妖怪屋敷の箱入り娘
――この町にある山。そこにある階段を登った先の大きな屋敷を訪れてはいけない。
――訪れると、帰ることは叶わない。
――『帰らずの屋敷』には、妖が潜んでいる。
その屋敷に肝試しで訪れた夕間 凪。彼がそこで出会ったのは不思議な少女――大咲 凛花だった。
凛花は今までその屋敷を出たことがないと言う。
だから凪は楽しい世界を見せるため、凛花を街に連れだすことに。逢瀬を重ねるたびに凪と凛花は互いに惹かれていく。
しかしそれを阻むのが、帰らずの屋敷、そしてそこに潜む何かだった。
「ビルって、ものすごく高いんでしょう?」
「その一番高いところから飛び降りる。『私は今幸せだ』って、大手を振って」
「それが私の願い」
ごく普通の男子高校生と、屋敷に潜む何かに魅入られた少女。
これは彼らが織りなす、不思議な一夏の物語。
――町にある山。そこにある階段を登った先の大きな屋敷を訪れてはいけない。
――訪れれば、帰ることは叶わない。
――『帰らずの屋敷』には、妖が潜んでいる。
そんな、地元に伝わる噂話。与太話。
七月下旬の炎天下。午後五時という夕方に差し掛かる時間にその屋敷は――燃えるような紅葉に囲まれていた。
俺の肌を撫でる熱気は本物だ。頭上から突き刺さる日差しも現実だ。現代に似合わない、立派な和風の屋敷も確かに存在している。山火事かと錯覚してしまうほどに鮮やかな紅葉も、見間違いじゃない。
俺はただ一人。階段をのぼりきり、滝のように溢れてくる汗を拭いながら、その光景に見惚れていた。
それはまさに異世界のようで。
その絵画のような世界の中心、屋敷の縁側。
「――あら?」
そこに、彼女はいた。
年は多分俺と同じくらい。着物のようなものを身に纏い、俺に目を向けコテンと首を傾げれば腰まで伸びた綺麗な黒髪が波打つ。
「何百年ぶりかしら、ここに誰かが来るのなんて」
そういって微笑む彼女は、まるで異世界のようなこの空間で、人間離れした美しさを放っていたのだ。
◆
「どうしてこうなった……!」
畳の上で慣れない正座で顔をしかめ、そう口にした。外に目を向ければ、俺が潜ってきた門が見える。眩しいくらいの紅葉、そしてさっきまで見知らぬ少女が腰掛けていた縁側。
つまり俺は例の帰らずの屋敷の中にいた。
見るだけ見て帰ろうとしたのに。こうなってしまった原因を頭に浮かべたところで、襖が開く。
「ごめんねー。今、こんなものしかなくて」
「い、いえ……お構いなく……」
ルンルンと効果音がなりそうなくらいにご機嫌な例の少女がそこにいた。名前を大咲 凛花と言うらしい。
いやしょうがないだろ。つい見惚れているところに、「あ、お茶でもしてく!? 嬉しいなあ! お客さんなんて久しぶりね!」と捲し立てられたんだ。
大咲は正面に腰を下ろすと、両手で湯呑みに口をつけ喉を鳴らした。
「そっか、ここ、『帰らずの屋敷』なんて言われてるのね」
この屋敷に関する、地元の噂話。それを聞いた彼女が口にしたのそれだけだった。
「そんな怖ーいところに、なんできたの?」
「肝試し。クラスの奴らが俺をビビリって馬鹿にしたから、そいつらに見せつけてやろうと思って」
「今昼だけど?」
何言ってるんだ。夜に肝試ししたら怖いじゃないか。
「その……あんたがその妖なのか?」
「私は違うわ。他の子は?」
「途中で急に顔青くして帰った」
「そう。君、相当鈍感なのね」
鈍感。霊感的に、という意味なんだろうけど、少しムッとした。
「そんなことないぞ」
「ううん、鈍感よ。だってほら――後ろ」
「――ッッ!?!?」
跳ねるようにして振り向く――が、紅葉が舞っているだけだ。
「何もないじゃないか!!」
「あははははは!!!」
彼女は楽しそうにカラカラ笑う。
ったく、何が妖だ、何が『帰らずの屋敷』だ。いたのはただの性格が悪い女子じゃないか。
せめて物憂さ晴らしに、スマホを開く。逃げ帰ったあいつに「美少女と知り合えたぞ」と自慢してやろう。
どうせなら彼女の容姿を事細かに教えてやる。そう考え、大咲の方に視線を向けると、視界を彼女の顔が埋め尽くした。
「うわぁ!?」
のけぞるようにして彼女から距離を取る。見開かれた黒い瞳に吸い込まれそうになる。
「な、なんだ!? 一体何して――」
「それ携帯電話ってやつ!?」
「……はあ?」
一体何かと思えば何いってるんだ。戸惑い気味に頷くと、大咲は興奮気味に俺からスマホを奪い取った。
「ちょ、それ俺の――」
「返す! ちゃんと返すからちょっと見せて!」
自由すぎる……。「ほー。へー」と子供みたいに目をキラキラさせながら眺める彼女に返せとも言いづらかった。
っていうかこいつ、スマホのこと知らないのだろうか。同年代っぽいのに、この田舎で顔すら見たことない。ってことは箱入り娘とかだろうか。
彼女を眺めて、ふと気づく。
――指がない?
