お前を愛することはない?私も魔獣以外愛する気はありませんの。おそろいですわね
「お前を愛することはない」
想いを通じ合わせ婚約を結んだ一組の男女。
王太子ヴァクト・ジェニエスと公爵家の娘クロエ・ペルヴィス。
彼らは恋人同士の甘い時間を過ごした機会が一度もないまま――ヴァクトの一言によって、関係修復が不可能な程に亀裂が入ってしまった。
「俺からの愛が、君に向けられることはないんだ」
なぜ二度も似たような言葉を口にする必要があるのか。
さっぱり理解できないクロエは、顔色を変化させることなく黙ってその場に佇んでいる。
(彼がこうして、白黒はっきりつけてくださったことを喜ばなければ……)
殿下は残念ながら、クロエをほっぽり出して浮気三昧の生活を送ることなく――他に好きな女性がいるわけでもなかった。
「お前を愛することはない」などと心ない言葉を投げ掛けられる原因があるとすれば、婚約を結んでから一年経ち、まともに会話したのは今日が始めてだったと言うだけの話だ。
言葉を交わし合えなければ、交流を深めるスタートラインにすら立てやしない。
それでもクロエはこの状況を打破しようと自ら彼へ会いに何度か王城へ顔を出していたが、ヴァクトの姿を見ることすら叶わなかったのだからどうしようもなかった。
「奇遇ですわね」
彼の告白にどう答えを返すべきか――迷いを生じさせたのは一瞬のことだ。
彼女は満面の笑みを浮かべると、彼が想定していない言葉を堂々と告げた。
「わたくしも、あなたを愛せそうにはありませんわ」
クロエが宣言した直後。ヴァクトは想像もしていなかった言葉を受け取り全身を硬直させる。
公爵令嬢が視線を逸らし紡がれた言葉を受け取った彼の見開かれた瞳には、“納得がいかない”と言う感情が込められていた。
「そう、か」
自分から提案したくせに。なぜ戸惑っているようにしか見えない反応を示すのか――。
さっぱり理解出来ないクロエは、無言で踵を返すとその場を去った。
*
「ああ、殿下。なんとお労しい……」
去り行くクロエの姿を無言で見つめたヴァクトの姿を真横で目撃した従者は、瞳から流れる涙をハンカチで拭いながら主に同情する。
彼が先程婚約者に告げた言葉が、本心ではないと知っているからだ。
ある特殊な事情を抱えたヴァクトを受け入れられる女性は、この世界のどこを探しても居ないと思っていたが――。
二人は恋に落ち、愛を確かめ合ってしまった。
それが悲劇の始まりになるなど、王太子と従者は思いもしない。
『殿下を愛した彼女ならば、受け入れてくれるだろう』
きっと大丈夫だと、一縷の望みを賭けてヴァクトを彼女へ託したのは間違いだった。
これ以上主へなんと言葉をかけてやればよいものかと従者が迷いを生じさせれば、ヴァクトは低い声で彼へ命じた。
「貴様はここにいろ」
「しかし、殿下! もう、ペルヴィス公爵令嬢とは……」
「……彼女の真意を確かめてくる」
彼女の背中を追いかけたところで、ヴァクトが傷つくだけだ。
従者は部屋を出ていこうとする主を止めたが、彼の意志は固い。
ヴァクトは指をパチリと弾いて己の姿を獣へ変化させると、外の様子を窺うため壁へ開けられた小さな穴にフサフサの毛並みを滑り込ませ、勢いよく飛び出して行った。
頭にくっついた2つの先端が尖った耳はピンっと伸び、もふもふとした触り心地のいい毛並みは銀色に光り輝く。
美しくしなやかな四肢が地を駆けるたびに、ヴァクトは言いようのない想いに支配されていた。
(クロエはなぜ俺を、愛せないと告げたんだ?)
