夢の続きを、僕は雨天に綴る。
この手紙があなたへ届くかは、私には判りません。
ですが、どうか綴らせてください。
あなたと過ごしたこの一ヶ月。
雨模様の毎日を、僕は一生涯忘れることはないでしょう。
伝えそびれた心からの感謝を、今ここで。
ありがとう。そして、さようなら。
僕は、あなたのことが──
昔から、梅雨の時期が大嫌いだった。
じめっとしてるし、少し頭も痛む。
百害あって一利なしだ。
今だってそう。僕は非常に困っている。
「(しくじったな、傘なんて持ってきてないのに)」
先生の長話を聞き流し、泣き出しそうな曇天を窓越しに眺める。
もっとも、泣き出したいのはこちらである。
濡れネズミになりながらの帰宅なんて御免だ。
それなのに、今日のSHRは心なしか長い。
何がショートか。短く済ませる努力をしてくれ。
「それで、皆さんに大切な発表があります」
担任の先生の、ひときわ大きな声が耳朶を打つ。
全くの上の空だったから、どういう「それで」かは知らないが。
「なんと、このクラスに転校生がやってきます!」
その発言に、周囲がにわかにざわつき出す。
まだ夏休みには少し早い六月ではあるが、はてさて、どんな事情だろうか。
しかし、こんな田舎の中学校へとやって来る人があれば、それだけで一大事。
沸くクラスメイトたちの気持ちは分からんでもない。いや、いい歳して張り切る先生はどうかと思うが。
「なーなー、夏樹は転校生、男子だと思う? 女子だと思う?」
「少なくとも、お前が女子だといいなと思ってることぐらいは分かる」
頭だけをぐりんと後ろの僕に向け、ご多分に洩れずテンション高めで話しかけてくる悪友に、適当に返す。
「おうともよ! 中二の夏、転校生とのラブロマンス! よくね?」
「妄想はチラシの裏にでも書き連ねておいてくれ」
「夏樹、なんか今日は辛辣じゃない?」
典型的なしょんぼり顔を見せ、前に向き直る。
表情が豊かなやつだ。
「それでは、入ってきてね」
先生が促すや、おずおずと教室の扉が開かれる。
途端、いったんは収まりかけた周囲の熱が再燃する。
肩まで伸ばした髪は綺麗な濡羽色。
どこかあどけなさを残してはいるが、美人になるだろうと一目で分かるその容貌。
なるほど美少女である。
黒板に、「白河 二葉」と白いチョークで描かれる。
どこか小動物のような女子だ。いわゆる庇護欲をそそられる、というやつか。
可憐な彼女のことだ。きっと順当に恋愛などして、学校生活を送っていくのだろう。
こんなひねくれ者とは関わらず、幸せに過ごせばいい。
SHRが終わるやいなや、クラスメイトたちが彼女に殺到し、無遠慮な質問責めを仕掛けていく。
娯楽のない田舎の中学生にとって、転校生とはそういう存在だ。
どうか頑張って乗りきってくれ。
おざなりなエールを心中で飛ばして、教室の扉に手をかけた。
◇ ◆ ◇
「ふう、危ないところだった」
優柔不断な曇天は、ついに泣き出した。
急いで帰ったおかげで大して濡れはしなかったが。
さて、洗濯物をまとめてコインランドリーへと行くか。
そろそろお風呂の掃除もしたい。ああ、今日は急いで出てきたから、水に浸けておいたままの食器も洗わないと。
台所に移動して、冷蔵庫を確認する。
料理はいつも通り入っていた。
ラップに包まれたチャーハンと、その上には「レンジで温めて食べてね」との旨を記したメモ。
その文面の最後は、常に「ごめんね」で締められる。
母親だっていつも忙しいだろうに。感謝こそあれ、恨んではいない。
でも。
もう父は帰ってこないのだから、そろそろ再婚を考えてもいいんじゃないだろうか?
いよいよ雨音が強くなってきた。
ああもう、煩いな。
◇ ◆ ◇
これは夢か。
そうであるとしっかり理解できる。明晰夢というやつだろう。
随分と久しぶりの感覚だ。
頭は冴えている。僕の右手は思ったままに開いて、閉じる。
暇つぶしに、散策でもしてみようか。
椅子から腰を上げ、辺りを見回す。
妙に視点が高い。
どうやら、ここは書斎のようだ。見覚えはない。
僕の家ではなさそうだ。
真っ先に目についたのはカレンダー。最初は六月の十日、今日の日付け。そこから毎日赤いペンでバツが付けられている。
それが途切れているのは六月の二十一日。
何らかの事情があって途切れたのか? それとも、今がその二十一日?
