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月影奇譚  作者: iliilii
第一章 結んで
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05 偽りと霧と切り株

 元気? 近いうちに会えない?


 小さなディスプレイに浮かぶその文字を見た瞬間、ぎりっと心臓が苦しさに軋み、渦巻いた澱み濁った感情。咄嗟に左手にあるお守りのブレスレットを握りしめた。

 送り主はかつては親友だと信じていた、今もどこかで信じたいと思っている彼女。


『だって、気持ち悪くない?』


 忘れられないひと言は、今も私の感情の真ん中に突き刺さったままだ。

 同時に、自分が思っていた以上に彼女に心を預けていたことを知った。そうじゃなければあれほど傷付かなかっただろう。他の誰から言われても聞き流すことができたのに、彼女の口から出た言葉と、それに同意した男の言葉に当時の私は絶望した。

 思い出したくないと思っているのに、思い出してしまうのはまだ傷付いたままだからだろう。ここに来て癒やされたと思っていたけれど、まだまだ私は脆いままだ。

 ぎゅっとブレスレットごと握りしめていた手首から手を離す。


 ごめん、しばらくは忙しくて。


 送り返した偽り。携帯電話の電源を切った。家族からの連絡はインターネット通話が主だ。携帯電話の電源が切れていたところで問題ない。

 ダイニングテーブルの上に軽く放り投げた端末は、思った以上に堅く重い音を静かな室内に響かせた。


 気を紛らわそうと珈琲を淹れても、仕事に手を付けようとしても、窓の外を眺めようとも、ふて寝しようとしても、全身から負の感情が滲み出ているのが自分でもわかる。こんな日は何をしても無駄に終わる。


「タロン、散歩に付き合って」

 うぉふ、と答えるタロンは、私が一人で雑木林に足を踏み入れることを嫌う。ここには野生動物が当たり前のようにいる。クマの目撃情報など日常茶飯事だ。


 さくさくと踏みしめる道なき道。梅雨晴れの今日は空気が澄んで気持ちがいい。思いのままに山の中に分け入っても、タロンがいる限り必ず家に戻れる。

 傍らを歩くタロンは音を立てない。並んで歩くと、ちょうどタロンの背に腕が添う。タロンの毛並みと体温を感じながら、澱んだ心を慰めていく。


 気が付けば霧にのまれていた。

 ここはよく霧に沈む。初めてここに来た日も霧にのまれ、霧に沈み、霧が晴れたと同時にあの家にたどり着いた。




──長閑な終着駅に降り立ち、そこから乗ったタクシーの車窓越しに眺めた最後のコンビニから優に二十分は走っただろうか。駅前の桜は散り始めていたのに、進むにつれ満開になり、五分咲きになり、三分咲きになり、ついには蕾へと季節が逆行していく。同時に新緑の面積が見る間に減っていき、気付けば辺りは冬枯れの景色。おまけに料金メーターがどんどん上がっていく。

 景色にも料金にも内心かなり焦っていた。距離的には都心からそう離れていないものの、体感的にはものすごく離れていると感じる。なにせ山だ。景色がまるで違う。

 挙げ句に、「この先は乗り入れられないから」と途中で降ろされる始末。支払いは五千円を超えた。びっくりした。

 

 放り出された場所には祖父母から聞いていた大きな門があった。予想していたよりもずっと立派な門はどこかの文化財のような厳かな佇まいで、頭上には注連縄、その左右には妙に達筆な黒々とした文字で「郵便・小包」と書かれた小さな扉とその反対側には「宅配便」と書かれた大きめの扉が設けられており、その足元には立派な敷居が横たわっていた。

 なるほど、門は大きく開かれ、その幅も高さも車が通るに支障はないけれど、敷居がそれを拒んでいる。けれどその先にはタイヤ痕が残されており、その不可解さに首を傾げる。


「お邪魔させていただきます」

 注連縄を見たせいか神妙な気持ちになり、一声かけ、一礼し、敷居の端をそっと跨ぐ。門を境にアスファルトからむき出しの土へと道の様子が一変する。

 そこから大きめの荷物を抱え、ぜーはー荒い息を吐き出しながらさらに二十分は坂道を上り、やっとの思いでたどり着いた。


 途中、霧が立ちこめてきて、心細さに泣きそうになった。どこからともなく聞こえてくる多様な鳥の声の中に一際はっきりとウグイスの声が聞こえた。ウグイスの生声なんて初めて聞く。驚くほどよく通る声に励まされ、足元だけを見ながら霧の中を慎重に進む。

