妹に殺されるのは俺だけでいい
緋桐冬也は、平凡だった。二〇年前、突如として人類の六割に異能力が発現し、瞬く間に異能は世界の当たり前となった。そして、腕輪型異能管理装置、SMRによって異能の濫用を防ぎ、ほぼ完全に異能が管理された日本で、冬也は何の異能も発現せずに暮らしていた。しかし、それは幸いだった。異能に自我を呑み込まれ、脳すらも完全に異能に汚染された者は異端者と呼ばれ、異端者とされたものは人権が剥奪され、その場で処刑することが認められた。無能力ならば処刑の心配はない。だから冬也は、平凡に生まれたことに感謝をしながら高校二年の夏休みを満喫していた。今日も仲の良い妹と買い物の約束があるために早起きをして、朝食を食べ、妹が欲しい化粧品やら新しい夏物の服やらの話を聞き、なんとなくつけたテレビから流れるニュースを聞き流しながら準備を始め、そして。大量の血を首から流し、血の海の中で倒れる両親を前に、激痛にもがき苦しんでいた。
左手が、痛い。
『本日は、世界中で異能が発現してから二〇年という節目の日を迎え――』
リビングのテレビから流れる声が、煩わしい。
クーラーから放たれる冷気がカラカラと回る扇風機に流され体へ当たるが、それが全身を襲う寒気の原因ではないと、本能が理解していた。
緋桐冬也は、破裂するような左腕の痛みに必死に耐えながら、立ち上がる。
『異端者に対する法整備も整い、十年前にSMRが導入されてからは、異能による犯罪件数は著しく減少し――』
ぎこちない深呼吸をする。
テレビの音よりも、彼の神経を削るのはけたたましい警報音だった。
音を放つのは、銀に輝く一つの腕輪。
SMRと呼ばれるそれは、生体データから異能を感知し、全日本国民の異能を管理するために左手首に着用を義務付けられたものだ。
この腕輪が警報を鳴らす理由は二つ。
異能の不法利用、又は無許可の取外し。
「ぐ、ぁあ……」
左手を押さえつけても、血は止まらない。
当然だ。
切り落とされた左手首とSMRが、目の前に落ちているのだから。
そして。
「何が、あったんだよ」
彼の視線の先には。
深い切り傷が首に刻まれ、血の海の中で動かなくなった両親と。
「どうしてこんなことをしたんだ、やちる……!」
左手首のSMRの警報音を響かせて。
血だらけの包丁を握り。
白いシャツを返り血で飾る冬也の妹、やちるが立っていた。
「お兄ちゃん」
ぽつりと呟いたやちるは、両親の死体を踏みつけながら冬也へと距離を詰める。
数秒前、冬也は反射的に左手を犠牲にしてどうにか距離を取った。
しかし、左手を犠牲にして得た数メートルは、もうなくなった。
「お願いが、あるの」
足が動かなかった。
ボロボロと涙を流しながら、されど笑顔で迫る血だらけの妹を前に。
恐怖と、痛みと、混乱と。
様々な感情の中に、逃げろと叫ぶ心の声が埋もれてしまって。
「……ぁ?」
腹部に、熱。
視線を落とす。包丁が根元まで腹に沈んでいた。
痛みより先に、背筋から脳髄へ走る寒気があった。
「あのね、お兄ちゃん」
つんと鼻をつく鉄の匂い。
触れてしまいそうなほどにやちるは顔を近づけて。
「――――――――――――――――」
遠のいていく意識の中で、何かを囁いた。
直後、玄関から物音が響く。
「動くな。警察だ」
入ってきたのは、黒いスーツを着た三人組だった。
若い女性に、美丈夫に、白髪交じりで初老の男。
おぼろげな視界の中でも、その三人が異能犯罪者専門の警官であることは冬也でも判断できた。
聞いたことがあった。そのような警官は、申請なしに異能を扱うことを許された、特注の黒いSMRをつけていると。
「アマネ、計測だ」
「はいっす!」
初老の男の指示で、アマネと呼ばれた女性が黒いSMRをやちるに向かってかざした。
ガチャガチャと機械音が鳴り、小さなディスプレイが現れる。
「汚染度一八〇。……文句なしの異端者っす」
「……全員、戦闘準備」
初老の男はやちるを睨みつけて、
「あの異端者を処刑しろ。少年を救うぞ」
「了解」
最初に動いたのは、美丈夫だった。
戦闘を行うには狭すぎるリビングの中、美丈夫は右手を握りしめ、
「――ふッ」
右の肩から指先までを氷で覆い、腕を振ることで氷の棘をやちるへ放つ。
やちるは冬也に刺した包丁を引き抜き、氷の棘を包丁で全て弾く。
「身体強化系の異能か。なら……」
美丈夫が床に手をつくと、這うように氷が現れた。
足を固定される前にやちるは音もなく空中へ飛び上がり、天井を蹴って美丈夫へ斬りかかる。
精密な首への一撃を事前に氷で覆うことで防いだ美丈夫は、苦笑いをして、
「防御が遅れたら即死ね。ひりつくなぁ」
動きを封じようと、両手から氷を生み出した。
やちるは即座に距離を取り、氷を避ける。
その隙に冬也の元へ走り、壁となるように立つ。
「安心してくれ。すぐに救急車が来る。救護班の異能があれば、必ず助かるから」
「……だ、め……だ」
冬也は声を震わせて、
「ころさ、ない……で……」
焦点の合わない瞳で声を絞り出す冬也へ、美丈夫は冷静に、
