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月影奇譚  作者: iliilii
第一章 結んで
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04 トイレとトイレットペーパーと生肉

 梅雨に入り、タロンはめっきり出かけなくなった。

 お隣さんからの狩りの依頼も今日はお休みなのか、朝のお迎えがなかった。お昼過ぎに荷物を届けに来てくれたお隣の奥さんに、「来週は小雨でも迎えに来るからね」と声をかけられた雨嫌いのタロンは心なしかしょぼくれていて、気の毒だと思いながらもちょっと笑ってしまった。


 タロンが普段どこで何を食べ、用を足しているのかを私は知らない。

 これまでは、私の朝ご飯の後と日が暮れる前にふらっと小一時間ほど散歩に出掛けていた。このところは、晴れ間を見てはふらっと出て行ったかと思うと短時間で戻ってくる。おそらくトイレに行っているのだろう。


 今日も少し前に出掛けたタロンが戻ってきた。玄関に用意しておいたぬるま湯を張ったたらいの中で器用に足を洗っている。祖父母から聞いていたとはいえ、初めて見たときは犬が自分で足を洗う様は衝撃すぎて目を疑った。今では日常のひとコマだ。

 すぐ脇に広げておいた足ふきマットの上で、とんとんと足踏みしながら足の裏を拭いている。このタロンの何気ないリズムが好きだ。

 蒸しタオルで顔からしっぽの先まで拭いてやると、気持ちよさそうにしっぽが揺れる。お腹とお尻は嫌がるのでそこはさっと済ます。拭き終わるとぶるっと全身を震わせるところは犬っぽい。


 タロンを拭きながらしばし悩んで、試してみようと決めた。


「タロン、トイレの使い方、覚えてみる?」

 明らかに自分の発言はおかしい。おかしけれど、タロンならトイレも使えるのではないかと思ってしまう。何かでトイレを使うネコの動画を見たことがある。真偽はわからない。それでもどこかで確信している。タロンも使えるはずだと。若干贔屓目で見ていることは認める。

 ちなみにタロンは犬用のトイレトレーを使わない。用意はされている。けれど私が知る限り一度も使われたことはない。もう片付けてもいいかと思っている。祖父母に訊いても最初に買ったトイレシーツが一枚たりとも減ることはなかったらしい。


 どこかきょとんとしながら僅かに首を傾げる仕草は、犬らしくも、人のようにも見える。


「雨の中、外にトイレしに行くの、嫌じゃない?」

 それには、「うぉふん」という、なんとも中途半端な声が返された。どっちだろう。嫌でもないのか。


「まあ、どっちでもいいよ。一応使い方教えておく。使えそうなら使っていいからね」

 そう言いながらトイレに移動し、トイレの使い方を教える。リモコンの使い方を重点的に。


「近付くと勝手にフタが開くのね。で、これを押すと、便座が上がる。もう一度押すと、下がる」

 ボタンを押しながらの説明に、トイレのフタや便座の動きを確かめながら、タロンはじっと耳を澄ましている。フタが勝手に開いても驚く素振りもない。

 この家のトイレのフタは自動で開閉する。初めてトイレを使ったとき、勝手にフタが開いてかなりびびった。しかも便器の中が青白い照明に照らされている。なんだか高級っぽくてテンションが上がった。それまで住んでいたマンションのトイレのフタは手動だったし便器の中も光らなかった。


「これを押すと水が流れるから、用を足したら水流してね。あと、これを押すとお尻を洗ってくれるんだけど……タロン、どんな格好で使う?」

 さすがに人のように腰をおろして用を足すことはないだろう。便座の上にのって用を足すのだろうけれど……よくよく考えるとタロンはオスだ。片足を上げて用を足すならトイレは大惨事になる。

 男性用の小便器をタロンのために設置すべきか。……そんなお金はない。


「周りを汚さないように便器の中に用を足すことって、タロンにできるわけないよね」

 何気なく呟くと、傍らから抗議の唸り声が上がる。


「でも、汚さないように使えないでしょ? 汚されるのはちょっと……さすがにタロンにトイレは無理だったか」

 さらなる抗議の声が上がるも、どう考えても無理な気がした。そもそもなぜトイレを使わせようなどと思ったのか。自分の思考回路はやっぱりおかしい。


「ごめん、忘れて」

 そう言った横で、タロンがトイレットペーパーをじっと見ていた。


「これで用を足したあとお尻を拭くの。使い終わったら便器に落として、水と一緒に流す」

 言いながらトイレットペーパーをミシン目ひとつ分切り離し、便器に落として水を流す。

 本当に、何を説明しているのだろう。どう考えてもトイレットペーパーを使えるとは思えない。もしかしてもしかしたらトイレを使うことはできるかもしれないけれど、トイレットペーパーは無理だ。

