1.
短編「婚約破棄なさるなら、国宝級の贈り物もいらないですよね?」の連載版になります!
※2話までは短編とほぼ同じ内容になります。
伯爵令嬢リリアナ・アルトワーズは、広々とした大広間の隅で膝の上に布に包まれた物を置き、黙々と点検を続けていた。今日は彼女と婚約者クリスピン・ウェンフィールドの「婚約記念夜会」。しかし、リリアナの気持ちは高揚しながらもどこか落ち着かない。
薄手のシルクグローブ越しに、彼女の指先は剣の鍔を優しくなぞる。それは数か月かけて工房の職人仲間と共に完成させた、世界にただ一振りしかない特別な武具だ。長剣の刃には緻密な魔術式が刻まれ、使い手を保護する力が宿っている。また、同時に回復薬の調合にも力を注いだ。錬金術の古代文献を紐解き、何度も失敗を重ねながらようやく辿り着いた秘法の結晶――瓶の中で揺れる黄金色の液体は、一滴で重傷すら癒やすと言われるほどの効能を持つ。
そんな国宝級の贈り物を、今宵は婚約者と交換するのだ。そう思うと、自然と胸が高鳴った。リリアナは平民出身だった自分を、家柄にかまけずに認めてくれる人がいるなら、それはどれほど幸せだろうと信じていたのだ。
けれど、同じ伯爵令息であるクリスピン・ウェンフィールドに関しては、よからぬ噂も少なくない。とりわけ社交界で名を馳せる遊び人ぶりは、リリアナの耳にも届いていた。
「本当に、あの方は私との結婚を望んでいるのかしら……」
そう思わずつぶやいたところへ、友人のクレアが心配そうに歩み寄ってくる。
「リリアナ、大丈夫? こんな大切な夜会なんだし、少しは楽しんだらどう?」
「ありがとう、クレア。だけど……最後のチェックが済むまでは気が抜けないの。これ、工房の人たちが総力を挙げて作ってくれたから」
リリアナはそう言って微笑んだ。彼女の青みがかった銀髪が柔らかな照明の下で煌めくと、クレアは「本当に似合ってるわよ」と言わんばかりに軽く頷く。
夜会が始まると、大広間には華やかに着飾った貴族たちが続々と集まってきた。豪奢なドレスを纏った淑女や、爵位を誇示するように胸を張る紳士たちが、食事や音楽を楽しみながら談笑を繰り広げている。
そんな中、「婚約者同士の贈り物披露」が行われることは、すでに周知の事実だ。アルトワーズ伯爵の娘でありながら、平民の出から工房を支えてきたリリアナと、名門ウェンフィールド家の跡取り息子クリスピンの縁組。それは上流社会にとっても大きな話題であり、期待もあれば揶揄もある。
やがて司会役の貴族が壇上へ上がり、大きく声を張り上げる。
「皆さま、本日のお集まりありがとうございます。それでは、婚約記念夜会の目玉であります、ウェンフィールド家のクリスピン様と、アルトワーズ家のリリアナ様による贈り物の披露を始めたいと存じます!」
人々の視線が一斉に壇へ注がれる中、リリアナは自分の贈り物を抱えたままクリスピンの隣に並んだ。しかし、彼の横顔は浮かない表情で、まともにリリアナの方を見ようとしない。
(どうしたのかしら……体調が悪いのか、それとも何か気に障ることでも?)
彼女が問いかけるより先に、クリスピンが口を開いた。
「……もう、限界だ。リリアナ、すまないが、俺はこの婚約を続けられない」
一瞬、何を言われたのかわからず息を呑む。周囲の貴族たちも「え?」と動揺し、ざわめきが起こる。
「俺は父に逆らえなくて、嫌々この縁談を受けていた。だが、お前は工房だの魔術だのと、俺にはまったく理解できないことにばかり没頭している。正直、退屈なんだよ。華やかで目立つ令嬢の方が俺にはふさわしいと思ってる」
凍りつく会場。リリアナは必死に落ち着こうとするが、胸の奥で苦しさが広がっていく。
「それに、そんな“得体の知れない”道具を贈られても困る。受け取って縁が残るのも嫌だ。捨ててくれ」
あまりにも屈辱的な言葉に、リリアナの指先から力が抜けそうになる。
(この人は、あんなに時間をかけて準備した品をゴミ扱いするの……?)
殺伐とした雰囲気に耐えかねた司会者が「ウェンフィールド様、今は婚約記念夜会ですよ」と諫めるが、クリスピンは聞く耳を持たない。むしろ「口を挟むな」とばかりに手を振り払う素振りまで見せる。
壇上のリリアナがじっと口を結んだまま俯くと、友人のクレアや周囲の貴族たちは息を呑むように見守るばかりだ。しかし、その中には知識のある王族や研究者の姿も混ざっており、彼らは彼女の手元にある剣や宝石箱に注目し始める。噂に聞いた“国宝級の品”かもしれない、という認識が一瞬で広まったようだ。
リリアナは、渾身の力を振り絞るように顔を上げる。そして、静かに問いかける。
「……では、本当にこの贈り物はいらないのですね?」