楽しそうにスマホをいじるその細い指。やっぱり見直して見ても何本かそこにあるはずの指がなかった。具体的には右手の小指と薬指、左手の薬指。
生まれつき障害があったのか、それとも何か事故でもあったのか。事故でなくなったにしては変ななくなり方だけど。
そんなことを楽しそうにしている彼女を眺めながら考える。
「あっ……」
そんな時、小さく彼女が声を漏らした。チラッと見えた感じ画面が消えている。知らないうちに切ってしまったのか。
彼女はスマホをちゃぶ台に置くと、不意に片手を上げ――
「えいっ!」
拳をスマホに向かって振り下ろす。
「ちょっと!?」
「あ」
すんでのところでスマホを手に取る。ターゲットを失ったその拳は、力強くちゃぶ台を打った。
「何してんの!?」
「何って、壊れたみたいだったから。私知ってるのよ? 機械が壊れたら、叩けば直るんでしょう?」
「昭和か!!」
ふふんと自慢げに胸を張る彼女につい頭を抱えた。
「なんなんだ……タイムスリップでもしてきたのか……?」
スマホのことも知らないみたいだったし。今のだって昔の常識ってことに目を瞑っても、試したこともないような口ぶりだった。
「まあ、似たようなものかしら」
しかし彼女は、当たり前のようにそういった。
「テレビとか本はあいつがどこからか持ってくるから知ってはいるんだけど、実物を見たことはなかったから」
「あいつ?」
「あー……まあ、ここの家主みたいなものよ」
その時、初めて彼女の声に憂いが混じる。視線を向ければ、困ったように笑って見せた。
「その、お前、まさかここから出たことないのか……?」
「……そう、ね」
現実的ではない。今の時代、そんなことがあり得るのか。でも納得はできた。さっきの行動も、同年代らしいのに一度も見たことがないのも。
「病弱とか?」
「今まで病気になったことないわ」
「こう……世間に知られちゃいけない子供とか」
「失礼ね、ごくごく普通の女の子よ」
「日光を浴びたら消滅するとか」
「私は人間って言ったじゃない」
「ま、まさか……お化け、みたいな……?」
「だから人間だって!」
なら、余計に。
外に出たことがないのはおかしいだろ。
「俺が連れてってあげる。一緒に遊びに行こう」
「――!」
すると彼女は、大きく目を見開く。
人生楽しくあるべきだ。もちろんいろんな事情があって、やるべきことがあってそれをできない時はしょうがない。でもそうじゃないのなら、一度しかない人生、精一杯楽しむべきだ。
なんて言ったら子供とよく言われるけど。見たところ、大咲にそんな事情は見えなかった。
「だめ、よ……」
「ここは田舎だけどさ、街に行けば、いろいろ面白いものがあるし。それに楽しいし」
「……あはは。楽しいって、君、子供っぽいってよく言われない?」
「うっさい」
「ふふっ、ごめんなさい。……うん、そうね、なら、お願いしよ――」
その口元を手で隠しながら微笑み、こちらに目を向けた――その瞬間。
「待って!!!!」
まるで、時間が止まったような感覚だった。
鬼気迫る表情を浮かべる彼女に、俺はうろたえることしかできない。
「ど、どう――ッッ!?!?」
突然右頬に伝わる感触に体を固まらせる。
乾いているような、湿っているような、柔らかいような、堅いような、熱いような、冷たいような、とにかく今まで感じたことのない感触。わかるのは、何かが右頬に触れていることだけ。
「待って、お願い。この人は、悪くないの。私が、自分で行きたいっていったのよ」
彼女の視線は俺に向いている。でも、俺を見ていない。その意識の先にあるのは俺の――背後。
でも俺は背後を向くことができなかった。今見たら、何かが終わる気がした。
何が、というわけでもない。でも、終わってしまう気がした。
だから俺はただ一人、息を殺していた。
「五回――ううん、三回でいい。酉の正刻までには帰るから。お願い」
その声は細かく震え、突けば消えてしまいそうな。
一度顔が酷く歪む。しかし大きく息を吸い、彼女は口にする。
「私の――好きな部分あげるから」
一気に風が吹く。外の紅葉が室内にまで舞い込んでくる。
五分か、五秒か。彼女は崩れ落ちるように腰を下ろした。それに釣られるようにして、止めていた息を思い切り吐き出した。
「はぁ……!」
「っ……はっ……はっ……!」
頬の感触が消える。全身にまとわりついていた寒気が消える。ああくそ、鼓動がうるさい。心臓が頭にあるみたいだ。
なんだ、今の。何が起こっていた? いや――何がいた?
恐る恐る、正面に向き直る。彼女は、何も起こっていないかのように微笑んでいた。額に滲んでいた汗を拭う、その細い指に目がいく。
不自然に数本の指がかけた、不完全な手。それが何を示すのか、その一端が頭によぎる。
「……やめる?」
困ったような顔をして、彼女はそう問いかけてきた。
無意識に頷こうとして、思いとどまる。
俺は何しにきた? ビビリとか馬鹿にしてきたやつを見返すためだろ。なら――いるかどうかもわからない何かにびびるわけにはいかない。
「まさか」
「! そう。楽しみにしてるわね!」
そう笑う彼女は、ごくごく普通の少女のようだった。





