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月影奇譚  作者: iliilii
第一章 結んで
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08 甘噛みと台風と昔話

 お風呂上がり、頭に巻いていたタオルを外し、上がっていた前髪を下ろしながら不意に笑みが浮かんだ。

 楽しかった。


 満月の夜の賑わいが耳に蘇る。誰もが楽しそうに笑っていた。難しい顔をしていた人も、最後には笑っていた。子供たちのはしゃぐ澄み切った声に大人たちのはしゃぐ轟くような声。傍らのタロンの背に手を置いたまま、楽しそうに笑う人たちに囲まれた和やかな夜だった。

 家族以外とあんなふうに笑いながら過ごす機会は少ない。しかもなんの躊躇もなく私の淹れた珈琲を飲んでくれた。気持ち悪いと罵倒されることもなく。呪われると叩き落とされることもなく。


 鏡に映るのは自然と浮かんだ笑み。

 その端にぴんと立った耳が映り込んでいる。気付けば隣にタロンがいた。

 膝をつき彼の首に腕を回す。柔らかな毛の中に鼻先を埋め、ぎゅっと抱きしめながらタロンの匂いを吸い込む。お風呂上がりの熱った肌にタロンの少しひんやりとした毛が気持ちいい。


「ここに来てよかった」

 肩に乗るタロンの頭の重みが信頼の証のようで嬉しい。いつものように首筋をぺろんと舐められたかと思ったら、がぶっと噛みつかれた。まるで愛情表現かと思うような甘噛み。不思議と恐くはなかった。


 その夜の夢は心を優しく撫でられるような、そんな幸福感だけが朝の光に残されていた。




 楽しいことがあったせいか心も身体もすっきり軽く、仕事が捗る捗る。予定よりずっと早く仕上がった。

 タロンと一緒にソファーに座り、だらだらとテレビを観たり映画を観たり。タロンは何気にニュース番組が好きだ。朝晩必ず各局チェックしている。


 一日だらだら過ごしたあと、大掃除を始めることにした。もうすぐお盆だ。会社勤めではないか、曜日の感覚や季節の感覚に疎くなる。意識して土日祝日は仕事をしないようにしている。盆暮れも同様。


「タロンのクッションを洗います! 今日こそは洗います! さすがに臭いです!」

 はっきり大きな声で宣言すると、タロンの長く大きな耳が心なしかしょぼんと項垂れてて見えた。タロンは頑なにクッションカバーを洗わせてくれない。犬臭くはなくても、さすがに数ヶ月も洗わないとなんとなく臭う。


 ウッドデッキにピクニックシートを広げ、その上にタロンの大きなクッションやソファーのクッションなどを天日干しする。タロンがなんともいえない顔で自分のヌーディーなクッションといつもより少し強い風にそよぐカバーを見張っている。誰も取らないのに。


 タロンがウッドデッキにいるのをいいことに、高いところの埃を落とし、掃除機をかけ、床を水拭きし、色んなところも水拭きし、家中さっぱりさせる。

 水拭きした床が気持ちよく、鼻歌まじりに風が強いせいかあっという間に乾いた洗濯物を取り込む。

 お昼にそうめんをつるっと食べ、午後からは水回りをがしがし磨き上げ、なんとなく大掃除を終える。

 たいして広くない家なので、あっという間に終わってしまった。ここに来てからは茹でるか蒸すかしかしていないせいか、換気扇がほとんど汚れていなかった。この分だと年末も楽そうだ。


 乾いたカバーが気持ちよかったのか、タロンもなんとなくご機嫌だ。クッションの上でしっぽがゆったり揺れている。

「これからは最低でも月に一回は洗います!」

 そう高らかに宣言すると、仕方なさそうな態で頷いていた。素直じゃないヤツ。週一で洗おう。


 その夜。

 台風──そんな単語がタロンがチェックしているニュース番組からしきりに聞こえ、吹き付ける強過ぎる風を遮る窓ガラスから外を眺める。日没直後の薄暮の中、風に揺らされる木々のシルエットが不気味だ。

 夜の闇が濃くなるにつれ、雨も風も徐々に強まっていく。窓を叩き付ける雨音。何もかもが吹っ飛んでしまいそうなほどの強風。家が悲鳴を上げるように軋む。


「タロン、一緒に寝て」

 こんな夜は、眠りに落ちる直前ではなく、最初からそばにいてほしい。


 のそっと起き上がったタロンが、ゆっくりとベッドに近付き、鼻先で布団を持ち上げながら上手い具合にその中に入り込む。タロンのクッションのそばにしゃがみ込んだまま、思わずほけっと眺めていた。我に返り慌てて電気を消し、薄手の羽毛布団の中に潜り込む。ここは夏でも明け方はぐっと気温が下がる。ましてやこんな雨の日は特に。タロンのあたたかさが肌にしみる。