――彼と彼女が初めて顔を合わせたのは、王太子が王城を抜け出した際に獣の姿でうろついていた所を魔獣と間違えられ、正義感を拗らせた人間に始末されそうになった時だ。
『一体なんの権限があって、この子の命を奪おうとしていますの!?』
ヴァクトが散歩中に偶然立ち寄った美しき花畑は、クロエの父親が納めるペルヴィス公爵領の一部であったらしい。
彼女の一喝により、人間達は逃げていく。
暴行を受けていた彼は重症を負う程度でどうにか危機を脱し、命を奪われることなく一命を取り留めた。
『本当に酷い怪我ですわ……。治るまで、わたくしが面倒を見ます。安心して、身体を休めてくださいませ』
ヴァクトの身体にぐるぐると包帯を巻きつけたクロエは、獣のフサフサとした毛並みに指先を這わせ、聖母マリアのような笑みを浮かべて彼に告げる。
その美しく光り輝く笑顔に心を奪われたヴァクトは、不相応な願いを抱いてしまった。
(――彼女が欲しい)
だが――彼女が彼へ親切にしてくれるのは、ヴァクトが獣の姿をしているからだ。
人間と獣。種族の異なる二人が心を通わせ合えたとしても、産まれる子どもは混血の子ども。
間違いなく、迫害を受ける対象となる。
(いくら俺の身分が、誉れ高いものであったとしても――)
いずれは獣の王となるべき男が率先して人間の娘を娶ると決めたなど知られたら、下々の者達も人間の女達を恋愛対象として見始めてしまうだろう。
(混血が増えることは、いいことではない)
ならば、ヴァクトが取れる方法は一つだけだ。
――獣の王としてではなく、一人の人間として彼女へ想いを告げる。
傷の癒えた彼はその身を人間の男へ変化させると、赤い薔薇を持ってクロエへプロポーズをした。
『俺の婚約者になって欲しい』
『殿下……喜んで』
満面の笑みを浮かべたクロエは、彼の手を取り婚約を結ぶ。
――そのまま結婚までの道をまっすぐ進めたら、ここまで苦労はしていない。
魔獣の国の王太子が人間の娘を婚約者に指名したことはすぐに国民の知る所となり、彼女の領地にはたくさんの獣達が押し寄せてしまった。
クロエを好意的に思う者達だけであればよかったが――危害を加えるものまで大挙として押し寄せてしまえば、それを止めるためにも彼は表立って彼女へ愛を囁けなくなってしまったのだ。
その結果、二人の道は違えてしまった。
(けれど、もし)
人間としてともに暮らすことはできなくとも。
本来の姿で再び、彼女と心を通わせられたとしたならば――。
(今度こそ俺は、誰に何を言われようとも彼女と添い遂げてみせる)
強い覚悟とともに四足で大地を蹴った獣は、中庭に広がる花畑の中心で何かを探すように視線を彷徨わせるクロエへ勢いよく飛びついた。
*
(確か、このあたりに……)
王城の中庭へやってきたクロエは咲き乱れる花々を見渡し、目当ての物を探し当てるために視線を彷徨わせる。
「狼さん……?」
「ガウッ」
クロエが不安そうに問いかければ。
ガサガサと花畑が激しく左右に揺れ、中から白いもふもふとした毛並みの獣が飛び出して来た。
勢いよくクロエの胸へ飛び込む魔獣は彼女を美しき花が咲き乱れる花園へ押し倒すと、胸元へ四足を乗せて嬉しそうに尻尾を振った。
「お待たせ! 今日も、元気ですわね!」
「ガルルッ!」
クロエの背に踏み潰されて散った花弁が宙を舞い、ひらりひらりと二人の頭上に降り注ぐ。
クロエが獣を抱き寄せれば、頬をぺろりと小さな舌が這う。
「ふふっ。くすぐったいですわ……」
ヴァクトと相対した際に見せた能面のような表情はどこへやら。
彼女は花が美しく綻ぶような心からの笑顔を見せると、狼とじゃれ合った。
「狼さん。今日はあなたに、お別れを言いに来ましたの」
「ガウ?」
