隣の郵便局員さん。
草津結乃香は高校生である。
最寄駅から数駅のところにある祭神高校に通う、高校一年生である。
実は彼女、もともともっと遠くに住んでいて、高校合格を機に祭神高校の比較的近くに家族で移り住んできている。だから近くに中学の頃の同級生は見かけない。
家族と言ったが、結乃香本人と母親の二人である。現代に典型的な一人っ子の核家族、と思えるかもしれない。だが結乃香には、年の離れた兄がいる。名前を稜宇哉といい、もうとっくに大学も卒業して働いており、近々結婚することにもなっていた。
「ただいま母さん、結乃香」
引っ越したことはメールで伝えていたので、落ち着いた頃に稜宇哉はやって来た。
「おかえり、お兄ちゃん」
「あれ?母さんは?」
「今買い物行ってるよ。私はお留守番」
結乃香はお留守番して勉強……というわけではなく、一生懸命テレビに向かってゲームをしていた。
「……ほんとお前ゲーム癖抜けないな」
「楽しいよ?うわっぐはっ痛いっ!お兄ちゃんもやる?」
「やらない。久しぶりに会うし、引っ越したって聞いたから新居を見に来たんだよ。あと、結乃香に用があって」
「私に?」
「裕祐先輩から手紙もらったんだよ。俺と結乃香と裕祐先輩で、久しぶりに会って飯でも食うかって」
「ほんと?いつ?」
「先輩も仕事が忙しいから、今度の連休にでもどうだ、って」
「よし分かった!じゃあとりあえず全部空けとくね!」
高瀬裕祐。
実は結乃香の同級生とかではなく、稜宇哉の大学時代のバイト先の先輩である。稜宇哉は大学時代ずっと郵便局でアルバイトをしていて、始めたときからお世話になったのがこの裕祐先輩なのだ。
「この郵便局、やっぱ人手が、それも若い人手が全然足りないんだと。新人の稜宇哉には悪いけど、早速期待がかかってるんだぜ」
稜宇哉は入った時からそう言われていたが、実際アルバイトは裕祐先輩と稜宇哉の二人しかおらず、正規の職員はみな四十代以上のおじさんだったらしい。その頃結乃香はまだ小学校低学年だったが、稜宇哉のかわいい妹、と言われて郵便局に遊びに行っては裕祐先輩にかわいがられていた。結乃香もそのことを覚えていて、また他のことでもいろいろお世話になった。稜宇哉は大学卒業と同時に郵便局のバイトを辞めたが、裕祐先輩はその後もい続け、そのまま郵便局に就職した。つまり会うのはその時以来になる。
ちょうど高校に入って落ち着いてきた頃だったので、結乃香は再び稜宇哉がやってきて一緒に行くのを楽しみにしていた。
「そう言えばお兄ちゃんとこうしてどっか行くのも久しぶりだね」
「思春期女子がよくそんなぞわっとするようなこと言えるな」
「『うっせーこのクソ兄貴』って言われるよりマシじゃない?」
「あ、でも結乃香にそれ言われたら実家に帰って来れない。怖すぎて」
「それに私まだ思春期来てない」
「それはあり得ん。むしろ思春期終わりかけの方が正しいだろ」
「……思春期終わりかけ、って言ったら何か残念感が増す気がする」
「んなわけあるか。女の子は思春期終わってからがスタートだろ」
「また分かったような口利いちゃって」
「……って、うちの奥さんが言ってた」
「ひゅーひゅー」
「すまん。俺が間違ってた。お前高校生の面かぶった小学生だろ、しかも男子小学生」
昔からそうだった。
稜宇哉が大学に通っていた頃はまだ一緒に住んでいたのだが、会えばいつもこんな軽口をたたき合っていた。家でお父さんとお母さんにしか会わなくなった今、こういうことも懐かしく感じられる。兄でさえこんなに懐かしんでいるのに、裕祐先輩と会って果たして沈黙が流れたり、あるいは気まずい感じにならなきゃいいけど、と結乃香は内心心配していた。
裕祐先輩と落ち合う場所までは遠かったので、稜宇哉が車で結乃香を拾いに来ていた。結乃香の記憶では確か稜宇哉はそんなにお金持ちじゃないはずなのだが、やたら乗り心地のいい車だった。助手席ふかふか!何これ!とはしゃいでいるあたり、やっぱり思春期来てない系女子なんじゃないかと心配になった。
久しぶりに会って積もる話、どうでもいい話、しょうもない話をいろいろしているうちに目的地に着いた。
「ここは……」
「懐かしいだろ。実を言うと俺もすんごい懐かしい」
「お、来たか。久しぶり」
そこは稜宇哉が働いていた、そして結乃香がよく遊びに行った郵便局だった。
「転勤、なかったんですね」
「一応な。でも驚くぜ。あの時いたおじさんたちはみんないなくなって、だいぶ平均年齢が若くなったから。それに女の人がたくさん来て、ある意味働きづらくなったし」
その男の人―――裕祐先輩は郵便局から出てきて、、冗談交じりにそうあいさつした。
ゆうすけさんへ