 舗装もされていない山道。そこにできた轍は車が通っていることを知らせてくれる。視界が白に沈む中、轍を頼りに自分を奮い立たせ、半ばヤケになりながら猛然と突き進む。


 ざっと吹き付けた一陣の風が白く視界を塞いでいた霧を瞬く間にさらっていった。

 突然目の前に現れたのは、古民家といえなくもない黒々とした瓦葺きと焼き杉で造られた古い平屋。

 その一瞬の変化はまるで映画のワンシーンのようで、あまりの感動にしばし時を忘れた。


 山の中の一軒家。

 父方の祖父母の家は大雑把に言うとそんな場所にあった。老後は人から離れたいと考えたらしい。そんな場所にあるくせに、見た目古民家の内装はアーバンスタイル。違和感がすごい。


 ステンレスでできたプロ用かと思うシンプルなキッチンには、食洗機もオーブンも何もかもが揃っている。冷蔵庫までステンレスの業務用だ。全てが妙にかっこいいものの、未だ使いこなせていない。

 お風呂も洗面所も白を基調に高級ホテル並みに品良くシンプルにまとめられていた。


 教師だった祖母の退職金でリフォームしたらしい。私大の教授だった祖父の退職金が丸々残っているから世界旅行に出掛ける、そんな連絡が来たのはまだ三寒四温の候。空港から行ったり来たりが山の中の一軒家では不便で仕方がないと、両親が残してくれた都心の古いマンションとのトレードを提案され、一緒に暮らしていた兄がこれを機に一人暮らしをすると言い出し、流されるままに頷いた。

 今になって思えば、だったらなぜこんな場所に終の棲家を買ったのかと呆れる。


 先のことを考えたのか、無垢材が張られた床は段差のない広々としたワンルームにリフォームされていた。所々に、生えているようにも見える濃い焦げ茶の柱や梁は、それまでの家の歴史を物語るように古く艶めいている。柱が見える壁の造りがアンティークふうなのに、なぜかモダンなインテリアと妙に調和している。全体的に白と黒に近い焦げ茶でまとめられた空間は、祖父母のような落ち着きを感じ、懐かしさすら覚えた──。




 物思いに耽り、タロンに導かれ、気が付けば見たことのない場所にいた。

 いつの間にか霧が晴れている。


 大きな木が倒されたのか、人が二人で抱えるにも余るほどの大きな切り株の周りだけがぽっかり拓けている。断面が磨かれたようになめらかで腰掛けるにちょうどいい高さの切り株に腰をおろして一息つく。

 眩しさに見上げると、霧が晴れた空はすっきりと青い。足元には見たこともない小さな白い花がまるで緑の絨毯に散らされた花模様のように咲いている。零れ落ちる木漏れ日はどこか幻想的で、ささくれだった心がすっと凪いでいく。


「いい場所だね」

 それに、うぉふ、と答えるタロン。もしかしたら彼のお気に入りの場所なのかもしれない。腰をおろした目の前で彼はきっちりとお座りしている。目線の高さが同じになる。

「ありがと」

 そう言って首に抱きつけば、肩の上に顎がのる。ふかふかの首の毛に鼻先を埋め、タロンの匂いを吸い込んだ。そこにおでこをつける。

 タロンは気持ち悪いとは言わない。もちろん犬なのだから言えるわけもないのだけれど、気持ち悪いとも思っていないのだろう、おでこをつけても嫌がる素振りもない。

 首筋がいつものようにぺろんと舐められ、くすぐったさに首をすくめる。そして分厚く下ろされた前髪を鼻先でかき分け、そこをぺろんと舐める。夢の中と同じように。なんの躊躇もなく。何度も何度も。


 ぽたん、ぽたん、と涙が落ちた。


「タロン、ずっと一緒にいて」

 タロンがいれば一人でも大丈夫な気がした。

 タロンはどこから来て、いつまでここにいて、どこに行くのか。私は知らない。

 タロンは不思議な犬だ。それしか知らない。


 どこからかカッコウの鳴き声が森の中に響き渡る。まるで誰かを呼んでいるような、まるで誰かを嘲っているよな、まるで淋しいと泣き叫んでいるような、そんなふうに聞こえて耳を塞ぎたくなる。

 再びタロンの首を抱きしめる。気が済むまで、タロンは肩に顎をのせ続けてくれた。






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