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ハルキゲニアの背中のトゲトゲ

ハルキゲニア──それは、カンブリア紀に生息した奇怪な姿の小さな生物。八対の細長い脚と、背中には同じ数の棘を持ち、復元図における前後上下が二転三転したことでも知られる。

新進気鋭かつ容姿端麗な准教授、時枝蓮太郎にとって、ほとんどの異性は「ハルキゲニアの背中の棘」、つまりどうでも良い存在だ。美貌と肩書を目当てに群がる女性を退けるために、あえてちっぽけな古生物に喩えるのが彼の手口だ。しかし、それが通用しない女が現れる。「えー、本当は違いますよねえ? 先生って、どうでも良さそうなことが気になっちゃう人ですよねえ?」彼女──青木史香は、時枝の弱みを握って囁きかける。「そこを見込んで、お願いしたいことがあるんですけどお?」

「ハルキゲニアの背中の棘」──普通の人なら見落とす違和感を見つけてしまう研究者と、彼を振り回す女子大生の凸凹コンビが謎を解くライトなミステリ。

 時枝(ときえだ)蓮太郎(れんたろう)は、研究室の机に一冊の本を広げた。ハードカバーの学術書、目的のページには付箋が貼ってある。


「これ、ハルキゲニア」

「はあ……」


 ページを埋め尽くす英文にたじろいだのか、時枝の差し向かいに座った女子学生はマスカラに縁どられた目を瞬かせた。

 時枝が開いたページには、奇妙な形状の生物の図が載っていた。ミミズのような胴体に、八対の細長い脚が生えている。脚には昆虫のような関節はなく、胴体と同様にゅるりとした質感だ。首に相当する部分は長く、頭部にはつぶらな、と言えなくもない目が点々とついている。さらにその生物には、背中からも二列八対の棘が、脚に対応して生えていた。


「知ってると思うけど、バージェス動物群のひとつ。……カナダのバージェス頁岩から発見されたカンブリア紀の化石群だね。バージェス・モンスターとも呼ばれるくらいに多種多様な形態の動物で有名だけど、このハルキゲニアは特に変わっててね」

「はあ」


 バージェス・モンスターと言えば現生生物にはない奇怪な形状が人気でティラノサウルスほどでなくても有名だろうに。女子学生は巻いた髪を指先で弄んで首を傾げるばかり。古生物学の准教授の研究室を訪ねておいて、まさかバージェス動物群を知らないんじゃないだろうな、と懸念しながら時枝は本を回転させた。


「発見された当初は、この棘の方が脚だと思われてた。頭もこんな風に長くなくてね、排泄物が一体化して化石化してたのが──つまりは肛門側が頭部として描かれてしまったりね。それから研究を重ねて、前後上下が()になったのが、今では正しい復元図ということになっている」


 女子学生が時枝の()()に興味なさげに欠伸を噛み殺すのを見て、彼の懸念は確信に変わった。同時に、胸の中で深々と溜息を吐く。


()()か……)


 くっきりとした顔立ちとめりはりのある体型をそれぞれ強調するメイクといでたちの「彼女」研究室の扉をノックしたのは、ほんの数分前のことだった。


『どうしても先生とお話したいことがあってえ……』


 講義に関する質問なら、もちろん願ってもないことだった。だが、「彼女」のほんのりと染まった頬や潤んだ目、甘えたような口調は、時枝に警戒心を抱かせた。

 時枝蓮太郎という人間は、並外れて整った顔をしている──らしい、のだ。皮一枚剥がせば人間なんて似たような造作なのだろうに、多くの男女が表面の配置や形状にこだわるのが、彼には今一つ理解できないのだが。物心ついてからこの方、彼の周辺では女性由来のトラブルが絶えないことからして、経験則として受け入れざるを得ない事実だった。准教授として青簡(せいかん)学園に職を得てからは、煩わされる頻度はさらに上がっている。新進気鋭、容姿端麗の青年研究者、などと、赤面してしまうような形容を耳にしてしまってもいる。


「君は、僕にとってハルキゲニアの背中の棘だ。どっちが背中でも腹でも良い──どうでも良い存在だ」


 大量発生したサバクトビバッタの勢いで突進してくる女性を退けるため、時枝が編み出したロジックが「ハルキゲニアの背中の棘」だった。大きいもので三センチ程度、現生生物に受け継がれている訳でもない古代の生物に喩えられて良い顔をする女性は、今のところいない。彼の言葉を理解できるか否かにかかわらず、とにかく「対象外である」ということは伝わるようだ。ちなみに学生時代にハルキゲニアの背中の棘()()、と発言して酷い目に遭ったので、表現は微妙に修正している。


「時枝先生──」


 彼女の次の行動を見逃すまいと、時枝は身体に力を入れた。彼自身はともかく本を守るために、お茶の類は出していない。以前、コーヒーを浴びせられたこともあるのだ。とはいえ大声を出されるか掴みかかられるか、人間の女性は全く油断できない。だが──彼女は、赤く塗られた艶々とした唇に、()()()()弧を描かせた。


「意外っていうかやっぱりっていうかあ、自意識過剰ですね♪」

「な……っ」


 研究室に、高く軽やかな笑い声が響く。今まで彼が出会った女性の中で、こんな反応をする者はいなかった。怒るか、彼の話に興味があるフリをするか、美貌──と、彼女たちは認識しているらしい──や肉体で迫ろうとするか。でも、彼女の反応はそのどれにも当てはまらない、煽るような嘲笑だった。