「婚約者から、好きになれないと言われてしまいましたわ……」
先程起きた出来事をさっそく打ち明ければ、獣はグルルと唸り声を上げて不満そうにする。心優しきクロエを悲しませる男など、さっさと別れたらいいんだとでも言いたそうな態度を目にした彼女は、狼を落ち着かせるように優しく首元を指先で撫でつけた。
「でも、わたくしだって。彼よりもあなたのことが好きですもの!」
「ガルル……」
「このまま婚約破棄になったとしても。わたくしは狼さんにさえ会えれば、それで構いませんのよ?」
「ガウ、ガウ……」
それは駄目だと言うように、獣は何度も首を振る。
彼には何度も婚約者と関係が進展しないことを相談していた為、諦めるのはまだ早いと勇気づけてくれているのかもしれない。
それはとてもありがたいことだと感じながら、クロエは言葉を重ねる。
「ただ、もしも婚約破棄が正式に受理されてしまえば……わたくしはここへ足を運べなくなってしまいますの」
「キャゥウ!?」
狼は悲鳴のような鳴き声を上げると、クロエと離れるのが嫌だと叫ぶように毛皮を押しつけてきた。
彼女も獣を安心させるように、ゆっくりと触り心地のいいふわふわとした毛並みを上から下へと撫でつけた。
「狼さんは、王城で飼われているのでしょう?」
「アオーン……」
「わたくしと一緒に、外へ出ればいいんですわ!」
「ガウ?」
悲しそうに目を伏せた獣に、公爵令嬢は明るい声で提案する。
狼はクロエがこの中庭へ姿を見せると待っていましたとばかりに彼女の胸へと飛び込んで行くが、手錠や首輪がついているわけではない。
完全に、放し飼いの状態だ。
(狼さんをドレスの裾の中へ隠せば、きっと守衛さんに止められることなく外へ出られるわ!)
クリノリンによってふんわりと広げられたドレスの中へ獣が収まっている光景を想像したクロエは、狼と目を合わせて言い聞かせた。
「わたくし達は想いを通じ合わせているんですもの。種族の壁など飛び越えて、ずっと一緒に暮らしましょう!」
「ガウッ!」
クロエから素晴らしき提案を受けた獣は、元気よく返事を返す。
だが、その返答を耳にしたクロエの顔色はどんどんと悪くなっていく。
心配そうに彼女を眺める獣の毛並みを優しく撫でながら、クロエはか細い声で呟いた。
「あの方と婚約破棄をしても、平気ですわ……。わたくしには、あなたさえいれば……」
「グルル……」
先程の光景を思い出して、不安になったのだろう。
狼を抱き締めながらゆっくりと上半身を起こしたクロエは彼と婚約を結ぶ前に過ごした日々のことを思い浮かべ、瞳に涙を潤ませる。
『クロエ。俺は君を愛している』
『殿下……。わたくしもあなたへ、永遠の愛を誓いますわ』
二人が婚約者として過ごすようになって一年間が経過したが、デートどころかまともな会話すらも許されなかった。
『帰ってくれ』
彼へ会いに来ても背を向けて追い返される苦しみをこれから経験しなくてよくなると思えば、これほど素晴らしいことはないだろう。
(そう。今はとても、清々しい気分ですわ)
彼よりも、もっと大切な人ができた。
狼は婚約者が生み出したクロエの寂しさを埋めるようにするりと隙間へ入り込み、彼女を愛してくれている。
(たとえ人間の言葉を、交わし合えなくとも……)
鳴き声だけでも何を伝えたいかくらいは、よく理解しているつもりだ。
(女としての幸せなど、必要ありませんわ)
王太子との婚約が破棄されたと知られたら、社交界で傷物扱いされて社交どころの話ではなくなってしまう。
格好の的になるくらいであれば、彼が大切に育てた獣を奪い取り、人里離れた山奥でひっそりと穏やかな暮らしを営んだほうがいいに決まっている。
「わたくしは、あなたのことが大好きですわ」
「ガウッ!」
ヴァクトへの想いを断ち切るかのように。
