ふわぐら
公募ガイドの「阿刀田高の『TO-BE小説工房』」へ投稿したもの。
お題は「かさ」。
例によって選外でしたので、アップ。
自転車の鍵を無くした。朝駐輪場で確かに抜いたと思うのに、ない。駅から保育園まで歩く為に、仕方なく仕事を三十分早退した。
あらもうお帰り? 朝は一番遅いのにね。 小さな非難が背中に当てられる。職場の人たちは基本的に寛容だけれど、二人ばかり意地の悪いのがいる。けど、それがみんなの本音なのかな、と思うといたたまれない。
ワーキングマザー、なんてかっこいいものではない。生活の為に派遣で働いている。家の中はぐちゃぐちゃ、毎日遅刻すれすれ、いつもばたばた。間違えていないか、誰かに叱られないか、常にびくびくしている。
保育園で子供を拾い、帰路を急ぐ。家には多分、スペアキーがあるはず。でもどこにしまってたっけ、見つかるかしら、片付けなきゃって毎日思っているのに。
焦っても歩みは遅い。四歳の娘は、普段自転車で通り過ぎる道をゆっくり行くのが珍しくて、あちこちに興味が移る。その手を強く握り、いっそ引きずって行きたい衝動を何とか抑える。かさばる荷物。泣きそうな黄昏。
「ママ」と娘が私の手を引っ張った。
「ねえ、ママ。あれ」
「なに」
そっけなく答えながら目も向けずにいると、更に娘がぐいぐいと手を引く。
「ねえ見て、ふわぐら」
「え? ふわ……なに?」
年の割に滑舌のいい子だが、聞き取れなかった。思わず顔を見、指さす先を追った。
少し前方に畑地がある。そして境のフェンスにビニール傘がぶら下がっている。
私は顔をしかめた。その存在は数日前から知っていた。目を背け自転車のスピードを上げて避けてきた。
置き去りの傘が雨に降られて、内側に水を溜めている。風船のように膨らんで、中身は泥か錆かよくわからないもので濁っていた。ボウフラがわいていてもおかしくない。思ってぞっとした。とにかく汚らしかった。
「誰かの落とし物だね」
責任はその誰かにあるのだ。道の反対側を通って立ち去りたいのに、娘は動かなかった。
「こわい。ふわぐら」
私の太ももにしがみついて、それでも傘から目を離そうとしない。
「……ねえ。ふわぐら、って、なあに?」
「あのね、とりだよ」
「鳥?」
「しろいとりのおくちに、ごはんいっぱい、ぎゅうぎゅうって。いれちゃうんだよ」
フォアグラという文字と、昔誰かの披露宴で食べた茶色い塊が頭に浮かんだ。確かにあれは、ガチョウに餌を山ほど与えて作る。
ぱんぱんに張った腹、バンドで一旦締まり、そこから長く伸びた首、手元は白い顔。なるほどその傘は哀れな家禽と似ている。骨が一本、折れて横に広がっているのは翼のよう。
「かわいそう……」
娘が口をへの字にして唸る。
「そうだね」
同意の言葉が、素直に私から滑り出た。
家畜の是非はさておき、やっぱりフォアグラは可哀想に思う。忘れ去られて、本来とは違う姿で晒し者になっているこの傘も、可哀想に思う。いっぱいいっぱいに何かを詰めこまれて、押しこまれて、抱えこんで溜めこんで、息も出来ない、何か。
かわいそう。
「わかった。おかあさんに任せて」
傘に近づいた。娘はそばのフェンスにつかまらせておいて、絶対こちらに寄らないよう、車にも気をつけるよう、言い含めた。
深呼吸ひとつ。手を伸ばす。傘をフェンスから外すと、予想外の重さに一瞬たじろいだ。水が動いて重心が定まらないのにひやりとしながら、そうっと地面へ下ろし、横にした。水がちょろちょろと流れ出す。持ち手のカーブの先をつまんで持ち、傘鳥のお腹がへこむのを待った。舗装されていない路肩の土が黒く染みていく。あらかた捌けたところで静かに傘を広げ、残りの水も土に吸わせた。
傘を閉じ、バンドでくくって、息をつく。
やった。
「ママ、だいじょうぶ?」
「うん、大丈夫だよ。待っててくれてありがとう。えらかったね」
「えらいのはママだよ」
娘がきっぱりと言った。
「ママかっこいい。ありがとう」
真正面から誉められて、言葉に詰まる。涙がぽろりとこぼれてしまった。
「あ、ちがった。ママはおんなのこだから、かっこいいじゃなくて、かわいい!」
「……いいんだよ、女の子でも、かっこいいで。うれしいよ」
「ママ、だいすきー」
太ももにぎゅっと抱きついてくる娘を、私は強く抱き返した。
4歳の子供が何故「フォアグラ」を知っていたかについては、謎。
動画投稿サイトで見たに違いない!
旦那は子守と言いながら自分はスマホをいじって子供は動画を見てばかり!
まったくもう!
という話も挟もうかと思ったのですが、枚数制限により入らず。
で、結局、子供に後で聞いてみると「フォアグラなんて知らないよー」と言われ、不思議な話だなあとか。
農家の人が見ていて、後でお疲れさまときゅうりをくれるとかそれが夕飯に並ぶとか、そこまで書けたら一つの話としてまとまったかなあ、と思うのですが。
尻切れとんぼの感があります。まあこれはこれで。