木星、行きます~人類で初めて超音速へと到達した魔女が木星へ辿り付くまでの物語~
世界統一魔女機構の下部組織である航空宇宙魔女局は、ある発表を行った。「木星への有人探査を実行するにあたり、クルーの募集を行う」と、そして世界中から集まったのは無数のはみ出しもの達。詐欺師、山師、借金まみれの冒険家、時代遅れの海賊、元軍人、異端の科学者、そして超音速の魔女。彼等は厳しいテストをいかにくぐり抜けるのか? 誰が木星探査クルーに選ばれるのか? 果たして木星へと辿り付くことができるのか? 超音速の魔女”銀髪のイギー”は不敵に笑い、髪の毛と同じ銀色の杖を星々の海へと指し示す。「私はもっと速く、もっと遠くに行きたいだけさ」
「もうすぐ夜明けね、じゃ、そろそろいってくるわ、アンディ」
「イギー、本当にやるのかい?」
イギーと呼ばれた少女は、あたり前だと言わんばかりに銀色の杖を宙へと放り投げ、ひらりと舞い上がるとその上に片足で乗った。
見事なバランス感覚と体幹の素晴らしさは鍛錬を積み重ねてきた賜物であるのが一目で分かる。
彼女の乗った杖は、アンディの目の前で浮き続けていた。
宙に浮かぶ杖に乗るものといえば、この世界では何者なのか決まっている。
魔女。
曙光が雪原を照らし始める。
反射光が眩しくなり、イギーはゴーグルを顔に降ろし、毛皮帽子と防寒具の具合を確かめる。
「村一番の杖の使い手が、世界で一番に手がとどくかもしれないんだよ? やらないわけがないじゃない、ねえアンディ」
「でも! 人間が音速を越えられるわけないじゃないか! 摩擦熱で沸騰しちゃう! 空気抵抗が無限に増えちゃう! 音速の壁にぶつかってバラバラになっちゃう!」
「アハハ! 大丈夫、あんたが作ってくれた機械がついてるんだもの!」
悪戯っ子のような笑みを浮かべながら、首に掛けた懐中時計のようなものをぽんぽんと叩く。
「僕はそんなことのために作ったんじゃない! キミを護るために……お師匠様に怒られちゃう!」
「馬鹿ね、師匠ならどっちにしたって絶対に喜んでくれるわよ、アハハッ!」
「うううーっ! イギーのばか!」
ばかと言われた途端に、イギーのブラウンの瞳がギラギラとした輝きを得る。アンディはゴーグル越しでもそれが見えたような気がした。
だめだ、こうなったらもうイギーは絶対に止まらない……長年の付き合いのあるアンディは思わず溜め息を吐く。
「だから、空気が薄くなる3000m以上、できればもっと上がるつもりなんだ」
1.5mほどの長さの銀色の杖は、先端にルビーのような精霊石が埋め込まれていた。それが呼吸をするように明滅を繰り返し、少しずつ上昇していく。
「だ、だめだよ、空気が薄くなったら今度は酸欠でやられちゃうじゃないか!」
「なぁに、ちょっと息を止めたらいいだけよ」
「ば、馬鹿なこと言わないでよ!」
「冗談よ、実はね……高度1万mまで上昇したことがあるの!」
アンディがあんぐりと大口を開けて驚愕の声を出す前に、イギーは急上昇した。
魔女が杖や箒を使って飛ぶというのは、古代アトランティスの時代より行われており、移動、通信、偵察、その他考えられるあらゆることに利用されていた。
空を飛べてこそ一人前の魔女という考え方があり、イギーは魔女となった時に最初に覚えた魔法は、基礎中の基礎となる空中浮遊の魔法だった。
それからもう10年は経っただろうか、イギーは村でも一番の使い手となってしまった。
杖を使った飛行はポピュラーなもので、複数の魔法を組み合わせるのがセオリーだった。念動力に加速、空中浮遊に加速、あるいはもっと単純に加速を複数かけて無理矢理空を飛ぶという方法もあるが、こちらはあまりにもエレガントさに欠けるので使い手は稀だった。
そうでなくとも、姿勢制御の魔法を使うのが当たり前であり、自身の高度や方向を知る位置情報感知も併用する。
つまり、空を飛ぶ魔女というのは複数の魔法を同時に詠唱できるマルチユーザーという証拠であり、一人前の魔女の証と言えた。
イギーは、自分が上昇していくのを感じると、まるで大空を支配しているかのような気分になる。
200m、頭の中に高度の数値が浮かぶ。村があんなにも小さい、村はずれの師匠とイギーとアンディが一緒に住む家が見える。600m、家々が豆粒のように小さくなり、風が強くなる、凍てつくような寒さに思わず身体をぎゅっと抱きしめる。
この時代、魔女でなくとも空を飛べるようになった。飛行機が開発され、戦争にも使われた。あの忌々しい大戦が終わったのも、ついこの間のことだ。
1000m、もっと高く、山よりも積雲よりももっともっと高く。ここまで高くなると、アンディの姿はもう見えない。
東の方を見れば、王都が見えたような気がした。爆撃によって廃墟となった街。そこには姉夫婦がいたはずだ。死亡通知も無事だという便りも、まだ届かない。
2000m、気温はすでにマイナス10度を下回った。空気も薄くなっていく。本来ならそろそろ環境保護フィールドを張って楽になるべきだが、イギーは魔力を温存するために姿勢制御と浮遊しか使っていない。