「若い女に用があるって言われたら、告白一択ですかあ? そりゃ、その顔だったらおモテになるんでしょうけどお」

「それは……! その、だって、君は何も知らなさそうだから──」


 彼女の嘲りの理由を悟るにつれて、時枝の頬が熱くなる。また面倒が起きるのだろうと決めつけて、告白される先手を打って断ったつもりだったが──彼女の()()が違うのだとしたら。これは、とても恥ずかしい事態だ。


「ええ、学生に手を出したりしたら、マズいですもんねえ♪ でも、偏見と先入観で決めつけるのってえ、研究者にあるまじきことですよねえ?」


 そう、いかにも派手で、見た目で人に狙いを定めそうな女だ、と思ったからこその対応でもあった。でも、見た目で勝手に判断したのは時枝の方だ。研究者失格と言われても当然のこと、一回り年下の学生に嗤われても返す言葉が見つからない。赤面したきり口ごもる時枝に、でも、彼女はさらに追い打ちをかける。


「時枝先生が調子に乗ってるみたいってえ、倫太郎(りんたろう)伯父さんに言っちゃおうかなあ?」

「……りんたろう……伯父さん?」


 彼女がぐいと顔を近づけて囁いても、不思議と不快には感じなかった。色仕掛けの意図はないと分かるからか、彼女の糾弾に動揺してしまっているからか。ただ、彼女が告げた名前が引っかかった。彼が知る人間の中に、その名前の人物は確かにいる。しかし、伯父さんなどと気安く呼びかけられる存在では、少なくとも彼にとっては、ない。

 彼が眉を寄せたのを見て取って、彼女の唇が描く弧が深くなった。そして──


「申し遅れましたあ、私、青木(あおき)史香(ふみか)って言います。青簡学園の学長の、従妹の子供の子供……だったかな? とにかく、親戚でっす!」


 彼女は高らかに宣言すると、学生証を掲げて時枝に見せつけた。そこに貼付された証明写真の「彼女」は、目の前の姿とは違って色のないメイクに括っただけの髪型だった。つまり時枝は、最初から彼女に騙されていたという訳だった。




「……つまり君は、学長から例のことを聞いていたのか……」


 青木史香のために改めてコーヒーを淹れてから、時枝は立ち上る湯気を揺らして深々と溜息を吐いた。

 例の、とは彼が青簡学園に採用される切っ掛けとなった事件だ。新進気鋭の若手研究者とやらの実態はこれだ。研究成果が全く採点の外だったはずはないのだが、それでも決め手になったのは学長との個人的な繋がりだったのだ。あの時の青木倫太郎学長の、子供のような好奇心に輝く目を思い出すと、時枝のちっぽけなプライドがじくりと痛む。


「ですね。コネってことじゃないんですけど、面白そうな先生いないですかあ、って聞いてたんですよ」


 彼が忌避した単語をさらりと告げて、青木史香は笑う。


「他言無用とお願いしていたんだが……」

「ま、身内のことなんで。それに、私だってバラしたくはないんですよお?」


 時枝は、今やふたつの弱みを彼女に握られているという訳だった。ひとつは、研究者にあるまじき先入観での決めつけについて。そしてもうひとつは、例の事件を知られてしまったことについて。()()が世間に知られたら色恋沙汰以上に面倒な事態になるのは明白で──だから、彼は脅されている、のだろう。


「ハルキゲニアの背中のトゲトゲはどうでも良い──」


 警戒も露わな時枝の表情には無頓着に、青木史香はコーヒーを啜り、紙コップを机に置いた。


「そんなこと、本当は思ってないですよね、先生? 馬鹿な女に分かるように言ってやってるだけで。専門分野ですもん。本当は、気になって気になって仕方ないんですよねえ?」

「……君にはどうでも良いだろう。それなら同じじゃないか?」

「うーん、正直言ってトゲトゲの意味はあんまり、ですけどお」


 青木史香の喋り方を、時枝は最初甘ったるいと認識していた。だが、学生証の写真を見た後だとまた印象が変わる。相手に構わず自分のペースで喋り続ける、いわゆるオタク気質によくあるものだ。こういう女性が彼に寄ってくることは今までなかったから、新種の動物を間近に見る思いだった。貴重な経験……と、言えるのかどうか。


「先生の顔も同じくらいどうでも良いですね! 私にとって重要なのは──」


 す、と人差し指を伸ばすと、青木史香は真っ直ぐに時枝の顔を指した。無礼を気にする前に、時枝は彼女のネイルに目を留める。真っ赤に塗った上にラメを施したそれは、彼女の素であろう姿にはそぐわない。ならば、青木史香は彼を()()ために爪先まで変装していたということだ。それが何なのか──時枝の顔に興味が浮かんだのを見て取ったのだろう、青木史香はまたにこりと微笑んだ。


「大昔の虫みたいなやつの、表と裏とか上とか下とかが気になっちゃう性格、ですかねえ? 細かいっていうか追及癖っていうか観察眼っていうか? 伯父さんが言ってた事件もそれのお陰で解決できたんですよねえ? だから、そういう粘着質なところを見込んでですねえ、手伝って欲しいことが、あるんですけどお?」

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