お元気ですか。わたしは元気です。夏休みになって宿だいがたくさん出ました。お兄ちゃんが文句を言っておしえてくれないです。またゆうびんきょくにあそびに行ったときに分からないところをおしえてほしいです。
裕祐先輩は手紙とか、はがきが大好きだった。一度直接話を聞いたことがあるのだが、人の思いが詰まったはがきとか手紙は、いい匂いがするらしい。結乃香もそれを聞いた時に嗅いでみたが、よく分からない匂いがうっすらとしただけで特に何も思わなかった。ということを言うと、
「はは、まあ普通はそうだと思うよ。むしろ僕の方が変わってるかもしれない。まあこんなの言ったら古くせえ、何だ分かったようなこと言って、とかなんとか言われるかもしれないけど、いまだにメールとかには慣れないんだよね」
だから結乃香が例え何でもないことで手紙を書いて直接裕祐先輩に渡しても、あるいは近いのにわざわざ裕祐先輩の家宛てにポストに出しても、届くと必ずありがとう、と笑顔で受け取ってくれた。
それだけだったかもしれないが、結乃香は手紙の良さを裕祐先輩のおかげで学べたし、裕祐先輩からもらった返事の手紙も持っていたりする。別に裕祐先輩のことが好きだった、という恋愛感情はそこになくて、ただ何でもないことを手紙に書き合う関係だった。
「……そっか、結乃香ちゃんももう高校生かー」
「はい!」
「元気そうで何よりだよ。稜宇哉、お前ちゃんとかまってやれよ、女子高生ほど複雑な生き物はいないからな」
「すごい分かったような言い方ですね」
「なんかデジャヴだー」
「そう言えば昔結乃香ちゃんにもらった手紙、いまだに全部置いてあるんだよなー」
「えっ!捨ててくださいよ恥ずかしい……」
「いやいや、そう言いつつそっちも捨ててないだろ?それと一緒だよ」
「ぐぬ……」
「それだけ手紙が好きだったらやっぱり、郵便局員は天職でしたね」
「まあ、それは思うね。別に結乃香ちゃんのじゃなくても、手紙を見ると中身を見なくても思いが詰まってるんだな、ってなんとなく分かるから。最近は手紙の量自体が減ってきてるけど、やっぱり手紙、っていう手段を大切にしてほしい」
裕祐先輩は携帯を持っていないらしい。電子的なやり取りが嫌でそうしてるわけじゃないから、どうしてもその必要があるなら携帯は持つつもりでいるけど、と前置きをして、またいつでもいいから何気ないことで手紙送ってよ、と裕祐先輩は結乃香に言った。
「……俺には何にもコメントなしですか」
「別にお前もいいよ、何ならもうすぐ結婚するんだろ?奥さんとの写真つけて送ってこい、これは上司に対する報告と義務だ」
「そんな義務あってたまりますか」
「義務だ義務、僕はお前の報告を受け取る権利があるからな、遠慮なく使わせてもらう」
「めちゃくちゃなこと言うな……」
その日は夕方ごろには帰ってきた。
「……そうだ」
結乃香は適当にルーズリーフを引っ張り出してきて、ボールペンで手紙を書き始めた。もちろん裕祐先輩に向けてだ。思いの詰まった手紙はいい匂いがする、と言っていたが、ルーズリーフでもするんだろうか。
裕祐先輩へ
この間は、ありがとうございました!今は引っ越して中学校の頃の同級生もいない高校に通っています。でも通っている祭神高校には、ちょっと変わった子がたくさんいてしかも話しかけやすかったので、もう友達ができました。写真も一緒に送りますね。もうだいぶ遠いところに引っ越しちゃったので気軽に遊びに行くことはできないですけど、またいつか会えたらいいですね!また何か面白いことがあったら手紙書きますね!
結乃香
「結乃香?なんか、手紙が来てるけど」
「ああ、裕祐先輩だ」
「裕祐先輩?あんたまた手紙書いてるの?」
「うん、これからもときたま手紙書いてみようかな、って思ってて」
「でも今どき手紙の方がいいってこだわる若い子って、珍しいわねえ」
連休が明けて少し経ったその日、結乃香が学校から帰ってきた時のことだった。母親の反応に答えつつ自分の部屋に行き、手紙を開けた。
結乃香ちゃんへ
手紙ありがとう。この間は連休中がいいって言ったけどどうも忙しくて、なかなか返事が書けなかったことを許してください。
写真も見ました。すごくフレンドリーで、結乃香ちゃんにとっていい友達になりそうだな、というのが伝わってきました。高校生活、めいっぱい楽しんでください。
もしかするとこっちから手紙を書くことはできないかもしれないけど、結乃香ちゃんからもらった手紙にはちゃんと返すので、これからもよろしく。
裕祐
p.s. ルーズリーフでも、ちゃんと思いがあればいい匂いがします。結乃香ちゃんの書いてくれた手紙も、これからの生活に期待が高まる、そんな爽やかな香りがしました。