獣に告げたクロエの気持ちへ答えた狼は、彼女の頬をぺろりと舌で舐め取る。
すると、獣の舌が彼女の唇に触れ合った。
(わたくしの、初めての口付けの相手があなたなんて……)
ショックだったのではない。
むしろ、大好きな相手と交わし合えたのだから、これを喜ばずとしてどうするべきか。
クロエが頬を赤く染めながら、狼の口が離れたのをじっと見つめている時のことだった。
――狼が、眩い光に包まれたのは。
「狼さん!?」
愛しき獣が消えてしまうのではないかと危惧した彼女はもふもふとした毛並みに強く抱きつき顔を埋めると、離れないようにしがみつく。
だんだんと触り心地のいい毛並みの感覚が、ゴツゴツとしたものに変化していくのを不思議に思いながら。
――光が薄れた瞬間。
彼女の腕の中に収まっていたのは――。
「君は人間ではない俺を、本当に愛する覚悟があるのだな」
頭の上に二つ。左右についた狼の耳をぴょこりと動かし、臀部にくっついた尻尾を左右に揺らしながら。
王太子とそっくりな顔をした獣人が、至近距離で人間の言葉を喋った。
「殿下……? 狼、さんは……?」
「あれは、俺だ」
腕の中にすっぽりと収まっていたはずの狼が、三角に尖った獣耳と尻尾を生やした見覚えのある獣人に変身し――彼女を抱きしめている。
これに驚いたクロエは必死に彼の腕の中から逃れようとするが、ヴァクトはけして彼女を離そうとしなかった。
わかっていたからだ。
ここでクロエを手放せば、二度と彼女が王城の庭園へ現れることはないのだと。
「どうして……?」
「俺は人間としてお前と心を通わせたが、あれは仮の姿だ。いつかは必ず、正体が露呈する」
彼は彼女の心を繋ぎ止めるために、素直な自分の気持ちを吐露し始めた。
「怖かったんだ。化け物を好きになるんじゃなかったと言われるのであれば、終わらせようと思った」
「そんなこと……!」
その言葉を耳にしたクロエは何度も首を左右に振り、“それは違う”と必死に伝える。
かつて王太子を愛した。
その気持ちは本物で――狼に抱く想いもまた、嘘偽りのないものだと自覚していたからだ。
「言葉など、通じなくたって構いませんのよ。心さえ一つならば、恐れることなんてありませんわ!」
二人が別人であれば、獣とともに行方を晦ませようとしていたクロエにとって、王太子と狼が同一人物であったのは朗報だった。
「わたくしは、狼さんが好きですもの。誰より、何よりも」
「クロエ……」
「ですから、無理に人型を保たなくても構いませんわ」
「――お前を傷つけるようなことを言って、悪かった」
「気にしていません。安心して、本来の姿にお戻りくださいませ」
申し訳無さそうに視線を下に向けてか細い声で告げるヴァクトへ優しい言葉をかけた彼女は、彼が再び獣へと姿を変える瞬間を心待ちにする。
「その前に、これだけは伝えさせてくれないか」
「なんですの?」
「すべてを受け入れてくれて、本当にありがとう」
「どういたしまして」
「――俺はお前を、愛している」
額に口付けを落とした王太子を次に目にした時には、いつもの見慣れたもふもふとした毛並みに戻っていた。
「狼さん!」
「グルル……」
大好きな狼の身体に彼が戻ったと、クロエは大喜び。
触り心地のいい毛皮を両手で撫で回して堪能した彼女は、不満げに唸り声を上げる獣を落ち着かせるように喉元へ指先で触れ――。
「お慕いしておりますわ。殿下」
「ガウッ!」
今後はちゃんと名前で呼ぶようにと元気な鳴き声を上げた彼を抱きしめた。
『お前を愛することはない』
そんな心ない王太子の発言によって終わるはずだった二人の関係は、今もまだ続いている。
互いが愛しき存在であると、打ち明けられなかっただけだと気づいたから――。