「すまないが、彼女はもう人間じゃない。異能に飲み込まれ、自我を失った異端者だ。異能を発現した人間は何人もいるが、異能を失った人間はいない。異能の進行は不可逆なんだ。異端者が人間に戻ることは、ない」
「……ち、が……う。やち、るは……!」
「信じたくないのは分かる。恨んでいいよ。その覚悟は決めてるから」
美丈夫が冬也を寝かせた直後、アマネが叫ぶ。
「先輩! 異端者の異能解析、完了したっす!」
アマネは黒いSMRのディスプレイに目を移し、
「類似異能、なしっす!」
「なしだと? この二〇年間で何億もの異能が確認されてるのにか」
「私に言われても知らないっすよぉ!」
「異能名は」
「まだっす!」
「なら、待ってる時間はなさそうだな。三人で殺すぞ」
初老の男は、自分の親指の腹を噛んだ。
破れた皮膚から血が溢れたと思えば、壊れた蛇口のように血が噴き出し、たちまちに凝固して細長い血の剣へと形を変える。
「相変わらず気持ち悪いっすよね、先輩の異能」
「言ってろ。お前だって似たようなもんだろ」
「それもそうっすね」
アマネは小さく笑い、両手を床につけて四足歩行の体勢を作る。
「がるるるるっす!」
アマネのスーツの隙間から、銀色の毛が溢れ、四肢の形が人から獣へと変わっていく。
顔の骨格も変わり、強靭な牙も生え、さながら獅子のように体を変化させて、
「先輩たち、援護は任せたっす!」
床が壊れるほどの力で蹴りだしたアマネは、目にも止まらぬ速度でやちるの首元へと牙を剥く。
「全く。面倒な後輩だ」
アマネの後方からは血の剣が鞭のようにしなり、横からは氷の棘が迫る。
それを見て、冬也は小さく呻く。
「ころさ、ないで……くれ」
振り絞るように、手を伸ばす。
殺すなという願いを、『やちる』へと向けて。
しかし、その願いを届けるより先に。
冬也の意識が、闇へと消えた。
そして。
「あはっ」
跳ねるような笑い声を放ったのは、やちるだった。
「……ぇ」
血が、噴き出す。
異能によって獣と化した、アマネの喉から。
「な――ッ!」
美丈夫と初老の目では、追えなかった。
気が付いたときには、アマネの命が刈り取られた。
「この異端者がァ!」
激昂する美丈夫はさらなる氷を生み出し、やちるへと放つ。
やちるは絶命したアマネの首を掴み、肉壁にして美丈夫の氷と初老の男の血の鞭を防ぐ。
追撃をしようと腕を振った初老の男へ、やちるはアマネの体を投げつけた。
「クソが……!」
無視はできなかった。初老の男はアマネの死体を受け止める。
アマネの左腕で、黒いSMRが点滅していた。
そこには、解析の終わったやちるの異能名が記されていて。
「……【殺人衝動】」
それは、本能的に殺人を行う異能。
何をどうすれば人が死ぬかを本能で理解し、命を奪うために最適な動きを無意識に行う。
熱いものを触ってしまったときの反射のように。
思考を経由せず、体が自動で命を奪う。
「……厄介な異能だ」
幸い、武器は包丁。目で追えない動きだとしても、間合いの外なら殺されない。
氷で牽制しながら、血の鞭で首を落とせばいい。
「先輩、どうしますか」
「まずは距離を取って――」
そんな会話の中で。
すでにやちるが間合いを詰めて美丈夫の首筋を狙っていた。
わずかに反応が遅れた美丈夫は、すぐに体を氷で覆うが、
「間に合わな――」
鮮血が散る。
しかし、美丈夫の命は依然としてそこにあった。
美丈夫は目を見開く。
目の前に立つ少年が、左手で包丁を受け止めていたのだ。
「な、ぜ……」
美丈夫は目線をずらす。
下に落ちていたはずの左手首とSMRが、彼の腕に戻っていた。
加えて、正しく手首にある冬也のSMRは、未だに警報音を放っている。
SMRが鳴る理由は二つだけ。
無許可の取外し。もしくは――
「大丈夫だ、やちる」
鮮明になった冬也の脳裏に、やちるの言葉が蘇る。
泣きながらやちるが冬也を刺したあの瞬間、彼女は間違いなくこう言った。
――助けて。誰も、殺したくないよ。
異能に呑まれていく中で。
大切な家族がまだ、抗っているのならば。
「誰にもお前を殺させない。誰もお前に殺させない」
狂気的な笑みを浮かべて、やちるは泣き続けていた。
冬也は自分のSMRへ視線を移す。
通りで今まで異能が発現しないわけだ。
でも、これでいい。
この力なら、やちるを救える。
「お前のためなら、何度でも死んでやる」
――【不死】
その二文字が、ディスプレイに浮かんでいた。
視界の奥で、初老の男が攻撃動作に移っていた。
このままだとやちるは殺される。
しかし、やちるの盾になれば、その隙に美丈夫がやちるに殺される。
それでも、やるしかない。
これ以上、やちるに命を奪わせない。
大切な妹の最後の願いを、必ず叶える。
「待ってろ。絶対に、救うから」
冬也は左手で受け止めた包丁を自ら胸の深くまで突き刺し、武器を奪いながらやちるを抱きしめて自分との場所を入れ替え、血の鞭を背中で受ける。
「妹に殺されるのは、俺だけでいい」
そう呟いた冬也の意識は、再び闇に落ちていった。