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月影奇譚  作者: iliilii
第一章 結んで
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03 獣臭と歯磨きとネクタイ

「ねえ、タロンってなんで犬臭くないの? お風呂入ってるから?」

 それにしては口も臭くない。まさか歯も磨いているのだろうか。どうやって? 頭に浮かぶ疑問も、タロンなら磨いていてもおかしくない気がしてしまうから不思議だ。


 子供の頃、カイロに住んでいた。小学校入学前だったからか、当時の記憶は霞んでしまっているけれど、その時住んでいた家のそばに棲み着いていた野良犬は、それはもう臭かったのを強烈に憶えている。特に口。吐き出す息が生臭い。何かが腐ったような饐えた匂いが常にしていて、私の中に犬は臭い生きものだとインプットされた。

 祖父母が以前飼っていた小型犬はいつもきれいにトリミングされていたけれど、やっぱりどこか犬臭かった。


 タロンにはそれがない。もちろん無臭というわけではないけれど、犬なのに犬臭さがない。どちらかといえば森のような匂いがしている。その首を抱きしめながら鼻先を毛の中に埋め、思いっきり匂いを吸い込めば、何かの香草のような妙に爽やかな匂いがする。


「タロン、あーんして」

 寝る前の歯磨きが終わり、その足で自分のクッションに寝そべるタロンに近付き、その口を半ば無理矢理開ける。口の大きさと犬歯の鋭さにほんの少しだけ怖じ気づきそうになった。

 くわっと開けられた口に鼻を寄せ、改めて匂いを嗅いでも獣臭くはない。歯にも歯石など着いておらずきれいなものだ。


「歯、磨いてみる?」

 それでも一応そう声をかけると、心なしか嬉しそうに「うぉふ」と答えた。


 犬用のハミガキなどなく、かといって人用のハミガキはよくない気がして、とりあえず水で濡らした買い置きの歯ブラシでシャカシャカ磨いてみる。じっと行儀よくお座りして神妙に口を開けているタロンがおもしろい。舌がひくひく動く。顎が疲れるのか、時々口を閉じそうになっては慌てたようにより一層大きく開けるを繰り返している。心なしか緊張している様子がいつもの凜々しさに反してなんともかわいい。


 磨き終わったあと、口の中がむず痒いのかしきりに舌を動かしている。人はうがいができるけれど、犬はたぶんできない。気持ち悪そうにしているので、水を飲むよう声をかけ、タロン用の水入れの水を入れ替えると、舌先で器用に水を飲んだかと思ったら、だらっと器に吐き出した。


 もしや、うがい?


 不意に意味もなくタロンが犬というよりは人のように思えて、彼の仕草は人寄りだなとしみじみ思う。

 両手でタロンの顔をつかまえてじっと観察する。それに居心地悪そうに目を泳がせ、身じろぎするタロンは犬のようであり、その満月のような琥珀色の瞳に浮かぶ表情は人のようにも思える。

 ペットを人のように扱うのはよくないと聞いてはいるけれど、タロンに関してはそれも間違っていないような気がしてしまう。賢すぎると人に近くなるのだろうか。


 タロンは決して人に危害を加えない。歯を剥くこともなければ、不必要に吠えることもない。これには祖父母もお隣さんも、「完璧にしつけられている」と感心していた。実際タロンと一緒にいると、しつけられているというよりは、タロンの意思でそうしているような気がする。

 そもそも、タロンは誰にも触れさせようとしなかったらしい。出会ったときに私の手をぺろんと舐めたことを祖父母にウェブ通話越しに話したら、二人揃って驚いていた。

 となると、勝手に潜り込んでくるとはいえ、一緒に寝ていることはすごいことなのかもしれない。私の何がそんなに気に入ったのか。やはり最初の挨拶だろうか。


 ベッドに寝転ぶとちょうど見上げる形になる天窓からは、煌々とした銀の光が落ちてくる。まるで人の耳では捉えきれない、美しく繊細な音を奏でているかのような月明かりの先にはまん丸の望月。

 ここに住むようになって夜の本当の姿を知った。月がこれほど明るいとは、星がこれほど瞬くとは、夜がこれほど深いとは、ここで暮らすようになるまで知らなかった。

 記憶のあるのはビルやお店の照明、ネオンサイン、ライトアップされた何かばかりで、その先にある空を目にすることなどほとんどなかったような気がする。明るい夜の先にある空は、ただ黒いだけだった。月はただ月という認識でしかなく、星は稀に見えるものでしかなかった。こんなふうに毎夜寄り添ってくれる存在ではなかった。


 明かりを落とし、月明かりに照らされた窓際で寝そべるタロンはまるで一枚の絵のように美しい。闇に沈み、月明かりに浮かび、青銀の光を反射する黒くしなやかな身体は気高さすら纏う。


