落日の刻、影は彼方へ
2020年晩夏。
東大生兼作家の北条昴は政府関係者とのコネを利用して取材旅行へ出かけた。
行先は山に囲まれた田舎町。目的は街中に佇む巨人『蜃鬼』。
害がないとされる影のような巨人は町のシンボルであり、日本の国宝にも指定されている。一目見た北条も脅威を感じることはなかった。
同時に宿泊する民宿で看板娘のうずめと出会う。蜃鬼を他の人たちと違う見方をする北条に興味を持った彼女は、彼のためと積極的に取材を協力してくれた。
だが、取材を重ねるごとに北条はある違和感を募らせていく。
ある日、それは形となった。うずめが神隠しにあったかのように忽然と消えてしまったのだ。
そして、北条は必死の捜索の末に忘れ去られた伝承に行き着く。
うずめの失踪と蜃鬼が結びついた時、彼はこの国の真実を知ることになる。
――どうやら神様は穏やかな終幕なんて望んでいないらしい。
お盆の帰省シーズンだというのに、僕は実家と反対方向の新幹線に乗った。
それが早朝の出来事。
現在は手続きが終わるのを駅舎内のベンチに座りながら待っている。
噂には聞いていたが、本当に入国審査のような厳重さだ。日本国内の、しかも〝あるもの〟以外なにひとつ特産品もない片田舎に足を踏み入れたいだけだというのに。
まあ、〝あるもの〟は名物とも言える。そのせいで国から厳重に管理され住民以外は特別な許可を得た人間しか市内に入れない、という問題を抱えた世界的に有名な場所なのだから。
「お待たせしました。こちらでもう一度証明書をお見せください」
ごく普通の駅員の格好をした男性に言われるがまま、僕は財布よりも大事に持っていた封筒から紙切れ一枚を抜き取り手渡した。
「北条昴様。東京大学に生徒として在籍。来訪の目的は〝蜃鬼〟に関する文献の閲覧及び実際の観測。卒業論文のテーマにでもなさるのですか?」
「いえ、学業の合間に小説を書く仕事をしていまして。その取材です」
「ああ、実物に触れてインスピレーションを得る、というやつですか。そういう目的でしたら国から許可をもらうのも大変だったでしょう」
「コネがありましたので。それよりも講習が大変でしたね」
「この町で生まれ育った私からすれば、蜃鬼なんてその辺にある大きな電柱のようなものなんですがねえ。まあ、仕事の糧にして頂ければ幸いです」
国から発行された証明書が僕の手元に戻ってくる。このまま突っ立って促されるがままというのも癪なので、こちらからスマホを駅員さんに手渡した。
「電話番号の控えは大丈夫ですか? 承知だと思いますが、通話の一部始終は録音されますので――」
「だ、大丈夫です。講習で習いましたので……」
平日に大学で講義を受けた後、毎日二時間を一ヶ月。蜃鬼とこの町についての講習を受けたのだ。よそ者らしく郷に入れば郷に従うつもりである。
「左様ですか。ではこちらを。荷物の方は問題ありませんでしたので、そのまま出られて構いませんよ」
自分のスマホと引き換えに、カメラも付いていない携帯電話を受け取る。
それから、衣類以外はメモ帳と辞典程度しか入っていない鞄を手に取り、駅員さんに軽く会釈して駅舎のドアを開いた。
まず、耳をつんざくセミの大合唱が迎えてくれた。真夏の青空から容赦ない日差しが降り注ぐ。
そして、佇む大きな影が僕を見下ろした。
――蜃鬼。
幻影の鬼、黒き巨人、だいだらぼっち。
言いようは様々だ。
身長四十メートルのひょろ長い人型の影。文字通り影が立っているかのような。
歩き回るが範囲はこの市内のみ。それなのに足跡まみれになっていないのが不思議である。だいだらぼっちのように地形に影響を与えたという記録はない。
言い伝えに寄れば、日本という国が誕生した時からこの地に存在しているらしい。そんな日本人にとってお馴染みの蜃鬼だが、世界的に見ても類なんてあるはずもなく。
国宝として指定されている巨人を一目見ようと押し寄せてくる国内外の観光客はシャットアウト。僕のように許可をもらって訪れる人間も数年に一度の頻度らしい。
「写真撮ればバズるんだろうけどなあ。まあそんなことをしたらアカウントどころか自分の身すら危ないけど」
こちらを見ていると思わしき蜃鬼に手を振ってみる。特に反応はなく、歓迎も警戒もされていないという印象だ。
これまでに蜃鬼が人に危害を加えたという記録もない。逆なら長い歴史で幾度とあったらしいが、幻影の鬼らしく効果はなかったと聞く。
こうして実物を見ても、どこか蜃気楼のようだ。
しかし、この炎天下で考察を始めるのは愚行である。倒れたら強制送還だ。まずは今日から一ヶ月お世話になる民宿へ向かおう。
――と、タクシーを探したが影もなく。
バス停の時刻表は次の到着を三時間後としていた。
つまり、歩くしかない。
スマホもないので人生で初めて紙の地図を広げ目的地を探すことになった。
※
田畑だらけの田舎道を歩き、なんとか一件の木造住宅にたどり着いた。振り返ると蜃鬼がこちらを見ているような気がしたが、相手をしている余裕もない。一刻も早くこの張り付いたシャツを脱いでシャワーを浴びたいからだ。
玄関の横に設置されているボタンを押す。