 思わずタロンの前足を眺める。大きな肉球は私の握り拳ほどもある。見れば見るほど無理な気がした。あのかぎ爪でなんとかできるのはせいぜいリモコンのボタンを押すことくらいだろう。


「まあ、一応ね、説明してみたかっただけ」

 誰に言い訳しているのか。なんとなくタロンが抗議の視線を向けているような気がしたけれど、馬鹿にしたわけではないので許してほしい。


 自分の思考があまりにも馬鹿馬鹿しく、そんな間抜けな出来事はすっかり頭の隅に追いやってなかったことにした。




 梅雨も明けようかという頃、ふと気が付いてしまった。

「ねぇタロン、この家に誰か侵入したりしてないよね」

 タロンの前に座り込み、目を合わせ真面目に訊く。それに呆れたようにタロンは鼻を鳴らした。

 まさか屋根裏に人が住んでいるとか、床下に秘密の地下室があるとか、さすがに映画の見過ぎだとは思うけれど、どうにもおかしい。


 そんなわけないだろうこともわかっていた。タロンが気付かないはずがない。

 タロンが出かけるのは大抵昼間で、夜は必ず視野の中にいる。眠りに落ちる直前にタロンが布団に潜り込んでくることも知っている。タロンの体温を感じながら安心したように眠りに落ちるのだから、私も大概タロンに甘い。

 実際に人の気配があるわけでもない。けれど、どうにも腑に落ちないことに気付いてしまった。

 私に囁きかけているのは誰だろう。




 十分な狩りができていないだろう梅雨時のタロンの食事は、自分が食べるものとほぼ同じだ。味付けをするかしないかの違いしかない。絶対にタロンはドッグフードなど食べないだろうと、最初から自分と同じものを用意してみた。

 お肉はタロン用にとお隣さんが分けてくれる処理されたジビエ。野菜は最初のうちこそ全て火を通していたけれど、今ではサラダはサラダとして、根菜などは茹でるか蒸すか焼くか、自分が食べるのと同じに調理している。

 自分用の味付けだけを最後にするせいか、茹でたり焼いたりしたものに、タレやドレッシングをかけるだけで済ませてしまう。最近は塩コショウだけで済ますこともある。お隣さんに分けてもらう野菜は新鮮で味が濃い。少しの塩だけで十分おいしい。手をかけるより、最小限の調理でおいしい塩を探すことの方が有意義なほどだ。


 最初は胡散臭げに匂いを嗅いでいたタロンも、私が口にするのと同じものを口にし、なんとも言えない雰囲気のまま、最後まで食べ終えてくれた。私より身体の大きなタロンには、私と同じ量では足りないだろうけれど、普段何を食べているか知らないので、飢えない程度でいいかとも考えた。


「なんかリクエストとかある?」

 そう訊いたところでタロンから答えがあるわけもない。食べ方を見て調整していくしかない。

 お肉をがつがつ食べるかと思ったけれど、生の野菜も茹でた野菜も全て同じ速度で食べていた。もしかしてと、果物を何度か与えてみても、特にほかと変わらず口にしていた。

 何が好きなのかがまるでわからない。なんでもいいのか、どれも好まないのか。タロンの主食はなんだろう。

 犬は雑食と聞くけれど、狼のようにも見えるタロンは肉食なのか。それにしては野菜もちゃんと食べている。まさか人のように「出されたものは残さず食べなければならない」と考えているわけでもあるまいし。


「タロンは野菜よりお肉の方がいい?」

 特に返事はない。食べ終わったあと、のそっと自分用のクッションに寝そべり、顔だけをこっちに向けている。

「お肉より野菜が好きとか?」

 それにも動きはない。

「果物が好き?」

 これにも動かない。

「もしかして、お肉は生の方がいい? 血が滴るような?」

 これには最後、大きく長い耳がひくっと動いた。

 やはり生肉の方がいいのだろう。普段自分で狩って食べているなら、当然そうなるだろう。


 どうにもお腹がすいたなら、雨だろうが雪だろうがタロンは狩りに出かけるだろう。私の作った食事が嫌なら、そのうち食べなくなるだろうし、それまではなるべく生肉に近い状態で用意しよう。お隣さんに分けてもらっているジビエは生でも食べられるのか訊いてみないと。




 夢の中、私を抱く力強い腕。手足を絡める身体はいつも通り逞しい。相変わらずその顔はタロン。いつしかそれにも慣れてしまった。


 眠りから覚める直前、私を腕に抱く存在が極々たまに、そう、月に一度あるかないかくらい稀に、何かを囁くことがある。

 私には聞き慣れない言語らしき音の羅列。日本語のようでいてどこか違うような、意味がわかりそうでわからないもどかしい音。

 けれどどうしてか、その音に幸福が重なる。同時に恐怖も芽生える。


 逞しい身体は夢。おでこを舐めているのはタロン。囁いているのは誰?






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