魔法の杖による飛行は、生身が剥き出しであるために、せいぜい高さ1000mが限度だと言われていた。そうでなくとも落下の危険を考えれば数mから10m、速度も通常は自転車ほどの早さで……実際のところそれで十分だった。空を飛ぶというアドバンテージは只人と比べればそれほどまでに大きかった。
イギーは、歯の根が合わぬほどの寒さに耐えていた。3000m、気温はマイナス23度、猛烈な寒気の風を考えれば体感はマイナス35度ほどだろうか。
飛行機の登場は、魔女から空を奪った。飛べぬ只人も機械の力で飛べるようになり、何十倍もの人や物資を運んだ。必要とされて速度もさらに増していった。
そして、あの大戦が始まった。7ミリ機銃でばたばたと撃ち落とされていく義勇兵の魔女達。機械による圧倒的な速さと力の前では、猫並みの機動力など無意味だった。魔女達が鋼鉄の鳥と戦う方法を覚える頃には、多すぎる血の代償を支払った。
「そろそろいいかな……っと!」
イギーは、高度5000mを越えると、その防寒具を脱ぎさった。猛烈な風に煽られて防寒具は遙か彼方へと吹き飛ばされる。
そこにあったのは魔女の正装、ミニスカートにセーラー服で杖の上に仁王立ちするイギーの姿だった。
毛皮帽子から解放された長い銀髪が、風にたなびき、発光と共にゆらりと浮かび上がる。
「イグニッション!」
力が発動する。
全身の経路に魔力が流れだす。環境保護フィールドを張って半径2m以内の温度を10度ほどまで上げる。気圧が一気に戻ったために耳が痛み、耳鳴りがする。イギーは耳抜きをすると両足を踏ん張る。
環境保護フィールドは風の影響を受け、西から東へ吹く風に猛烈な勢いで流されていく。
それでもイギーは落ち着き払って、アンディから貰った懐中時計に命令する。
「プログラムスタート、同時詠唱開始、第1から第4詠唱」
それは、魔力の増幅器であると同時に同時詠唱が可能となる機械だった。魔女は最低でも2つ同時に、ベテランともなれば4つから8つまでの同時詠唱が可能だ。
だが、この並行詠唱魔力増幅器は、最大で16までの詠唱を可能とした。
「さあ、行くよ……私!」
師匠は、アンディの作った並行詠唱魔力増幅器のプロトタイプを使っていた。
それを使って飛行時は最高時速500キロを越え、一人で王国の空を護れるほどの実力の持ち主だった。それでも新型の飛行機と対魔女戦術には勝てなかった。一命は取り留めたが片足を失い、二度と飛ぶことは叶わなくなった。
「第5から第8詠唱開始、浮遊は高度6000mを維持、環境保護フィールド変形開始、重力制御開始……カウントダウンで0と同時に第9から16を順次詠唱、全力加速コード……確認」
イギーは、負傷した師匠からそれを譲り受け、アンディと共にさらなる改良に勤しんだ。大戦が終わった後も、何かに取り憑かれたかのように。
そして今、超音速への挑戦を開始した。それは師匠の敵討ちのつもりだったのか、それとも……
10、9、8、7、6、5……
心の中でカウントダウンを続ける。環境保護フィールドが変形し、超音速を突破するのに相応しい形となっていく。不可視の透明フィールドは、気温と気圧の差から太陽光を屈折し、その姿を見せた。
4、3、2、1……
精霊石を中心に円筒を形作り、前方に空気を切り裂くような円錐を、左右に広がる翼を形作った。
それは皮肉にも、師匠を落とした飛行機と同じ形だった。姿勢制御を環境フィールドに依存するというのはアンディのアイデアだった。
「ゼロ」
第一加速、体内の魔力機関が唸りを上げる。精霊石と並行詠唱魔力増幅器による三重稼働は、莫大な出力を発揮する。
「300、400……500……第二加速!」
第1から第8詠唱までを生命とフィールド形態の維持に振り分け、第9から16詠唱まで全て加速振り分ける。エレガントさの無い、爆発的な力のみの多重加速。
「第三、第四加速……マッハ0.88……0.91」
音速へと近づき、前方に圧縮され粘り始めた空気で、環境保護フィールドがぶるぶると震える。怖い、恐ろしい、加速をやめたい。安全装置無し。まるで自殺志願者。あの世への片道切符。向こう見ずの蛮行。
そんなことはイギーも分かっていた。でもやめられなかった。
「第五、第六加速……マッハ……0.94……0.97」
まるで地面へと激突しそうな錯覚。だけどもう止められない、止まらない、音速を超えるまでは。
「第七加速! マッハ0.98……0.99!」
変則的な激しい揺れ、目の前がぐにゃりと歪む。
「第八加速!」
ふいに振動が収まった。まるで宙に浮いているかのような気分だった。初めて浮遊魔法を使って、重力から解放された歓喜を思い出す。
「マッハ1.00……1.01……1.02!」
イギーは音速の壁を越えた。
この瞬間、魔女達の歴史を大きく変えてしまったことなど、全く想像だにしていなかった。





