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月影奇譚  作者: iliilii
第一章 結んで
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01 雨とお風呂とリモコンキー

「ねえタロン、今日ってお隣さんの日だっけ?」

 それに応えるかのように振り返った彼は、目が合うと再び前を向いた。

「今日はタヌキかな。シカかな」

 これには応えない。もしかしてイノシシかも。クマは勘弁してほしい。


 窓の外、木々の間から水平に射し込む朝の光。ここが山の中腹だからこその光の入り方だ。

 初めてその光を一身に浴びたとき、妙に厳かな気持ちになって、思わず突き刺さるように伸びてくる光の筋に何かを見出そうとした。

 こう、なんだろう、神秘的な何か。今思い出しても具体的な何かは浮かばないけれど。


 グラノーラの入ったボウルに落とした視線を掃き出し窓の前に座っているタロンに移す。朝日に照らされて神秘的にも見える彼は、さっきからじっと窓の外を見上げたままだ。

「もしかして、雨降る?」

 窓から視線を外さず、はっきりと頷いたタロンは、ゆっくりと立ち上がり、その大きな身体をぐうっと伸ばした。


 山の天気は変わりやすい。聞いたことはあっても、それを実感する日が来るとは思わなかった。

 晴れていたかと思ったら、おどろおどろしい雷鳴を合図にいきなりバケツをひっくり返したような豪雨に襲われる。つかの間辺りを水底に閉じ込めたかと思えば、あっという間に晴れ渡る。

 あとに残るのはぬかるんだ地面と澄み切った空気、葉にきらめく水玉と気持ちよさそうに伸びをする植物たち。それと、不機嫌なタロン。


「どうする? 断る?」

 タロンは雨が嫌いだ。これから梅雨に入ろうというのに大丈夫だろうか。

 そう思ったところで、外から軽くて間抜けなクラクションが聞こえてきた。時計を見ればきっかり七時半。この辺りでは日の出とともに動き始め、日の入りとともに息を潜める。

 仕方なさそうに玄関に向かうタロン。一瞬だけ振り向いた顔が情けなく見えた。


「お風呂の準備しておくから」

 それに一度だけしっぽを振って出かけていった。

 タロンには鍵を預けている。この家の玄関ドアは鍵を持つものが近付くと自動で開閉してくれるので、タロンのネクタイにそのリモコンキーを隠し付けている。


 タロンが見上げていた窓からは、軽トラックの荷台に飛び乗る超大型犬が見えた。飛び乗った瞬間、荷台が揺れる。

 ここの地主さんでもあるお隣の息子さんが今日もタロンを迎えに来た。お隣、とはいっても㎞単位で離れているけれど。

 窓越しに会釈すると、手を上げ不器用な笑顔と会釈を返してくれる。私より年上、兄と同じか少し年下だろうか。よく日に焼けた朴訥とした印象の人だ。一度地元を離れ、数年前に戻ってきたらしい。


 お隣さんの広大な田畑を荒らす野生動物を定期的にタロンが狩っている。そのお礼として、こんな山の中にいながら採れたての野菜をお裾分けしてもらえる。お肉は……遠慮した。スーパーに並ぶ白いトレーのお肉に慣れた私には、野性味溢れるジビエはどうしても苦手だ。ただしキジ肉を除く。キジ肉はおいしい。




 目を眇めるほど晴れ渡る空を窓越しに見上げる。洗濯はやめておこう。タロンの天気予報はよく当たる。


 タロンは不思議な犬だ。人の言葉を理解している。


 あと数日で六月の声を聞こうかというのに、今日のように朝晩はまだ少し肌寒い日もある。もう少ししたら窓を開けようと、再びダイニングテーブルに着き、残りのグラノーラを口に運ぶ。ふやけてしまったグラノーラはあまり好きじゃない。ふにゃふにゃの物体をこれ以上ふやけられてたまるかと、急いで口に詰め込んだ。


 雨が降らないうちにと窓を開け、澄んだ山の空気に家の中を浄化してもらいながら掃除する。

 換気のために開けた家中の窓をきっちり閉め、やりかけの仕事に手を付ける。


 私は古代に使われていた文字の解読を生業にしている。祖父はその研究者。父は考古学者。母は父の助手。両親は揃ってカイロに住んでいる。兄は普通のサラリーマンだ。

 子供の頃から当たり前にヒエログリフがあった。母国語のように馴染んでいる。本来なら大学に進学して私も研究者を目指せばよかったのだろうけれど、高校を卒業した時点でそれ以上の進学はやめた。家族は何も言わず仕事を回してくれる。

 大きな収入にはならない。父以外からもその伝で仕事は舞い込んでくるものの、贅沢できるほどの収入にはならない。細々と、という表現が合っている。仕事も収入も、私自身も。