もう一度押す。
しかし、待てども人は出てこない。
よくよく耳を澄ませてみると、このボタンを押しても家の中は静かなもので何も鳴っていなかった。
ひと息吐く。
それからガラス戸を『タン、タン』とノックした。
「こんにちはー! 今日からお世話になる北条ですー!」
水分を欲している喉に鞭打って声を張り上げる。その甲斐あってか、家の中から声が聞こえた。
「お母さーん。お客さん来たみたいだよ」
「今ちょっと手が離せないからあんたが出ておくれ」
「えー、こんな格好だけど、まあいっか」
女の子とその母親の会話。声の感じから女の子は高校生ぐらいだろうか。
ガラス戸の向こうに人影が映る。
「はーい、いらっしゃいませ。ご予約の方ですか?」
「……そうです」
戸の向こうから現れたのは、小麦色の肌をしたショートカットの女の子であった。その髪は濡れており、くしゃくしゃっとなっている。
「はーい、って、あんたなんて格好してるんだい! そんなはしたない格好でお客さんの前に出るんじゃないよ!」
廊下の向こうから現れた恰幅の良い女性が言うように、目の前の女の子はなかなかに刺激的な格好であった。
白のタンクトップにショートパンツ。凝視せずともブラを付けていないのは明白だ。
あどけなさが残る顔立ちだが立派なボディを持つ彼女に、僕は表情を崩さず下心がないとアピールするのが精一杯であった。
「すみませんねえ、見苦しいものをお見せしてしまい。さあさあ、暑かったでしょう。先にお風呂はどうですか?」
「ぜひとも」
「うずめ! お客さんがお風呂に入るから準備してきておくれ!」
「えー、今漫才の番組観てたんだけど」
「お母さんは夕飯の下ごしらえが大変なの! あっ、その前にお客さんをお部屋に案内してあげて!」
「もう、はーい」
うずめと呼ばれた女の子は不満げにしながらも民宿を切り盛りする母親には逆らえない様子だ。なかなかに衝撃的な出会いではあるが、長期滞在する不安が少し和らぐのを感じた。
「お部屋は二階の二◯三号室になります。どうぞこちらへ」
「あっ、はい。失礼します」
玄関からすぐ伸びる階段を登る。
顔を上げるとうずめちゃんのお尻が目に入る。
前を向くとすらりとした綺麗な脚が。
必然的に足元を見ながら登ることになり、安全に二階へたどり着けた。
「こちらでーす」
ドアノブを回して開かれた扉の先には六畳ほどの和室。ちゃぶ台が置かれ、その周りに座布団が二つ敷いてある。
「ここのふすまを開けたら布団があるので。下の段に金庫があってここに――」
うずめちゃんが色々と説明してくれているが、僕は別のことに気を取られていた。
窓の向こうで青空を背景に、蜃鬼がこちらを見ていたのだ。黒に塗りつぶされた顔に表情があるのかわからない。それが余計に不気味である。
「何かわからないところはありますか?」
「えっ、あっ……、特には……」
怪しさ満点の受け答えをしてしまい、うずめちゃんは首を傾げた。そして、先ほどまで僕が見ていた方角に目を遣る。
「ああ、蜃鬼ですか。外から来た人にしたら薄気味悪いですよね。私らは動く大きな電柱ぐらいにしか思ってませんけど」
駅員さんも言っていたが、あれを電柱扱いできるのは余程のことだ。それほどこの地に住んでいる人たちには身近なもので害のないものなのだろう。
「でもあっち向いちゃってますね。お客さんを襲おうという気はさらさらないでしょうから気にしなくて良いですよ」
「えっ? こっち見ているんじゃないの?」
そう言って蜃鬼を指差して見たが、やはりこちらを見ている気がする。
「いえ、あれは山の上にある観測所センターの方を見てますね。顔があるのかないのかよくわからないと思いますけど、長年見てるとわかるんですよ」
「へえ、すごいんだね」
「そうでしょうそうでしょう。ま、地元民ならみんなわかるんですけどね」
服からこぼれてしまいそうな胸を張って自慢する彼女を見ないように、僕はまだ蜃鬼を見ていた。巨大な影にしか見えないそれから視線を感じるのもおかしな話である。
「では、私はお風呂掃除をしてくるので。終わったら呼びに来ますからごゆっくりどうぞ」
「ありがとうございます」
ガチャンと扉が閉じられると、バタバタと勢いよく階段を降りる音が響いた。
いつの間にかうずめちゃんが冷房を点けてくれていたらしい。座布団に座ってやっとひと息つくことができた。
しかし、ただの観光に来たわけではないので、しっかりと取材して小説のネタにしなくては。
鞄から取り出したメモ帳に、蜃鬼を初めて見た感想やコンビニもほとんどないこの地の田舎っぷり――、それと民宿は当たりを引いたようだ、と記しておいた。
ふと、また窓の外を見遣る。
相変わらず蜃鬼がこちらを見ている感覚に襲われ不安な気持ちになる。
カーテンを閉めようか。そのうち慣れるだろうが今じゃない。
そう思い立ち上がり、分厚い紺色のカーテンに手を掛けた。その時、
「笑った……?」
これも気のせいなのだろう。しかし、全身に悪寒が走った。
僕は民宿のそばに立っている電柱すらも恐ろしくなり、その目を遮るためにカーテンを力強く閉めた。