」と駆け出す。
「待って! 危ないですよリリアナ!」
同時にミラベルやガルスが制止しようとするが、リリアナは「大丈夫、計算通りに動いて!」と指示だけを飛ばす。仲間たちは彼女を信じて、防護壁をもう少し前へ展開しようと魔術具の調整に入る。
クリスピンに狙いを定めた魔獣が低く構え、もう一度突進しようとする。そこへリリアナは体ごと滑り込むように近づき、小型の防護盾を展開する魔術式を起動させた。
「……今っ!」
間一髪、光の楯が魔獣の牙を受け止め、ビリビリと火花が散る。巨大な衝撃でリリアナの肩は悲鳴を上げたが、それでも防御を維持したまま、一瞬の隙にクリスピンを盾の内側へ引き寄せる。
「お、お前……リリアナ?」
驚愕と混乱が入り混じったクリスピンの声が聞こえる中、リリアナはすぐさまポーチから取り出した小瓶の封を切る。こぼれ出す金色の液体――かつて彼が「いらない」と言い放った回復薬だ。
「動けるなら今のうちに壁の内側へ戻ってください。あなたの兵士たちも散り散りに逃げてる……」
「だ、だけど……」
言いかけたクリスピンに、彼女は回復薬をぐっと握らせる。細かな刃傷や打撲くらいなら瞬時に治せるため、ここでの素早い回復が生死を分けるだろう。
「ここからは私たちが対応します」
リリアナはそう告げると、小型盾の魔術式をさらに強化するための刻印を指先でなぞる。光のドームが一段と輝きを増し、その間にレイナルドら騎士団が周囲を回り込んで包囲態勢を整え始めた。
「はっ!」
一斉に放たれる投槍や弓矢の襲撃が、魔獣の体の横腹に突き刺さり、苦しげな唸り声を上げる。魔獣は標的をクリスピンからレイナルドたちに移したらしく、大きく振り回す前脚で土埃を巻き上げるが、防御壁の一部も手伝って衝撃は最小限に抑えられていた。
「やりましたね、リリアナ殿!」
レイナルドが短刀を抜いて魔獣の足元に攻撃を仕掛ける。まだ止めを刺すには至らないが、ダメージは確実に蓄積している。ほどなくして魔獣は苦渋の咆哮を上げ、山のほうへ退却しようと駆け出す。騎士団は深追いを避け、村に近づかせないだけの線を守りきる。
こうして初めての実戦は、おそらく魔獣側が引き下がる形で幕を閉じた。夜明けが近づく頃には、地面にへたり込む兵士や村人がそこかしこに見られたが、死者は出ていない。負傷者が出ても、リリアナの回復薬や護符の効果で重傷を免れた者が多かったのだ。
被害を最小限に抑えられた事実に、レイナルドや村人たちは胸を撫で下ろしている。そんな中、クリスピンは土埃まみれの姿で片隅に佇んでいた。回復薬のおかげで大怪我こそ免れたものの、予期せぬ衝撃に身体が震え、まともに立っていられない。
リリアナは仕事柄、負傷した兵士たちを手分けして回復薬で治療していたが、クリスピンに近づこうとはしない。傍らにいたミラベルが「お嬢様、あの人は大丈夫かしら?」と心配そうに尋ねると、リリアナは少し考えてから首を振った。
「大丈夫じゃないかもしれない。でも、今は応急処置したし、あとは本人がどうするか次第だと思う。私にできることは、もうあまりないわ」
自分の中から、クリスピンを助けたいという感情がすっかり消え失せているのをリリアナは感じる。彼は夜会の壇上で、あの宝剣や回復薬を“いらない”と切り捨てた人物。今日こうして救われたのに、感謝どころか悔しそうに地面を睨んでいるだけだ。
リリアナはそんな彼に対して、怒りや憎しみよりも“空しい”気持ちを覚える。むしろ、そこには同情すら湧いてこない。
「リリアナ殿、助けてくださってありがとうございます。おかげで、うちの騎士団も大事には至りませんでした」
レイナルドが走り寄り、深く礼を述べる。彼の頬には小さな引っかき傷があるが、回復薬ですぐに塞がる程度だ。
リリアナは少しだけ微笑み、レイナルドの傷を手当てする。
「いいえ、こちらこそ。最前線で踏ん張っていただいたおかげで、防御壁の展開が間に合いましたし、大型の魔獣を食い止められましたから」
二人が交わす視線は、先ほどまでの壮絶な戦闘を経てもなお、どこかあたたかなものを感じさせる。周囲にいる騎士団員や村の人々も、リリアナの技術とレイナルドの統率力を頼もしく思っているようだ。
一方のクリスピンは、そんな光景を遠目に見ながら、一言も声をかけられずに俯いている。自分の未熟さを晒しただけでなく、リリアナに救われるという皮肉な結果。何より、彼女が以前とは全く違う存在感を放っていることを痛感し、言葉を失っていた。
(……あいつはもう、俺の遥か前を歩いているんだな)
自分を助けてくれたことへの感謝すら言い出せないまま、クリスピンは打ちのめされ、膝に手をついて顔を伏せる。リリアナが振り向いてくれる気配はない。横にはレイナルドが寄り添い、まるで彼女を守るようにしている姿が見える。
夜明けを迎えた村には、幸い大きな犠牲は出なかったが、戦いはまだ終わりではない。魔獣は一時退却しただけで、再び襲来する恐れがある。
リリアナは気を緩めることなく、次なる備えのために工房の仲間とともに立ち上がる。その背中は、かつて婚約者だったクリスピンのほうを振り返りもしなかった。彼女の中には、もはや微かな同情すら残っていない――ただ“自分が守るべきもの”に集中するだけなのだ。