 ここは静かだ。

 耳鳴りがするほどの静寂はここに来て初めて知った。

 聞こえてくるのは幾種類もの鳥のさえずりと、時々風に撫でられる木々のざわめき。それに混じるのは手元の不規則なタイプ音、紙をめくるかさついた音。

 いまどきはプログラムで自動翻訳してくれるものの、最終的にはやはり人の手に委ねられる。


 しばらくすると、タロンの遠吠えが聞こえてきた。

 狩りの終わりを告げる合図。今日は比較的近い位置から聞こえた。

 玄関にたらいの用意と、お風呂の準備をしようと立ち上がった瞬間、ぴかっと空が瞬いた。閃光から一拍遅れた雷鳴に身をすくませているうちに轟きがどんどん迫ってくる。辺りが急に暗くなる。雨の落ちる音がまばらに聞こえ始め、あっという間に土砂降りに変わる。窓の外が靄に煙る。激しい雨音が全てを覆う。


 思わず子供の頃から身につけているお守りのブレスレットを握りしめた。


 雨が嫌いなのは私も同じ。

 激しい雨音に切り取られた世界。雨粒に囲われたケージ。全ての音が掻き消され、視界から色が消える。たった一人の孤独と閉塞感に押し潰されそうになる。息が詰まりそうで喘いでしまう。


 不意に大きくなった雨音とともに、タロンが雨に濡れたまま駆け寄ってきた。

 家の中に忍び込んだ雨の匂い。玄関から点々と続く足跡と小さな水溜まり。

 振り返りそれを目にした瞬間、犬なのに人のようにしまったという顔をしたタロンが切り取られた世界に加わる。彼の身体からぽたぽたと音を立てて雨粒が床に落ちる。濡れたタロンはいつも以上に黒い。


「おかえり」

 低くなった私の声に、目の前のタロンがほとほと情けない顔をした。

 心配してくれたのだろうことがわかるから、口を衝きそうになる文句を丸ごとのみ込んで、タオルと足ふき用のマットを取りに行く。背後から、ひたひたと玄関に戻るタロンの足音を弱まりだした雨音の中から拾った。いつもなら音もなく歩くのに、これ以上床を濡らさないよう自分が作り出した水溜まりをたどっていく様子が振り返らずともありありと目に浮かび、思わず吹き出してしまった。


 タロンは不思議な犬だ。お風呂も勝手に入る。


 どうやってお風呂を使っているのかは知らない。好奇心から近付こうとする度に、お風呂の中から野獣のような呻り声が聞こえ、身の毛がよだつほどの威嚇に覗くのを諦めた。

 使用後の浴室にあのもっふりした毛が落ちていたことはない。まさか掃除までしているわけでもあるまいし。不思議で仕方ないものの、身体を震わせて水をはじき飛ばしただろう水玉が天井にまで残っているのを見ると、なんとなく笑ってしまう。

 漏れ聞こえてくる水音から、器用にレバーハンドルを操作してシャワーを使っているのも、湯船に浸かっていることもわかっている。お風呂好きな犬なんておもしろくて仕方がない。


 タロンの足跡と水溜まりを雑巾で拭きながら、つい声に出して笑った。

 今も聞こえてくるのは、湯船に浸かっているだろうかすかな水音。もしかしたら、ふーっと大きく息をついているのかもしれない。


 まだ少し湿り気が残るタロンの大きな身体をドライヤーで乾かす。耳のいいタロンにはドライヤーの音がうるさいのか、心なしかぴんと立った長く大きな耳がうなだれている。黒い狼のようにも見えるその体毛は、ショートコートにしては柔らかく手触りがいい。


「ご飯、食べられた?」

 乾かし終わったドライヤーのコードをまとめながら訊けば、頷きが返される。


 洗濯カゴに濡れたネクタイが入っている。お風呂に入るときに外したのだろう。その隠しポケットから鍵を取り出し、替えのネクタイにそれを入れ、タロンの首に緩めに締める。

 ネクタイの締め方はインターネットに教わった。男の人にではなく、大型犬の首にネクタイを締めるために締め方を検索する自分がなんだかおもしろくて、彼のためにネクタイを選ぶこともなんだか楽しい。

 少しきつかったのか、両前足に一本ずつあるかぎ爪を器用に結び目に引っかけ、仕事終わりのサラリーマンのように左右に揺らしながら結び目を緩めた。タロンは人でいうところの薬指の爪だけがネコ科の爪のように引っ込む仕様だ。犬にそんな爪があるなんて知らなかった。


「もしかして、今日の獲物はイノシシだった?」

 それにまるで笑うかのように歯を剥いた。見えた犬歯が白く艶めいている。

 どうやらこの辺りにはイノシシもいるらしい。


 タロンは不思議な犬だ。互いしかいない場所で付かず離れずの距離感がちょうどよく、いつの間にかかけがえのない存在になっている。


 膝をつきその首に抱きつけば、肩の上に顎がのる。

 不意打ちで舐められた首筋。くすぐったくて首をすくめる。分厚い前髪を鼻先でかき分け、そこに鼻の先を押しつけられたかと思えば、額をぺろんとひと舐めされた。

 それにまるで救われた気持ちになる。


 タロンは不思議な犬だ。まるで人と暮らしているような、そんな気になる。






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