Moanin'
「おはようございます、叔父さん」
「おはよう、晃。そういえば最近兄さんから連絡が来ないけど、なにか聞いてるかい?」
「いや、なにも……」
「そうか。一体どこでなにをしてるんだろうね」
本当にあのアホ親父は人に迷惑をかけることしかしないな。
人のいい叔父さんとは正反対で、兄弟でこうも違うのかと呆れを通り越して感心する。
親父は自称考古学者で、五年前に国外へ飛び出したきり帰ってこない。時々、俺の生活費を送ってくるので、生きていることは確かなのだろう。
そんな親父だからか、母親は俺が物心ついたくらいに家を出ていった。今ではもう顔を思い出すことも出来ない。俺も一緒に連れていってくれればと嘆いたこともあるが、今は出ていった理由も大体想像出来る。
だから俺はこの家に来て初めて家族というものを実感した。叔父さんと叔母さん、それと朔には本当に感謝している。
もっとも、朔への恨みはそれ以上のものがあるが。
「おはよー」
俺が朝食を食べ終えた頃にようやく朔が起きてきた。
叔父さんはもう家を出てしまっている。つまりそれは、俺たちが家を出る時間もそう遠くはないということ。朔はこのあとの支度も遅いので、このままじゃ遅刻ギリギリだ。朔に合わせて俺まで遅刻するなんて、絶対に嫌だ。
「朔、五分で食べて五分で支度しろ。遅れたらお仕置きな」
「晃ぁ、昨日言ったことわかってないみたいねぇ。いい度胸じゃない」
「うるさい。黙って食べろよ」
「……はい」
そして朔は朝食を流し込むように食べ始める。悔しそうな顔をしているが、昨日の俺の屈辱に比べたら大したことではない。
まぁ、この調子なら余裕を持って登校出来そうだ。俺もさっさと支度を済ませてしまおう。
「はい晃くん、お弁当。あとこれ、朔に渡しといてね」
「あ、ありがとうございます」
「今日のおかずはミートボール。ちゃんと手作りよっ」
「おおっ、やった!」
「ふふふっ」
支度を済ませてリビングでのんびりとしていたところで、叔母さんから二人分の弁当を受け取る。毎朝作ってくれることに感謝しつつ鞄に入れた。
叔母さんはいつもほんわかしていて、どこか掴み所のない人だ。なんというか、しだれ柳のようにしなやかで、綿菓子のように柔らかいイメージ。
俺と朔の、この奇妙で信じがたい関係にもまったく動じない人。
というより、気づいていないのではと思う程にノータッチだ。
叔父さんも似たようなもので、俺たちを見ても、仲がいいなぁなどと笑っている。この辺はアホ親父の弟なんだと実感するところだ。きっと常識の一部が欠落しているのだ。
こんな二人だからか、俺は思春期特有の反抗をぶつけることも出来ず、その衝動は自然と朔へ向かう。
といっても、それを自覚できるほどの些細な反抗期で、比較的いい子な高校生だと思う。逆に、最近の朔は手当たり次第に不満を撒き散らすから困ったものだ。
まさに反抗期真っ只中。
「……お待たせ」
「お、意外と早かったね」
あれから、およそ八分とちょっと。やってきた朔はいつもの髪型だが、所々に寝癖が見て取れる。もちろん、ご機嫌斜めだ。
朔は親の敵かという程に俺を睨みつける。ただ支度を急かした程度だというのに、この表現はおかしいのでは?
「晃ぁ、覚悟しときなさい。今夜はたっぷり遊んであげるから。ごめんなさいっ、朔様ぁって言わせてあげるわ」
「ふざけんな。おまえが起きるのが遅いだけだろうが。……これ、弁当。さっさと行くぞ」
「ぐぅ……」
朔は弁当を受けとると俺を睨みながら鞄に入れる。
まったく、恐ろしい程に理不尽だ。
こんな理不尽なことがまかり通るのは、あの魔法使いの仕業であり、俺たちの五年間の結果なのだ。そう、俺たちは赤いお姉さんからもらったパンを食べたせいで、お互いの命令に逆らえなくなってしまった。
俺は昼、朔は夜。
色々と調べてみた結果、基準は日の出と日の入り。つまり、太陽が出ている間は朔は俺の命令に逆らえず、太陽が沈むとそれが逆転する。
これを五年間繰り返してきた。
もちろん、初めはこんなではなかった。
あのパンにそんな力があるとは思いもしてなかったから。
きっかけはテレビのチャンネル争いだった気がする。夜の番組を朔と取り合っても、一度も勝てない。それどころか、朔の一言であっさり引いてしまう自分がいた。
そこで俺は試しに朝に朔の見ていた番組を変えてみた。
当然のように朔は文句を言うが、俺が黙れと言うと本当に黙ってしまった。
そんなことを繰り返しているうちに、俺たちは自分の置かれている状況を薄々と理解し始めた。本当に理解していたのなら、この時点で止めることが出来ただろう。