やたらと現実的で、奇妙な夢だ。
と、入り口の扉がノックされる。
開けようかと思ったら、先に入られてしまった。
「シュン、遅刻するよー?」
見覚えのない女子用制服。揺れて存在を主張するポニーテール。
意志の強さを感じさせる瞳が、こちらを見つめている。
そして、その顔には覚えがある。
昔見せてもらった、アルバムの中の母親。
それが今、僅かな焦りの表情を浮かべて眼前に存在する。
妙な感慨が浮かんでくるな。
そして、少し遅れてもう一人。
その人物は、別種の驚きを僕にもたらした。
「(白河……だったか?)」
つい先ほど、と夢の中で言うのもおかしな話ではあるが。
初めて見たばかりの顔がそこにある。母親然とした少女同様、制服をまとって。
「なにぼーっとしてるのシュン、さっさと行くよ!」
手を掴まれ、書斎から引きずり出される。
やはり、奇妙な夢だ。
いいや、夢はこれくらい奇妙なものか。
◇ ◆ ◇
薄い光が窓から射し込んでくる。
スマホを手に取り、電源を付ける。
五時三十二分。目覚ましよりも早く起きてしまったな。
布団から這い出して、ぼんやりとしながら部屋を出る。
リビングには、朝食が用意されている。
まだ僅かに湯気を発している。
家の中には人の気配はない。
木製の椅子に腰を下ろし、味噌汁を一口啜る。
ほう、と息をつく。
窓越しに外を眺めれば、相変わらずの曇天。
今日は傘を持っていこう。
◇ ◆ ◇
いつもより時間に余裕がある状態で登校したが、さすがに早すぎたな。
廊下に生徒の姿はほとんどない。
さすがに手持ち無沙汰、余った時間をどうしようかと思ったが、とりあえず教室へと行くことにした。
友人の一人でもいれば、他愛ない話で暇を潰せるだろう。
が、それも失策であった。教室には、端の席で黙々と読書する白河だけ。
すごく気まずいな。
刺すような沈黙に耐えかね、適当な話題でも振ろうかと思ったが。
「あ、あのっ」
彼女も同様に息苦しさを感じていたのだろうか? 先に言葉をかけられ、思わず言い淀む。
「何だ?」
一瞬ののち、かろうじてそう返す。
されど、果たしてなにを話すことがあるだろう?
僕は彼女について知らない。
彼女も僕については知らないはずだ。
ところが。
「すみません、“中村 駿也”さんという方をご存知でしょうか?」
絞り出されるようなその言葉に、僕は今度こそ絶句した。
微かに息を吐き、吸って、少し冷静さを取り戻す。
「駿也は僕の父親だよ。どうして君が知っているかは知らないけれどね」
例えば、“可児江 駿也”と聞かれていたのなら僕はここまで動揺していなかっただろう。
それは父のペンネームだ。もっとも、その名前で出した本は一冊きりだが。
だが、“中村 駿也”の名前を彼女は知っていた。
このクラスの人間ですら、誰も知らないはずなのに。
この少女が、不気味に思えて仕方がない。
「もう一つ、聞いてもいいでしょうか?」
それに対し、僕はなにも応えられない。
やがて無言を肯定と受け取ったのか、白河は続ける。
「中村さんは今、なにをしていますか?」
純粋な疑念を孕んだ瞳。
その問いに対する解を、生憎と僕は持ち合わせていた。
「亡くなったよ、病気でね。とっくの昔に」
予測してはいたが、その瞬間、空気が質感を伴って沈んだ。
「すみません、辛いことを思い出させてしまって」
白河は慌てて手を振る。
この話をしたときに決まって現れるこの空気感が、僕は嫌いだ。
「別にいいよ。気にしてないから」
そう言って、自分の席へと向かう。
気にしていないのは事実だ。実感が湧かないというのが正確だろうか?
僕が小学校に上がる前にいなくなった父親の顔は、どこか朧げで。
窓の外を眺めていた。
泣けなかった僕の代わりのつもりだろうか?
ざあざあと、雨が地上へと注がれていた。
◇ ◆ ◇
その夜も、似た夢を見た。
昨日と同様の、見慣れぬ書斎の中に立っていた。
カレンダーを確認する。
乱雑に破られたそれは、昨日見たものとは違って七月に入っていた。
真っ赤なバツ印は七日で途切れ。そして七月十日、そこには「お別れ」と書いてある。
そのまま立っていても仕方ないので、椅子に腰掛ける。
と、机の上に一通の手紙を発見する。
傍らには、芯が出たままのボールペン。
途端に興味が湧いてきたので、開いて読んでみる。
その最初の文。そこには、「白河さんへ」との文字が。
そして、「この手紙があなたへ届くかは、私には判りません」。
短い文章である。
されど、僕はこの綴られた文章に、夢の中とは思えない確固たる意味と意思を感じた。
「僕は、あなたのことが──」
その先は、いったい何を書こうとしていたのか?
分からない。分からないのに、右手が動く。
未完成の文章を書き上げようと、ペンを掴む。
それなのに。
「がッ……!?」
左手で胸を押さえる。
熱い。心臓が張り裂けてしまいそうに、熱い。
体験したことのない感覚に、抗う術などなかった。
身体の芯は熱いのに、やけにひんやりとした表皮の感覚。
それだけを知覚しながら、僕の意識は暗闇に落ちていった。