 伏せるタロンの背に手を回してぎゅっとしがみつけば、おどろおどろしく聞こえる物騒な音もただの物音へと変わる。耳をつけると聞こえてくる鼓動。それを数えながらいつしか眠りに落ちた。


 夢の中でも台風だった。夢の中でもしがみついていた。夢の中でも鼓動が聞こえる。夢の中で「タロン」と呟けば、おでこを舐められた。夢の中で初めて手を繋いだ。




 台風一過の青空。昨晩のおどろおどろしさが嘘のようだ。

 家の周りに落ちている木の枝や葉だけがその名残を告げている。それらを拾い集めたところでふと思い立った。そうだ、ピクニックに行こう。


「ねぇタロン、またあの切り株の場所に連れてって」

 ご飯を炊いておむすびを作り、朝の散歩から戻って来たばかりのタロンにそう声をかけると、うぉふ、のひと声。そのまま足を洗うことなく再び揃って散歩に出掛ける。


 もしかして……と思っていた通り、いつかと同じく霧にのまれた。タロンの背に手を預け、彼に導かれながら霧の中を進む。遠くから聞こえる鳥のさえずり。

 一時間は歩いていないけれど、三十分以上は歩いた気がする。程よく息が上がり、身体が熱を放つ。木々に囲まれた場所だからかそれほど暑さは感じない。

 視界の白がさっと晴れると、そこはあの切り株の広場。霧が演出する幻想さは、どこか知らない世界に迷い込んだかのようだ。


 緑のグラデーションに絡め取られる。


 吸い込む空気の爽快さに自然と背が伸びる。ここで暮らしていると、自分も自然の一部なのだと実感する。ふとした瞬間に人間も動物なのだと感じることがある。何に対して感じているのかもわからないような、何気ない気付き。それまで感じたことのない感覚だからか、とても新鮮で心の奥深くがじんと痺れるような感動を覚える。


「どっちに向かってお詣りすればいいかわかる?」

 タロンが示した鼻先の方を向いて静かに手を合わせる。この地におわす山神様へ、ここに住み続けられる感謝を。あの日もお詣りしたけれど、もう一度感謝したくなった。


 深呼吸。身体の隅々まで澄み渡るようだ。


 大きな切り株に腰をおろし、日々の糧に感謝しながら、おむすびを頬張った。タロンにはサーモンを焼いてきた。おむすびの中も同じサーモン。匂いからそれを知っていたのか、タロンがそわそわしている。

「ちゃんと小骨取ったつもりだけど、気を付けて食べてね」

 ひと口ずつ手のひらにのせて差し出せば、嬉しそうにはぐはぐ食べる。しっぽがゆったり揺れている。


 まったりと食事を済ませ、聞こえてくる鳥の鳴き声に耳を澄ます。今日はカッコウの声は聞こえない。代わりにキジが鳴いている。


「ねえタロン」

 呼びかけに、傍らに座るタロンがじっと見上げてくる。

 静かに絡み合う視線。

「タロンは、普通の犬じゃないよね」

 確かめてどうしようというのか。自分でも持て余してしまうほどの感情をタロンにぶつけてどうしようというのか。彼はじっと見つめたまま応えない。

「いいの。応えてほしいわけじゃないの。ただ、言ってみたかっただけ」

 それにタロンが一瞬たじろいだように見えた。

「いいの。タロンが普通の犬じゃないことはわかってるの。わかっているのに確かめたくなるなんて、自分でも馬鹿だなって思うんだけど……」

 タロンの前に膝をつき、そっとその首に抱きつく。

「これからも私と一緒にいてください」

 結局はそれだけなのだ。タロンが普通の犬じゃなくても、そばにいると安心する。激しい雨に切り取られた孤独も、暴風雨に砕け散りそうな脆さも、タロンがいれば平気だと思える。

 タロンの顎が肩に乗る。その重みが嬉しい。


「ひとつだけ教えて」

 抱きつくのをやめ、タロンを正面から真っ直ぐ見る。ほんの僅かな何かを見逃さないように。

「いつか私のこと殺す?」

 間髪入れずタロンが抗議の唸りを上げた。

「ごめん、それだけは確かめたかったの。殺されたら嫌だなぁって思って」

 呆れたような仕草で、ふん、と鼻を鳴らされた。


 漠然といつか食べられるんじゃないかと思っていた。そんな昔話はよくある。気付かないうちに言い付けを破ったり、その秘密をのぞき見たりした挙げ句、不思議な生きものに殺されたり去られたり。

 タロンと何か言い交わしたこともなければ、約束したこともないけれど、そんな気がして少し怖かった。殺されるよりも去られることの方が怖い。


 再びその首に抱きつけば、いつものように首筋をぺろんと舐められ、最近するようになった甘噛みに思わず笑う。殺されるならとっくに殺されている。






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