だが、俺たちは人を支配するという甘い密に誘われて、次第に命令はエスカレートしていった。それでもまだ行くところまで行っていないのは、どうにか理性というものが働いているお陰だ。
それもいつまで持つかわからない。
……もう止められないのだ。
登校中、朔は手櫛で必死に髪を梳かしていた。
俺たちの通う花柳高校は、自宅から一番近い公立高校だ。それでいて進学率も悪くなく、俺も朔も酷く馬鹿というわけでもないので、なるべくしてなったという風にそこへ入学した。
家から徒歩十分というのが最大の魅力だが、そのせいで朔の寝坊癖がついたのは否めない。
「あー、もぅ……直んない。どーしてくれんのよ」
「自業自得だろ。それに、誰も気にしねーよ。そんなの」
「むっ。女の子にそんなこと言うなんて、ちょっと常識ないんじゃない? それにね、私はモテるんだから。身嗜みはキチンとしなくちゃ」
その割りには告白されることなんて滅多にないけどな。
男連中の間では朔は観賞用ということで落ち着いているらしい。
「晃だって、言葉遣い戻せば女の子に大人気なのに」
「絶対に嫌だ」
愛玩動物を見るような目で見られるのは御免だ。
朔以外の女の子にまでそんな扱いを受けるなんて考えると、本当に情けなくなってくる。
「あ、宮内」
「ん?」
朔の言葉で我に返り指さす方をを向くと、反対側の歩道で信号待ちをしている見知った顔があった。相変わらず間の抜けた、だらしない表情をした男。
そいつは俺たちに気付くと、わざわざこっちにやって来る。
「……よう、東雲兄妹」
「だから、兄妹じゃないって言ってんだろ」
「気にすんな、これは俺の精神の安定のためだ。おまえらが双子の兄妹だと思い込まないと刺激が大きすぎる」
宮内は乾いた笑みを浮かべながらそんなことを言う。
こいつとは中学の頃からの仲で、俺と朔の数少ない共通の友人だ。今はもう吹っ切れているようだが、ちょっと前まで朔のことが好きだったのは俺とこいつの秘密。
どうやら朔は恋愛ごとにとんと無頓着らしい。
「今日はちょっと早いな。いつもは学校で会うのに」
「こいつを急かしたからな」
「ふんっ」
「……ああ、それでこの寝癖か。かわいいな」
「え、かわいいの? 寝癖ついた女の子の方がかわいいの?」
「俺はありだ」
グッと親指を立て、気色悪いウィンクをする宮内。
おまえは朔ならなんでもありだろうが。
「つーか、朝っぱらからご主人様プレイか。楽しそうだな。俺も混ぜてくれよ、それ」
「プレイじゃねーよ。なんだそれ」
「だってよ、朔ちゃんに命令したりされたりしてんだろ? 羨ましすぎるぞ。あれか、エロエロか? エロエロなのか?」
「宮内、顔がやらしー」
「……もう学校中の噂になってんぞ。晃と朔ちゃんが、夜な夜なご主人様プレイを楽しんでるとな」
「なっ……なにそれ。噂? 噂ってなに?」
「まぁ、俺はおまえらを昔から知ってるから、そんなことはないと思ってるが……そんな楽しいのか? 病み付きになるほど楽しいのか?」
大真面目な顔してそんなことを聞いてくる。きっと宮内の脳内は、色々な妄想が入り乱れて大変なことになっているのだろう。
朔への想いと一緒に、何か大切なのもまで吹っ切れてしまっているようだ。
いや……そんなことよりもだ。
俺と朔の関係がそんな風に見られているなんて。ご主人様プレイ……凄まじく嫌な響きだ。
あの夏の出来事は、今まで誰にも話したことがない。宮内はもちろんのこと、叔父さん叔母さんにもだ。だから周囲には俺と朔がそういうプレイをしているように見えてしまうのか。時折感じる嫌な視線はそのせいだったのか……。
とても恥ずかしい。
「あんたが学校で私に命令するからよっ、このバカっ!」
「なっ……俺のせいだって言うのかっ」
「いや、放課後に朔ちゃんが楽しそうに命令してる姿も、度々目撃されてるぞ」
「い、いやーっ!」
頭を抱えて蹲る朔。気がつけば校門の近くまで来ていて、登校中の学生に注視されている。
隣にいる俺まで恥ずかしい。
「もういや……お嫁にいけない」
「気にすんな。既におまえたちは変態カップルの名を手に入れてる。そのままいっちまえ」
「「ひいいっ……」」
俺と朔のうめき声がユニゾンしながら響き渡る。
変態カップル……。
宮内が頑なに俺たちを兄妹設定にしたい理由がわかった気がする。ついでに朔が鑑賞用などと言われている理由もだ。
これは俺も耐えられそうにない。
……へ、変態か。いつか誤解がとけるといいな。……いや、そもそも誤解じゃなくて事実? 俺たちは本当に変態なのか?
あぁ、もうお婿にいけない……。