 タロンは不思議な犬だ。時々犬ではない何かを感じてしまいそうになる。

 そう、こんな満月の夜には特に。




──その日、タロンはきっちりネクタイを締め、まるで門番のように玄関の前で待ち構えていた。


「タロー?」

 そう呼びかけたら、それはもう嫌そうな顔をされた……ように見えた。セリフを足すなら、「けっ!」といったところか。

「もしかして、タローは気に入らないの?」

 ふと思い付いて口にしたそれには頷いたように見え、少し気味が悪かった。

「まさか、話していることわかってる?」

 これには明らかな頷きが返された。

「うそでしょ……」

 思わず声に出ていた。なにせ頷き返したのは大型犬だ。妙な興奮とともに、うそでしょ、と頭の中で何度もしつこく同じ言葉を呟いていた。


 黒よりも少しだけ薄いダークグレーのショートコート。犬にしてはぴんと立った耳が長く、ジャッカルかフェネックみたいだ。……まさか、チズムじゃないよね。ありえなすぎて頭を振る。黒っぽい狼に似て、耳だけが大きく長い。

 全体的に細身でしゅっとしている。確かに「タロー」という名前は似合わない。もっとこう、威厳のある舌を噛みそうな小難しい名前が似合いそうだ。具体的には思い浮かばないけれど。


「大型犬って、こんなに賢いの?」

 賢いとは聞いていた。脳みそが大きい分、小型犬よりは賢いとかなんとか。後ろ足で立ち上がったら間違いなく私より背が高いだろうと思われるほどの超大型犬。お座りしていても私の胸ほどもある。頭の大きさもそう変わらない。

 だからといって、言葉が通じるなんて……さすがにそれはないだろう。


「えーっと、とりあえず今日からここに住むことになったんだけど……よろしく?」

 もう自分がわからない。

 なに犬に挨拶してんの、と思う反面、挨拶した方がいいような気がして仕方がない。大きな犬だから少し怖いというのもあるし、すっと背を伸ばしてお座りしている姿になんとなく威厳みたいなものも感じる。かわいいというよりは断然かっこよく凜々しい姿は、自分の飼い犬でもないのに自慢したくなる。祖父母がことあるごとに自慢していたのも頷ける。


 私の挨拶に、口を開けて吠えるでもなく唸るでもなく、口を閉じたまま「うぉふ」と返してきた。まさに返事のように聞こえた音に気をよくして、言葉が通じているように感じた不可解さは大雑把に丸めてその辺に放り投げた。よくしつけられている、そう思うことでとりあえず納得した。

 なんとなく、カタカナの「ウォフ」ではなく、ひらがなの「うぉふ」と表現するにふさわしい音だったのも、妙に気に入った。

 手のひらを差し出せば、軽く匂いを嗅がれたかと思ったら、ぺろんと舐められる。舌も長く大きい。舐められた手のひらをハンカチで拭うとむっとされたような気がして、思わず笑った。


 この大型犬、厳密には祖父母の飼い犬ではないらしい。最初からここにいて、いつの間にか当たり前に棲み着いていたらしい。あまりに賢く、無駄に吠えないために番犬代わりにちょうどいいと、追い出すことなくそのまま一緒に暮らしていたそうだ。

 首輪を嫌がった彼に、祖父が自分が使っていたネクタイを見せ、首輪代わりに首に締めてやれば、満足そうに笑ったと言っていた。それを聞いたとき、犬は笑わないだろう、と心の中で思ったものの、実際に目の前にすれば、この大型犬は笑ってもおかしくない奇妙な雰囲気を纏っている──。




 そんな、タロンと出会った頃の夢を誰かの腕に抱かれながら見た。


 日々を重ねるごとに、主として認められたというよりは私という存在を受け入れてくれたような、そんな気がする。なんとなく、タロンとは対等か、もしかしたら私の方が下位にいるような気もする。

 タロンは気高く、何ものにも犯しがたい神聖な存在だ。言葉にしてしまうと、なんとなく陳腐で笑いそうになるけれど、間違いなくそんな雰囲気を纏っている。

 ただの犬だとは思えない、タロンは不思議な犬だ。


 夢の中で夢を見ている。その感覚がおもしろくて、夢の中で笑った。私を抱く腕の持ち主も笑ったような気がした。

 細身のしなやかな身体にいつものように手足を絡める。その肌から直接伝わるぬくもりは、どこまでも私を甘やかしてくれる。額に触れるその指は現実では有り得なくて、夢の中で幸せな涙を零す。


 この家に住み始めて見るようになった夢は、私に幸福の恐怖を植え付け始めた。






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